道は開けていない
これは絶対に死んだ……と思ったお兄さんだったけど、五分ほどすると、頭を抑えながら起き上がった。
「ここは……うちだ。どうして、俺は倒れているんだ?」
「お兄ちゃんがまたいつもみたく調子に乗ったから、それを私が抑えたの」
とマユちゃんは微笑みながら言う。その笑顔の裏に、何か隠れていそうで、私は鳥肌が立った。
「どうして?」
「ほら、この子は、私と同じクラスの、カナちゃん。カナちゃんを見たら、お兄ちゃん、いきなり狂ったんだよ」
マユちゃんが私を指刺し、それをお兄さんが目で追って、私と目が合う。――刹那、また先ほどのようにお兄さんの目に黒い炎が灯りかけたけど、マユちゃんのことを一瞥して、ため息をついた。
「仕方ない」
「何が仕方ないの? カナちゃん本気で怖がっていたんだよ」
「だってさ、俺、可愛い小学生とか……大好きだもの。絶対領域アフター(十一歳から十六歳)、その付近の歳の可愛い女の子を見るとさ、己の中から俺が、俺に長文で語りかけて来るだもん……絶対に後悔するぞ! って。それが、いつもマユ一人で必死に己を押し留めているのに、二人もいたら、押さえつけるのは、絶対に不可能だよ。キャパシティを超えているよ、うん。……ところで、君、えっと、カナちゃんだっけ?」
「は、はい」
「さっきは、また」また? と心の中で蔑む。「やや微量に暴走しちゃったね、ごめん★ でも、それは、まぁ俺の生物としての光(絶対に越えなくてはならない壁)、みたいなものだから、許してください。それに、カナちゃんもカナちゃんだよー、君にだって、責任がある。……可愛すぎるんだよ。マユだって、あーもう最可愛に可愛いいのに、カナちゃんも負けず劣らずの、レベルだよ。はぁはぁ、ところで、握手していいですか?」
「え、え?」
「握手嫌だ? あ、そう、わかった、それじゃあ、足舐めさせてください。匂い嗅がせて。あと、その綺麗な髪に、顔を埋めて良いですか? ちなみに、我が家では、お客さんの足を舐めることが、決まりとなっておりまして、拒否するというのは、不可能」
お兄さんがそう言い終えた瞬間、マユちゃんはまた鞄でお兄さんの後頭部を強打する。「私の部屋に行こう。二階なら、鍵があるから」
そうだね、そのほうが安全だよね、と私はマユちゃんよりも先に、二階に駆け上がった。一階から、くひひひひと深い振動のような笑い声が聞こえてきたけど、空耳だと全力で信じることにした。部屋に入り、鍵を私が率先して閉めると、マユちゃんは困ったような顔をする。
「ごめんね怖がらせて。うちのお兄ちゃん、少しアレなの」
絶対に少しというレベルじゃない気がするけど……。「そ、そうなんだ、いきなりだったから、びっくりしちゃった……。マユちゃんは、大丈夫なの?」
「うん、もう一年近く一緒に生活しているから、慣れちゃった。でも、最初の頃は、私も驚いたよ」
そう言って、マユちゃんは、お兄さんとの生活を説明してくれた。
「私の、お母さんとお父さんね、離婚しちゃったの……」
「そ、そうなんだ……」
「そんなに動揺しないで、もう気にしていない……は、ちょっと嘘だけど、一年も経っているから、ドラマの中の話みたいで、あまり現実味が無いの。だから普通に聞いてね。それに、カナちゃんも、知ってるよね、私の両親のことは」
「う、うん」噂だから、こうもはっきりと宣言されると、流石に気が引けた。
「それで、私はお父さんと一緒に、お父さんの実家で生活することになって、お父さんの実家に、引っ越したの。そしたら、二ヶ月ほど経って、お父さん、すぐに結婚したの。向かいのアパートに住んでいた人で、お父さん、すぐに仲良くなって、もう気がついたら結婚してたの。これはお兄ちゃんから聞いたんだけど、お兄ちゃんのほうも、離婚してて、お母さんは凄く傷ついていたんだって。もう何年も経っているのに、なかなか昔みたいに戻らなくて、朝のゴミだしの時に、よくお父さんと話し合っていて、それで仲良くなって。あとはトントン拍子に。私は、再婚することについては、特に、反対しなかった。……けど、年上の男の人がいるというのは、少し怖かった」
ざくざくと、自分の身内のことを話すマユちゃんは、ハキハキとしていて、目に光が宿っている。誰かにこの話を聞いてもらいたかったのかもしれない。私は「それで?」と促す。
「でも、最初会った時は、お兄ちゃん猫被ってて、普通の人っぽくて、普通の高校生なんだなーくらいにしか思ってなかったの。よく話してくれたし、私と今の新しいお母さんとも、会話を繋げてくれて、頑張っていた。私も、その頃は少し尊敬もしていたし、カッコイイとも思っていた」
だけど、とマユちゃんはため息をつく。
「お兄ちゃん、学校から帰ると、すぐにトレーナーの部屋着に着替えるの。で、ある日、私が部屋から出てリビングに下りると、お兄ちゃんがいつの間にか学校から帰ってきてて、私を見るなり、よ! と手を振り上げて、立ち上がったの」
嫌な予感がしたけど、ここまで聞いといて、もう止まれない。
「満面の笑みで、……履いていたの」
「な、何を?」
「……ズボンの上から、パンツを」
「はぁ? どういうこと?」
下半身何も履いていない、と想像していたので、その微妙な加減に肩透かしを食う。
「だから、ズボンの上から、パンツを履いている。普通は逆でしょ。パンツの上に、ズボンを履くじゃん。その逆だよー。私は、もう全力で引いちゃって、それから一ヶ月ほど、まともに顔を合わせなくなったの」
そこまで言われて、その様子を必死に想像する。確かに、その姿になる意味がわからない。「どうしてそんなことを?」
「ウケを狙ったんだって。私ね、あっちに転校した時、あまり学校に行きたいと思わなくなっちゃって。よく休んでいたの。だから、元気を出させるために、あえて道化を演じた、他意はございません、ってお兄ちゃんは弁解していた」
その姿は明らかに頭がおかしい。だけど、
「面白いかは、ともかく、そ、それなら、まぁ、……い、いいと思うよ、私は。お兄さん、マユちゃんのことを思って馬鹿になってくれたんでしょ。そんなに嫌がらなくても」
「私の、なの?」
「え?」
マユちゃんは頬を膨らませて、言う。
「私の、パンツを、自分のズボンの上から履いていたの!」
流石にそれはアウトだと思った。
「確かに、それは、うん、アレだよね、気持悪い」
「でしょ。しかも、それは私のお気に入りのパンツで、可愛いパンツだったの。でも、ゴムが伸びてもうはけなくて、私は、キモイと一言だけ言って、自室に逃げた。それ以降、私はお兄ちゃんのことを避けるようになって、お父さんもお母さんも、私の態度が変わったことで、何かあったのか? とお兄ちゃんのことを睨みつけながら心配していた。最初は。それを良い気味だと楽しんでいたの。でも、よく考えたら、私は別にそこまでショックを受けてはいなかったの。驚いたけど、それでキモイって反射的には言ったけど、内心傷ついてはいなかった。このままずっと無視するのも、お兄ちゃんに悪いなーと思い始めていて、今度、もう私のパンツ含め、衣類などを勝手に持ち出さないでください! って言おうとしたの。そしたら」
「そしたら?」トイレに行きたくなってきた。
「先にお兄ちゃんのほうから、謝りにきたの。それまでに何度かごめん、とは聞いたけど、今度は真剣な顔で、帽子を被りながら、私の目の前に来て、そして、帽子を外して、頭をさげると、髪の毛が超短くなっていた」
「え、最初から坊主じゃなかったの?」
「ううん、昔は、伸ばしていて、毎朝鏡の前で、ワックスを使って固めていたの。でも、マユに非道いことをしてしまったと責任を感じ、頭を丸めたんだって。そして、こう宣言したの」
『もう二度と、マユのパンツは履きません』
「真の通った声で」
「へぇ……。あのお兄さんが。凄いね、髪を切ってまで、謝ったなんで、少し尊敬するかも」
「……私の、パンツを、被りながら、言ったの」
うん、前言撤回。
「この前のパンツはもういらないって、言ったから、貰いました、ってドヤ顔で宣言してね」
私は空いた口が塞がらなかった。まだ、ズボンの上からパンツを履くのは、百歩譲って、ありえないとして、今度はパンツを履くとか……、理解出来ない。
「私、もう爆笑しちゃってさー」
予想外の言葉が返ってきて、面食らった。「なぜ?」
「だって、被っているんだよ。『これは被っているから、履いてはいないよ、セーフ』って自信満々に言うんだもん。気持悪いという線を超越して、それ以降、お兄ちゃんの奇行を面白いって思えるようになったんだ。まぁ、たまに本気で気持悪いって思うことはあるけれどね。でも最近は、ちょっとくらいのことは、大目に見ることにしたの」
さっきの、下でお兄さんが実行していた、匂いを嗅ぐという行為、あれは、どう見てもちょっとくらいに収まるレベルじゃないよ。本当にアウトだよ。なんか、マユちゃんはお兄さんがパンツをかぶってきたことを、その心意気は良し! みたいに語っているけど、全く素晴らしくないから。気づいて、マユちゃん、色々と危険だよ。ここは……。
私の心の声はもちろんマユちゃんに届くはずもない。それ以降も、お兄さんの奇行を聞かされて、それからは適当に雑談をした。そのうちに、私は本格的にトイレに行きたくなったので、マユちゃんに場所を聞く。「借りるね」と断ってから、立ち上がると、鍵を開けて、扉を開いた。
ごんっ
と、鈍い音を立てて、何かにぶつかった。「痛いッ……あ」
見ると、扉の前にお兄さんが座っていた。「もう、お兄ちゃん、また盗聴してたの?」
「ち、違うよ。たまたま俺の部屋に戻ろうとして、ここに来ただけだ。不可抗力だね、君達の声を聞いてしまったとしても、それは決してワザとではない。仕方ないことなんだよ。俺を許してやってください」
そう胸を張りながら言葉を投げつけると、お兄さんは向かいの扉に消えてしまった。扉の奥から、ガチャガチャと異様な音が聞こえてくる。
「だ、大丈夫だよね?」
私は不安になってマユちゃんに問う。
「何が?」
「お兄さんの……こと」
「大丈夫だよ。私もよくお兄ちゃんの頭は結構本気で殴っているけど、病院行ったこと無いし」
「違う違う……、ト、トイレに、来ないよね」
小声で問うと、マユちゃんは一瞬考えた後、「大丈夫だよ」と口にする。
「ほんと?」
「うん。だって、お兄ちゃんは、そういう方面の道は開けていない、って言っていたもの。あ、でもお風呂の時は大変なんだ。お兄ちゃん、私がお風呂に入ろうとすると、『ビーストモード』とか言って私の後をついてくるの。だから、頭を殴って気絶させてから入ることにしているの」
後半の部分は聞かなかったことにして、前半の別の意味の説得力を持つ言葉を、私は信じるしかなかった。




