音
「猫だね。図鑑で見たことがあるんだけど、それにそっくり」
冷静に判断するマユちゃんを尻目に、私は全力で逃げ出したかった。今日は、家を出る前に、トイレに行ってよかった、と自分を褒める。もしも言ってなかったら……。
「ベッドの隙間で死んじゃって、ずっとこのままだったから、骨だけになったのかな。匂いも、この猫が腐った匂いかもしれない。カナちゃん、大丈夫?」
「かなり駄目っぽい」胸を、心臓が撥を太鼓へ打ちつけるかのように叩いている。痛い。
「もう、猫の死体程度でそんなに驚かないでよ。私達だって、毎日動物の死体の肉を食べているし、ってことは死体を見ているの。骨だって、骨つきフライドチキンだって食べるでしょ。あれと大差ないよ」
んなわけないッ。
と、大声を出す勇気が、今の私には無い。扉の近くに行くと、そこで呼吸を整える。マユちゃんはまだベッドの下を探っている。三分ほどベッドの下を探ると満足したのか、私の元へ戻ってきた。
「猫の骨しかなかった」よかったー。
「じゃあ、どうする、……戻る?」
そう問うと、マユちゃんは一瞬驚いた顔をした。「なんで?」
「なんで、ってもう辞めよう。ここ、本当に恐いよ。ずっと人がいないみたいだし、危ないよ。誰か他の人に見つかったら怒られるし、お化けなんていないよ」
「カナちゃん……」
「本当に、私もう恐いの! やだ、やだやだやだ! これ以上は、マユちゃん一人で探検してよ、私は帰るから」
「静かにッ」
マユちゃんはそう私に言うと、人差し指で、私の顔の前に持ってくる。
「な、何?」
「ねぇ、聞こえない?」
「だから何が?」「音が」「うん、ほら、あっちの方から」
指差す先は、私達が来た道だ。
「行こう」
「え、え、ま、まってー」
私の手をぎゅっと握り、マユちゃんは私を引っ張るように歩いていく。すぐに先ほどの光の下に来て、またマユちゃんは止まった。
「あっち」
それは、もう一つの道から、聞こえたと、マユちゃんは言う。
――でも、
「ねぇ、マユちゃん、私には、音なんか聞こえないよ」
「嘘言わないで、聞こえるでしょ、あの音が」
「どんな?」
「ほら」
マユちゃんはまた口を噤む。私も、息を止めて、音を聞き取ろうとする。バシッと、どこからか、そんな音が聞こえてきた。その聞き慣れた音を聞いて、私は安堵する。
「マユちゃん、あの音は、お化けとかじゃないよー。あれは、家の木材とかが、温度で膨張して、その時に発生する音なんだよ」
私は自慢げに言う。確か、テレビで幽霊特集がやっていて、たまたまそれを見てしまった時に、解説していた気がする。
「はぁ?」
だけど、マユちゃんはイライラと声を荒げた。「何言ってるの?」
「だ、だから、あのバシッ、って音は、お化けじゃ……ない」
と言葉を言い終えた瞬間、マユちゃんは私の両肩を思い切り掴むと、背後へ押して、私を壁へ貼り付けた。ガンと、後頭部が壁に当たって、痛い、クラクラする……。
「ふざけないで」
マユちゃんは人が代わったみたいに……また、あの時のように、私のことを睨みながら言う。
「ふざけてない、よ。だから、あの音は、大丈夫だって」
「バキって音? 違うよ、そんな音じゃないでしょ?」
「え? 何言ってるの?」
今度は私が問う番だった。
「何って、聞こえるでしょあの音が、今もッ!」
マユちゃんはすっと静かになる。私も、ぐっと口を噤むけど、……何も音は聞こえない。私とマユちゃんの小さい呼吸音だけが、ほのかに響いているだけだ。
「き、聞こえないよ」
「そんなはずないでしょ、あんなに、あんなによく聞こえるのに……」
顔を近づけて、マユちゃんは呟く。表情からは、今までの余裕は消えて、困惑としている。
「どんな音なの?」
「音、だよ」
「だから、どんな音なの?」
「わからない、口では上手くいえない。……なんだろう、ねちょねちょって、音が、する。ねぇ、カナちゃんは本当に聞こえないの?」
私はもう一度耳を済ませたけど、マユちゃんの荒い息以外、何も聞こえない。「本当だよ……。だから、この指を離して」
泣きそうな声で懇願すると、マユちゃんは頭を垂れて、一度深呼吸をして、私の両肩から、指を離してくれた。マユちゃんの顔には、いつの間にか大量の汗が吹き出ていた。屋敷内は、少し寒いくらいなのに、マユちゃんの汗は涙のように垂れている。
「ねぇ、マユちゃん、大丈夫? 具合悪そうだよ……」
「平気」
「平気じゃないよ、もう帰ろう、ここに居ると、もっとおかしくなる」
「帰りたくないの」
え? と、私は言葉を出す前に、マユちゃんは私の腕を取ると、ぐいっと引っ張る。
「進もう」
「だから、辞めようって。もう、充分見たから。これ以上は、危ないよ」
「じゃあ、いいよ、カナちゃん、一人で帰っても」
マユちゃんは腕を離してくれた。だけど、両目からは、刺すような視線を私へ向けている。「ほら、いいよ、戻っても、ほら、行かないの、ねぇ?」
ぐっと、歯を食い縛って、背後を見る。真っ暗な道が続いていた。さっきは、ここの光を頼りに歩いていたし、二人で歩いていたから、耐えることが出来た。だけど、今、この道を、一人で戻るというのは……。「一緒に戻ろう……」
「私は、先に行くよ。あの音の正体を、突き止めてみたいの。カナちゃんは一人で――帰れるのなら、帰ってよ」
ガンッと、マユちゃんは壁を殴りつけた。その音が部屋の中で反響して、異様に響く。マユちゃんは笑っていた。光に顔が照らされて、陶器のような白い皮膚が、不気味に浮かび上がっている。
「い、一緒に、行くよ」
「うん。ありがとう。でもね、大丈夫だよ、カナちゃん。……カナちゃんだけは、私が守るから、絶対に」
私が動けないのを見越して、マユちゃんは手を差し出してきた。私は、……少し考えた後、その手を握った。ぎゅっと。ドクンという振動が、手から生まれた。マユちゃんは笑顔になる。あぁ、駄目だ、私の全神経が、この先に進むのは危険だと言っているのに、マユちゃんの恐さに、負けている。屈服している。逆らえない。そのことを、マユちゃんは見抜いている。知っている。
足音だけが、私の聞こえる音だった。




