12・2 深まる愛
その晩、夫婦の寝室にやって来たハインツはなぜかしょんぼりと肩を落としていた。
(あら。また怒られて小さくなっている大型犬みたいになっているわ。なにか嫌なことでもあったのかしら)
ベッドの中のエルゼは、読みかけの本をぱたりと閉じる。
なんて声をかけようか、そもそも話題にあげていいのかと逡巡していると、ハインツはもそもそと彼女のとなりにやって来た。
(垂れ下がった大きな耳が見えるようだわ。今日はあんなに楽しいピクニックをしたのに、可哀想に)
エルゼは静かに手を伸ばしてハインツの頬にふれた。
彼がエルゼを見る。
「悪かった」
「……なんのことです?」
「ピクニックで君を振り回しただろう? 女性にすることではない、紳士として最低だと父上と近侍と……とにかく山ほどの人間にこってり叱られた」
エルゼは大きく瞬きをして。それからぷっと噴き出してしまった。
到底二十五歳の王子が怒られるような内容ではない。それを大真面目に説教をする人、される人たちの姿を想像したら、おかしくなってしまったのだ。全員、人が良すぎる。
「ハインツ殿下。実を言えば、少し怖かったです」
「やっぱり……! 考え無しで本当にすまなかった! 君を見ていたら嬉しい気持ちが溢れてしまって」
エルゼはふるふると首を横に振る。
「怖かったけれど、それよりもハインツ殿下があまりに幸せそうに笑っているから、私もとても幸せな気分になったんです。楽しかったですよ」
「エルゼ……!」
ハインツはエルゼの手を取り、強く唇を押し当てた。
「ありがとう、エルゼ。君を好きで好きでたまらないんだ」
ええ、知っているわとエルゼは微笑む。
「一度は死んだと思った君がそばにいてくれることが嬉しくて、気持ちが押さえつけられない。そもそも君以外の女性に興味がなかったから、女性への正しい振る舞いもわからない」
「まるで子どものようですね」
くすりと笑って、空いている手でもういちど彼の頬に触れた。
必死に弁明しようとしているハインツがとても愛おしく感じられる。彼が強引なのもマイペースなのも、エルゼとの再会に舞い上がり過ぎているからなのだと思うと微笑ましく思えた。
「大好きだ、エルゼ」
「ええ、私も」
以前だったらためらってしまった言葉が、今はすんなりと出る。
そのことも、エルゼはとても嬉しかった。
◇
「あら。ピクニックの行き先は、あの丘だったの?」
翌日、庭園のガゼボでカロリーネとふたりきりのお茶会。
エルゼがきのう訪れた場所を告げると、カロリーネは目をみはった。
「すばらしい眺望だったでしょう? 元々が高い場所にある丘だから都が一望できるのよね。王宮もよく見えるし」
「すごく素敵でした! カロリーネ様もお好きな場所なのですか?」
エルゼはハインツの『とっておき!』の場所だと聞いている。
「そうね。ヨーゼフ殿下がお好きだったの。小さいころ、まだハインツ殿下のお母様がご存命だったころに、家族全員で遊びにいったのですって。とても大切な思い出の場所のようよ」
カロリーネは笑顔でそう言った。
けれどどこか悲しそうに見える。
(またこの表情。こういうときは必ずヨーゼフ殿下が絡んでいる)
いまだにヨーゼフを愛しているらしいカロリーネに、エルゼは胸の奥に痛みを感じる。
(ハインツ殿下もお兄様のことがつらそうだし。いつかきちんと挨拶をしたいけれど、それを伝えることすら憚れる雰囲気があるのよね)
それほどまでにヨーゼフの状態は悪いのかと思うと、おいそれと話題を口にだすことはできなかった。
「そういえば」とカロリーネは人差し指を顎に沿えて、考えるような表情をした。「陛下はヨーゼフ殿下のことがあって以来、プライベートで外出をなさるのは初めてじゃなかったかしら」
うん、確かにそのはずだったわとひとりごちるカロリーネ。
「なるほど、だからあれほどの護衛がいたのですね」
母国で王宮勤めをしていた身としては、規模の違いに戸惑ったのだった。
「……そうね。平定したとはいえ内乱が起きてからまだ三年だもの。用心するに越したことはないわ」
カロリーネの言葉に、エルゼはたしかにとうなずく。
「お久しぶりの外出で、陛下もお喜びになったでしょうね」
「ええ、とても楽しそうでした。でも最後は急に引き上げることになってしまって。残念だったかもしれません」
ヴァルターとハインツ、エルゼの三人で追いかけっこをしていたときのことだった。国王に急ぎの仕事の連絡が入ったようで、予定よりもやや早い帰宅が決まったのだった。
「近々、また遊びにいきたいです。よければカロリーネ様もご一緒にどうでしょう?」
「私?」と、カロリーネは目をみはる。「ダメよ、私は家族ではないもの」
「でも私の友人です。ハインツ殿下や陛下との仲だって私よりもずっと長くて深いのだから、なんの問題もないと思うのですけど……」
話しているうちに、やはりよくない提案だっただろうかと不安になり、エルゼの声は力が抜けていった。
エルゼは家族や友達と、楽しくでかけたことがない。だから次は友人もいればより楽しくなると思ったのだけれど。
「……では正直に言うわね。あの丘に行くとしたら、私はまだヨーゼフ殿下と行きたいわ」
「あ……」
エルゼの顔からさっと血の気が引く。
(さっきも気づいていたのに! 私はなんてひどいことを)
「ごめんなさい、カロリーネ様」
「いやだ、そんなに深刻な顔をしないで」カロリーネはエルゼに微笑む。「私が未練がましいだけだもの。代わりにほかのお出かけをしましょう。令嬢たちに人気のカフェはどうかしら?」
「いいですね。行きたいです」
カロリーネの優しい気遣いに、エルゼは情けない気持ちを押さえて、笑みを浮かべる。
それから話題は都にある様々なカフェに移った。ふたりが夢中になっていると—―。
「エルゼ!」
突然ハインツが現れた。
「どうなさったのですか。公務中では?」
エルゼもカロリーネも立ち上がり、ハインツを迎える。
「ああ、うん、ちょっと合間に君の顔を見たくなってな」
にかりと笑い、ハインツはエルゼを抱き寄せ頬にキスをする。
その様子を見てふふっと笑うカロリーネ。
「ハインツ殿下は隙さえあればエルゼにくっついていようとしますのね」
「あ……あ。エルゼを愛しているからな」
いっそう抱き寄せられるエルゼ。
(ヨーゼフ殿下を失ったカロリーネ様の前で、これはよくないかしら!?)
そう思ったエルゼだったけれど、カロリーネは屈託のない笑顔を浮かべている。
「ハインツ殿下の初恋が実って、本当によかったですわ」
「……ありがとな、カロリーネ」
その声にはどこか苦渋が滲んでいるように聞こえて。
エルゼは、ヨーゼフ殿下のいないさみしさを私が少しでもまぎらわせることができたら、と願った。




