10
いつか、アンナは言っていた。
『そしたらあんたは一人ぼっちになっちゃうじゃないのよ』
その言葉の意味を俺が理解したのは、俺が13になった春のことだった。
アンナが結婚することになったのだ。
アンナは16歳。
艶やかな黒髪に、陶器のようにすべらかな白い肌。
切れ長の蒼い眼に、めりはりのある均整の取れたすらりとした体つき。
アンナがカインの仲間でもある騎士たちの間で、とてつもなく人気があるのは俺だって知っていた。何人もの騎士たちが、アンナに恋文を送っているという話だって知っていた。
けれどアンナは、俺の前ではそういう素振りを見せることはなかった。
俺の方から水を向けても、アンナは興味なさそうに手をひらひら振って見せるだけだった。
だから俺は、結婚なんていうのはもっとずっと先の話だと思っていたのだ。
俺たちはまだまだ子供で。
まだまだ時間はあると思っていた。
けれど、そうではなかった。
この世界において、女性の結婚適齢期というのは俺が思っていたよりもずっとずっと早かった。ルーナンス家ほどの名家の娘であれば、本当ならばもっと早く結婚が決まっていてもおかしくなかったらしい。
結婚の報告にやってきたアンナは、どこか吹っ切れたような顔をしていた。
俺の部屋の二人きりのお茶会。
ふわふわのカーペットの上に二人子供のようにぺたりと座り、背の低いママゴトのような小さなテーブルを囲む。
「……アンナは、それでいいのか?」
「いいに決まってるわよ。ギデオン様は良い方だもの」
「そっか」
アンナの夫となる男は、ギデオン・アスト・クルーガーという騎士だった。
大事な幼馴染の結婚相手となる男だ。
念には念を入れて、俺はその男のことを調べあげていた。
そしてわかったのは、そいつが良い奴だということ。
少なくとも評判は良いし、そいつのことを悪くいうような奴はいなかった。
どんな男なのか気になって、俺もこっそり様子を見に行った。
鍛え上げられた長躯に、金茶色の髪をしたいかにも『騎士』といった様子の男だった。カインがどこか『暗黒騎士』っぽい雰囲気を漂わせているなら、ギデオンはなんだか『光の勇者』っぽかった。
ファンタジー映画で主役をやってそうな男だ。
ドラゴンとか魔王とかそのうち倒しに行きそうである。
年はアンナより四つ年上の二十歳で、家柄ももちろんだが、すでに若手の正騎士の間ではめきめきと頭角を現している優秀な人物らしい。
非の打ちどころのない男だ。
でも。
でも。
俺は喉から出かけた言葉を、アンナが淹れてくれた紅茶と一緒に呑み込む。
本当は聞きたかった。
なあ、アンナ。
お前、そいつのこと好きなの?
俺の中では結婚というのは、好きあった男女がするものだ。
家柄とか、そういうのよりも大事なのは当事者同士の気持ちであるはずだ。
アイシャの体に入る前の俺は17歳の男子高校生で、その頃の俺といったら恋愛よりも部活や男同士でつるんでいる方が楽しいというようなガキだった。可愛い女の子を見たら「おっ」と思うことはあっても、付き合うだとか、ましてや結婚なんて考えたこともなかった。
アンナは、そんな俺よりも一つ年下だ。
16歳で、親の決めた相手に嫁ぐのはどんな気持ちがするものなのだろう。
少なくとも俺は、ラウルがいきなり俺の結婚相手を連れてきたりなんかしたら途方に暮れると思う。
「……アイシャ様、考えてることが顔に出てますよ」
「え」
くすっと笑いながら、アンナが口を開いた。
「ギデオン様は良い方です。両家の間で結婚の話が出て以来、マメに手紙をくださるんです。きっと、少しでも私が安心して嫁いで来れるようにと気遣ってくださってるんでしょうね」
「……うん」
「私は大丈夫です。ギデオン様は良い方です」
だから、きっと好きになれます。
そんな、音にはならない言葉の続きを聞いたような気がした。
「それよりも……私は、アイシャ様の方が心配です」
「俺?」
「ギデオン様に嫁いだら……今までのようにはお傍にいられなくなりますから」
「……っ」
アンナの言葉に、ずきんと胸が痛んだ。
そうだ。
アンナは結婚する。
嫁いでしまう。
他の男のものになる。
そうしたら、アンナは今までのようには俺のそばにはいてくれなくなる。
結婚後も、俺付きの侍女として働いてくれるという話にはなっているが、夕方にはギデオンの屋敷に帰り、ギデオンと夕食を共にし、ギデオンとともに眠る。
「もうちょっと付き合えよ」「仕方ないですね」なんて気軽な会話で引き留めて、だらだらと一緒に過ごす時間はきっとなくなってしまう。
ずっと一緒だったアンナ。
綺麗で優しくて、そしてちょっとだけ怖いアンナ。
俺の世話を焼き、たくさん優しくしてくれたアンナ。
俺はきっとアンナが好きだった。
それが恋なのかどうか、俺にはよくわからない。
俺の体はアイシャのもので、女だ。
だからなのか、アンナのことは好きだけれど、あまり触れたいというような性的な欲求は感じたことはない。
でも触れてぬくもりは感じたい。
でもそばにはいてほしい。
アンナの「一番」が他の男になるのは、嫌だと思う。
俺が俺として、男の体のままだったのなら、きっともっと違った想いを抱いていたのだろうか。
アンナに触れて、抱きしめて、俺のものにしたいと思ったのだろうか。
「……なあ」
「なんですか?」
「俺、体は女じゃん?」
「そうですね、存じ上げております」
「だから、浮気にはならないと思う」
「何言ってんですか」
びし。
久しぶりにアンナに小突かれた。
それが嬉しくて、切なくて、俺はなんだか目元がじんわりと熱くなるのを感じながら小さく笑う。
「……触ってもいい?」
「…………」
アンナは困ったように眉尻を下げた。
それから小さく笑って、頷いた。
「いいですよ。アイシャ様だから特別です」
「……ありがと」
きっと、アンナもこんなのはこれが最期だってわかっている。
俺たちは何気なく絨毯から立ち上がると、天蓋から下がるやたらひらひらしたレース飾りをかきわけてベッドへと移動した。
二人並んで座る。
「……俺さ」
「はい」
「なんかよくわかんねーけど、アンナのこと好きだよ」
恋なのか、友情なのか俺にはわからない。
わかっているのは、もうすぐアンナが嫁いでしまって、そうなったらもうこの気持ちが実ることはないということだけだ。
「アイシャ様」
「ん?」
「私も、なんかよくわからないけど、アイシャ様のこと好きですよ」
「そっか」
「はい」
もしかしたら。
もしかしたら。
アンナも、俺のことを同じ程度に想ってくれていたら良い。
アイシャという女の体の中に入っている俺という存在を、扱いかねる程度には迷っていてくれたら良い。
俺がアンナへの気持ちの正体をわかりかねているように。
アンナも、俺を想ってくれていたら良い。
そんなことを想いながら、そっとアンナをベッドに押し倒した。
ドキドキしながらアンナの胸に手を添える。
柔らかい。
ふわふわしていて、温かい。
俺のとは全然違う。
サイズが違うからか。
それとも、アンナだからなのか。
柔らかな肉の向こうから、とくとくと早いリズムの鼓動が響いてくる。
「アンナ」
「はい」
「……すき」
そう言って触れた初めての口づけは、紅茶の味がした。
俺と、アンナ、二人だけの秘密。
そっと触れただけの、柔らかなファーストキス。
アンナのこれからの幸せを願うように。
終わる子供時代の最後を惜しむように。
ぎゅっとアンナの体を抱きしめる。
柔らかく、たおやかな女性の体。
きっと俺が元の男の体のままだったなら、これだけじゃ我慢できなくなっていたのかもしれない。体の衝動に引きずられて、アンナの体を暴いてしまっていたのかもしれない。
けれど、俺の体は女で。
抱きしめた体から伝わる柔らかな感触と、暖かな体温だけで、すっかり満たされてしまった。
「……ギデオンには内緒な」
「はい、内緒です」
顔を寄せ合い、こつんと額を合わせて。
俺たちはくすくすと共犯者同士の笑いをこぼしあった。
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