一分
――公衆トイレ。
それが、この小屋の第一印象だった。中に入ると、左右に三つずつ、計六個の個室があった。それぞれに扉があり、小さい取手がついている。一番奥には、外見からは想像も出来なかったけど、どうやらこの小屋は二階まであるらしく、階段があった。光は無いのに、何故か明るい。
「トイレかな」
マユちゃんも同じことを考えていたのか、そう口にした。近い位置にある個室に近づくと、取手に手をかける。そして、回す。「駄目だ、鍵がかかっている。ここは、倉庫かな?」
「音は、聞こえるの?」
「うん、凄く。奥から、聞こえてくる」
ゆっくりと、歩き始めた。私は、マユちゃんの背中に隠れるようにしがみついて、体を震わせながら後に続く。個室を全て通り過ぎて、マユちゃんは階段の下に立った。
「上……」
「二階?」
「この上、この階段の上から、音が響いてる」
マユちゃんはうれしそうに微笑んだ。でも、それは今までの笑顔と違って、自分で顔を作っているみたいだった。
「カナちゃんは、ここで待ってて」
マユちゃんは私の手を離した。
「嫌だ、一人にしないで」
「すぐ戻るから。上を見て、何かあるか見たらすぐ戻ってくる。そうしたら、一緒に帰ろう」
「やだ、無理だって」
「じゃあ、一分で戻ってくるから」
マユちゃんは指を一本立てて、言う。
「本当?」
「うん、私は、嘘は嫌いなんだ。私が小さい頃ね、変な赤い服を着ている人に会ってね、嘘だけは絶対についちゃいけないよ、って言われたの。そうすれば、楽しいことできるって、助言を受けたから。その人は、女子高生が好きみたいでね、君は将来可愛い女子高生になるね、って言ってくれたの」後半は何言っているのかよくわからない。
「絶対だよ。まだ途中でも、戻ってきてよッ」
「戻ってくるから。もう、カナちゃん、そんな子供みたいにわがまま言わないで。じゃあ」
私が声を発するよりも早く、マユちゃんは上へ登って行ってしまった。私も後を追いかけたかったけど、足が震えて、登れない。はっ、はっ、はっ、と自分が犬のような呼吸をしているのがわかる。恐い、恐いよ、助けて、マユちゃん、早く戻ってきて……。
私は自然と出ていた涙を必死に拭うと、階段に座る。そして、一分を数え始める。一分経てば、マユちゃんはすぐに戻ってくる。音の正体を突き止めて、少し恐がりながらも、私を引っ張ってこのお化け屋敷から、出る。
「……十九、二十、二十一、二十二……」
一分だなんて、三分のカップラーメンが出来上がるまでの三分の一のクセに、今は永遠のように長く感じる。必死に秒数を早めて数えたい衝動を私は抑えた。何故ならインチキして六十秒経っても、マユちゃんが戻ってこないかもしれないからだ。そんな事態に陥ったら、私は不安で押しつぶされる。
だから、ゆっくり丁寧に、正確に測っている。
「二十六、二十七、二十八、二十九、さんじゅ」バタンッ!
三十秒に差し掛かった瞬間、その音が聞こえた。
上からじゃない。
この小屋の入口、……正確には、多分外から響いてきた。ドクンと心臓が跳ね上がる。「三十一、三十二、三十三、三十四、三十五」私は、数えながら、立ち上がっていた。そっと、足音を立てずに、扉へ近づいていく。駄目だ、近づいたらいけないと、私がどこかで必死に叫んでいるけど、足が止まらない。「三十六、三十七、三十八」ゴクンと何度も唾を飲み込みながら、私は扉の前に立って、耳をそっとくっつける。
サァー
という、風の靡く音が、薄っすらと聞こえていた。それは、あの植物が靡く音だと思ったけど、私達が通った時は、そんな音は聞こえなかった。それに、風なんか吹いてはいなかった。それじゃあ、なんで音がするの? 知らないわからないどうでもいいよそんなことッ「三十九、四十、四十一、四十二」だけど、私は、そっと取手に指をつける。ぎゅっと握った。一瞬だけ「四十三」一瞬だけ、「四十二、四十三」外を見る。大丈夫だよ、「四十四、四十五、四十六」何もいない。何もいないから。ちょっと見てみるだけ。きっと、何か偶然が重なって、音が聞こえているんだ。心配いらないよ、大丈夫だよ、と私は私に宣言する。「四十七、四十八、四十九、五十、五十一、五十二、五十三、五十四、五十五、五十六、五十七、五十八、五十九」開く。
まだ入って十分も経っていないのに、外は、既に夜になっていた。仄かに空は赤く染まり、あとはほとんど黒に移り変わっていた。そんな中で、私の目は、ハッキリと、私達が出てきた出口を見る。
開いている。
ギリギリまで、開け放たれていた。
そこに風が入り込み、だから風の音が鳴っていたんだ。そっか、あの扉が開いているのも、風が、開けてしまったのかもしれない。だから音がしたんだ。はぁーよかった。はぁ、はぁ、別に何も問題は無い。
――まぁ、そんなわけないんだけどね。風が開けたのなら、ぐちゃ、普通に考えて、扉はこっちから押して開ける。だけど、あの扉は、ぐちゃぐちゃ、引いて開けてある。ぐちゃぐちゃぐちゃ
ってことは、だ。
うん、そうだよ、誰かが、内側から開けたんだろうなー。
「六十」
扉の奥にある、黒色が……あ、あぁぁぁああ、やめ、やめてやめやめ……、う、動いてる……。人間みたいに、にゅる、っと屈むと、扉を抜けて、黒色が、こっちに向かってきた。這うように、進んでいる。
バンッ
と、大きな音を立てて、私は扉を思い切り閉める。鍵は……あーないッ。走りだそうとして、何も無いのに、転んだ。立ち上がると足が、ガクガクと震えている。「まぅああああ」声が、出ない。マユちゃんと叫んだはずなのに、口が、口が上手く開かない。喉が、掠れて声も出せない。ひーひーと、泣きながら息をするので精一杯だ。
私は這いつくばりながら、必死に階段へ進んだ。ってかもう一分経ったはずなのに、マユちゃんは戻ってこない。絶対に戻るって言ったのに、マユちゃんの嘘つき! 馬鹿野郎、糞! もう、なんで、私がこんな目に会うんだよ。畜生!
やっと階段に辿り着くと、背後の扉から、バンッと何かを叩きつけるような音が響いてきた。全身の血液が逆流したみたいで、足が動くようになる。私は、階段に足をかけると、全力で登っていく。十歩ほど進むと、踊り場があり、そこから更に進んだ。途端に、バタンと、下から扉を開く音が聞こえてきた。
あの黒色の影が、入ってきたんだ。そう思った途端、何かに顔が当たり、反動で階段から転げ落ちそうになる。寸前で堪えて前を見ると、また、扉があった。開けようか、開けまいか、そう悩んでいると、別の音が、下から、染み渡るように聞こえてくる。
ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ
それは、ドロをこねているような音だった。とても不快な音だ。生理的に気持ち悪く、吐き気がした。ってか、吐いた。お昼ごはんが、胃液と一緒に口から出てきて、階段が汚れた。幸い、服には着かなかったけど、そんなことどうでもいい。
ぐちゃぐちゃぐちゃ
ぐちゃぐちゃぐちゃ
ぐちゃぐちゃぐちゃ
聞いているうちに、それは会話のような気がしてきた。私達人間とは違う、言葉を交わしているような感じだ。あの黒い影が喋っているのか? と思った時、
バタン、バタン、バタン、バタン、バタン、バタン
と音が聞こえてきた。ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ
――六回だ。
今、下から、六回扉が開くような音がした。下には、ちょうど、六個の個室があった。ということは、あの個室には、入っていたのか……。それで、あの、黒い影が。ずっと、私達のことを、監視、していたんだ。私とマユちゃんの声に、じっと耳を澄ませていたんだ。
ぎっ、ぎっ、ぎっ、ぎっ、
と、軋む音が、聞こえてきた。
それは、多分階段を登る音だろう……。
私は最後の力を振り絞って、目の前の扉を掴むと、ぐっと押した。
飛び込む。
「マユちゃぁぁぁあああああああああああああああんッ!」
渾身の力で叫ぶ。
どさっと床に倒れこんだ。痛い、痛くて、涙が止まらない。涙で滲んで何も見えなくなる。「マユちゃんッ! どこ、どこにいるのーッ!」
返事は無い。
私は芋虫のように転がりながら、必死に叫び続ける。声がすぐにかすれて、もうほとんど泣き叫んでいただけだけど、それでも叫んでいた。
「返事してぇぇええ! マユーーーーッ! お願いぃぃいいいいいい。どこー!? 助けてよぉぉおぉおおおおおおおおお」
ぐちゃ
と、音がした。
私の体が硬直する。声が出なくなる。動けない。息も出来なくなる。目に溜まっていた涙だけは、ゆっくりと零れ落ちていき、私は目を開いてしまった。
ぐちゃ
目の前が、黒色に覆われている。
違う。
あの黒い影だ。黒い影が、私の顔を覗きこんでいるんだ。もっと周りを見ると、私の周りを囲むように、黒い影が立っている。ゆらゆらと、一定のリズムで揺れながら、私のことを、じっと観察している。
その中で、一つ黒い細いモノが、私へ向かって伸びてくる。すすすっと、水中を泳ぐ魚のように、ゆっくりと。
私の体は、動けない。というか、もう体が動くことを拒否していた。その黒い線が、私の体に触れそうになった、瞬間、
バタンッ
と、また扉が勢いよく開く音がした。そして、私の手に、何か暖かい物が触れた。




