後頭部にぶち当たる
「たっだいんまぁあああああああああああああおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
玄関が勢いよく開き、一つの黒い影が、突進してきた。
――否、それは影ではなく、人間だった。
学生鞄を左手に、右手には大きなナップザックを掴んで、ブレザーを着ていた。下には、灰色のズボン。
――高校生、だ。それは、それなりに頭の良い私立の高校生男子のそのものだった。「あ、お兄ちゃん、お帰りなさい」
とマユちゃんは言う。
「お兄ちゃんッ!?」
私は思わず声を上げてしまう。「そう、ほら、私んちって再婚して、そしたら、お兄ちゃんが、ついてきたの」
と、マユちゃん言い終えた瞬間、そのお兄さんは、両手から荷物を離すと、水泳選手のように、ダイブした。
一瞬空を飛んで、頭から、マユちゃんの足元に突っ込んだ。「うぁあああああ、マユ、聞いてくれッ! 今日、ヤバイことがあったんだよぉぉおおおおお」頭をぐりぐりとマユちゃんの足に押し付けている。「どうしたの?」マユちゃんは表情を和らげて、問う。
「俺さ、学校には電車で言っているだろ?」
「うん」
「で、今日は部活無いから早目に帰れる。電車に飛び乗ってさ、車内はガラガラだったから、席に座ったんだ。そしたら、人が乗ってきて、俺はケータイを適当に弄っていたんだ」
お兄さんはそこで言葉を切ると、深く、……深く深く、息を吸った。まるで、何か、匂いを嗅いでいるかのように……。「半分くらい駅を通過した頃から、人がたくさん乗ってきて、席が埋まってさ、俺の隣にも、人が乗ったんだよ」
「それが、アレな男の人だったの?」
「いや、違う。女性だ……」「なら、よかったじゃん、幸運だよおにいちゃん。日頃のおこないはアホだけど、運は良いのかな」「いや、最悪だったんだ……」
お兄さんは、頭をその位置に固定して、続ける。
「ぬくもりを感じていたんだよ。確かに俺と女性は服を着ている。だが、肩と肩、そのわずかな触合いから伝わってくるもんが、あるんだよ。俺はたまたま電車の揺れで、肩が触れ合ってしまう★ という条件の下、俺は肩を当てていた。自然とだ。絶対に、相手に変な思いをさせないように、と。そのまま三十分ほど経過して、俺の降りる駅へと着いた。俺は、名残惜しみながら、すっと立ち上がって、とても自然にその女性の顔を見たんだよ」
「隣に座った時、顔は見えなかったの?」
「髪が長くて、み、見えなかったんだ。でも、でも、髪質が綺麗だから、若い子かと思ったんだ。……それで、見たら、まぁーオバサン。でも、畜生オシャレなんですよ。ムカツクたね。その歳でオシャレする根性、それと見間違えた俺に対して。もうね、服や髪型に年齢制限つけたほうがいいと俺は考えるよ。三十路超えたら、この髪型は駄目です、このワンピースは禁止! みたいな。そうすれば、俺のような、可哀想な想いをする人間を、救ってやることが出来るんだ。だからさ、マユ、お願いがあるんだけど、その計画の一端として、これからは一緒に俺と電車に乗ろう。そして、俺の隣に座ってください」
「私は歩いて小学校まで通えるから、ムリダヨ」
「無理とか、……無理を超えたところに、道理があるんだよ。わかる? もう俺は嫌なんだ、あんな心が掻き乱されるような、哀しい想いをするのは。でも、マユが居れば。マユが隣に座っていればそれだけで、それだけで、ふふふふふふふ……ん?」
お兄さんは、一瞬動きを止めて、また動き始めた。
くんくん
とか、
くんかくんか
など、そういうレベルじゃない。
――喰べている。ものすごい勢いで、マユちゃんの甘い匂いを、……た、食べている。
「ん、別の匂いがするなー」
そう言って、やっとお兄さんは、顔を上げた。目が合った、顔には、縁の大きな紫色のオシャレなメガネをかけていた。髪型は、坊主だ。その瞳が、私のことを覗き込む。「ひっ」と声を漏らしてしまった。
「紹介するね、私の友達の、カナちゃん」
マユちゃんはペースを崩さない。
「お、お邪魔しています……」
私が後ずさりながら、頭を下げると、お兄さんは刹那の速度で立ち上がる。
「君は……小学生だよな」
舐めるような視線を私に向けながら、お兄さんは囁いた。
「は、はい。マユちゃんとは、同じクラスで……す」
「――やれやれ。ってことは絶対領域アフター(イレブンシクスティーン)か」
お兄さんはそうやるせなく言うと、顔を天井に向けて、ぶつぶつと小声で呟き始めた。
「ふ、二人いる。小学生、……小学生が、二人もいる。しかも、可愛い。もうなんかアグレッシブでなんつーか、めちゃんこ可愛い。はぁ、はぁ、あ、ああああああ。これは、運命だね。俺に対する挑戦だと、受け取ろう。無数にある、点が一つに結びつき、収束して一つの運命を作り出す。――運命グ……。親いないし、俺とマユと君の三人だけど、これなんてエ……。そう、三人。三人だけしか、今現在この空間には、いない。親が帰宅するまでは、両者とも、九時です。なるほどね、ははは、はははははははは、最初から、俺の勝利は決まっているってことか」
ぐるんと頭が廻って、二つの瞳が、私のことを捕らえた。両腕が、昔の肉食恐竜のように、腕を持ち上げた。「LO-REX」
「……え?」
「俺達のような生物の、新世代での、呼び方だよ」
お兄さんの目には、黒い炎のようなモノが、不気味に渦巻いているように見えた。
もう声が出せない。全身から嫌な汗が吹き出た。体が、動かない。
「だから、いいよね。こういうことしても、イイヨネ。……生まれてきてありがとう」
ぐっと、お兄さんが足を折り曲げた、瞬間、今まで後ろのほうでニコニコしていたマユちゃんは立ち上がると、その右手には、お兄さんの学生鞄があって、それを、思い切り振り上げた。
マユちゃんの目には、黒い炎のようなモノが、不気味に渦巻いているように見えた。
がんッ
と凄まじい音を立てて、お兄さんの後頭部にぶち当たる。
そのまま、お兄さんは倒れてしまった。
マユちゃんは鞄を床に置くと、ため息をつく。
「お兄ちゃん、調子に乗りすぎ。カナちゃん、怖がってるよ」
だけど、お兄さんは何も返事はすることが無く、もう起き上がることは無かった。