今度の日曜日
無事にトイレを終えて部屋に戻ると(お兄さんが廊下でマユちゃんの部屋に耳を押し付けていた。怖くて、「マユちゃん……」と呼ぶと、マユちゃんはわかっていたのか、凄い速度で扉を開けた。お兄さんは一瞬前につんのめり、すぐに背後に吹っ飛んで、向かいの扉に後頭部をぶつけて、動かなくなる。「ほら、今のうち」マユちゃんは重そうなナップザックを持っている)、もう遅い時間になっていることに気づいた。これ以上遅くなると、お母さんに怒られるので、私は帰ろうと思った。
「待って、カナちゃん」
その意図を読み取ってか、マユちゃんは立ちふさがるように、私の前に立った。「最後に、カナちゃんにお願いがあるんだけど、いい?」
先ほどまでとは打って変わって真剣な物言いで、私は「何?」と反射的に口にしていた。
「今度の日曜日、暇?」
「……塾は無いし、多分暇だよ」
「じゃあさ、また一緒に遊ぼう」
「いいけど、何する? あ、今、この前テレビで放送していた映画の、一番新しいのが上映しているから、それでも観に行く?」
「あの映画のパート三は評判悪いから、辞めておこう。それよりも、私ね、行きたいところがあるの!」
「どこ?」「お化け屋敷」
間髪入れず、マユちゃんは言った。笑顔で、小さい笑窪が可愛さに拍車をかけているけど、今の私には、その笑顔を可愛いとは思えなかった。
別の意図が、その笑顔の隙間から、這い出ているように思えたからだ。「お化け屋敷って、……遊園地とかのじゃなくて、今日行ったところ、だよね?」
「それ以外に無いよ。ねぇ、あそこに探検しに行こうよー!」
甘えてくる子猫のような声だ。
「人の家だよ、勝手に上がっちゃ不味いよ」
「大丈夫、人なんか住んでいないよ……多分」「多分じゃ駄目でしょ」「それじゃあ、絶対。マユちゃんだって、あの家の敷地内で、人を見たこと無いんでしょ」
それは、確かに、私の記憶に、あのお化け屋敷の中で、人の影を見た覚えはない。
「だけど、やっぱり、駄目だよ」
「なんで、カナちゃん、……恐いの?」
挑発的に、声を上げてくる。
「こ、恐いよ。マユちゃんだって知ってるでしょ、私が恐い話とか嫌いなの。ってか、マユちゃんは大丈夫なの? 怖くないの?」
「私? 私は大丈夫だよ。むしろ、かなり好きだよ。そういうお話は。お化けとか、いいじゃん、一度会ってみたいお話をしてみたいと、密かに願っていたんだ。夢のある、楽しい世界だよ」
そういえば、昔からマユちゃんはオカルト方面の知識を好んでいたような気がする。お泊りに行った日も、私はリモコンで早く番組を変えたかったのに、マユちゃんが目をランランに光らせて見入っていたので、声をかけることが出来ずに、惨劇を向かえてしまったんだ……。
「一人で行ってよ」
「やだ、それは寂しいもん。カナちゃん暇なんでしょー、行こうよ。絶対にお化けなんて出ないよ。ただの暇つぶしだよ」
「で、でも……」
私が頑なに嫌がると、マユちゃんは小さくため息をついて、私の横に立ち、扉を、思いっきり蹴った。
がんっ
と、その音に私は飛び上がると、扉の向こうから、ドタドタと足音が聞こえてきた。……お兄さん、また、聞いていたのか。「カナちゃん」
返事をする間も無く、両肩を掴まれた。「行くって頷いてくれないと……おうちに帰さないよ」
マユちゃんはそう囁く。その声色は、私が今まで聞いたことの無いような響きを持っていて、全身の鳥肌がすっと立ち上がる。ギチギチと、万力のように力が肩に込められていく。
「い、痛い」
「じゃあ、一緒に行こう。そしたら、力を抜いてあげる。一緒に行くって言ったら、この腕、放してあげる」マユちゃんは顔を近づけてきた。指を、肩からそっと内側へ動かしていく。もの凄い力をこめながら。声が、出ない。私よりも一回り大きいマユちゃんが、更に大きく見えて圧倒されてしまい、声の出し方を忘れた。
「カナちゃんは、お母さんとお父さんと、まだ離れ離れになりたくないよね? 家に帰りたいよね? そうだよね? ……ねぇ、私の声、聞こえている? 返事くらい、してよ」
私は必死に頭を縦に振る。「だったら、一緒に行こう、ね」
言葉を切るたびに、指が肩を這うように首へ迫っていく。それは別の生き物のようで、私に触れている部分から、熱が吸い取られていくように、寒い。
指が、首に巻きついたところで、私は最後の力を振り絞って、頭を縦に振った。振るしかなかった。マユちゃんが突然変貌して、それが怖くて、涙が出そうになる。
「ありがとう」
天使のような笑顔で、マユちゃんは言った。そこで指がぱっと離れて、マユちゃんは扉を開けてくれた。
「ほら、もう外、真っ暗だよ。女の子一人じゃ危ないから、一緒に帰ろう。お兄ちゃんは暇こいていると思うし、喜ぶと思うし、三人で、ね?」
「うん……」
マユちゃんが向かいの扉を叩くと、「下にいるよー!」と階段からお兄さんの声が響いてきた。降りると、既に上着を着て、靴を履いて、カメラ? を持って、完璧にスタンバイしていた。
「話聞いていたの?」
今までとは違い、冷めた声で、マユちゃんはお兄さんに問う。
「いや、女の子一人で帰るのは危険だと判断して、準備していたのさ」ぐっと、親指を立てた。
「そう」マユちゃんは中指を立てて、安堵のため息をつく。「行こう」お兄さんのカメラには一切触れず、マユちゃんは私を促す。
来た時と違い、夜の道は、別の世界に移り変わっていた。確かに、この道を一人で帰るのは無理だった。もしもこの道を一人で歩いている時、背後から足音が聞こえてきたら、私は涙を流しながら、怖がっていたと思う。
――だけど、今はそれに似た恐怖と一緒に、歩いている。
マユちゃんが、まず、おかしい。先ほどの、指を首へかけてきた時から、マユちゃんは、何故か私の隣に寄ってくる。隣に立つというよりは、寄りかかってくるようで、マユちゃんの匂いが、煙のように降りかかってくる。その目には、時々、刺すように私のことを見て、さっき部屋で行われたことは、絶対に口にするな、と言葉を突きつけてくるようだった。
次に、お兄さんはあくまで自分のペースを崩すことはなかった。私達よりも数歩後ろを歩き、毎分三回以上はカメラのシャッターを押しているようだった。私がそれを嫌がると、「大丈夫、変なことには使わないから。ただ、俺は可愛い小学生を見ると、無意識のうちのカメラに収めちゃうだけなんだ。本当だよ、本当だよ、信じて……」と寂しげに言ってきた。まるで呪いがかかっているかのように被害者ぶって。何が大丈夫なんだ、と泣きそうになったけど、マユちゃんは殴りに行かないので、問題ないのかな? そんなわけないと思ったけど、マユちゃんの様子がおかしいので、口に出せない。
学校を通り過ぎたところで、ふと、マユちゃんが立ち止まる。
「ねぇ、じゃあさ、日曜日は、ここに集合しよう」
その先には……小さな公園がある。ベンチがポツンと真ん中に置いてあるだけの、質素で寂しい公園だった。公園の周りに立っている外灯が、小さい光を灯していた。
「こんなところに、公園があったんだね……」
「ここなら、すぐに行けるよね?」
お化け屋敷に、とは言わないでもわかる。私は、もう言葉を返す気力が無いので、無言で頷いた。
そこから少し歩いて、立ち止る。
「もう家に近いから、ここまでで、大丈夫です。マユちゃん、ありがとう。お兄さんも、ありがとうございます」
私は頭を下げて、逃げるように走り出す。それでも、背後から刺すような視線と、舐めてくるような視線が、ずっと私を追いかけてくるようだった。パシャッ