第十二話 私の部屋で暴れるな!
「やあ、バルシュ」
まるで、廊下ですれ違ったかのように軽い声。
「猊下」
メガネが深く腰を折る。
私は机の下に隠れたまま、祈るように手を組んだ。
「それで──ここにはどうやって入ったのかな?」
口調は軽いままなのに、ずしりと空気が重くなる。
「一度きりの大聖紋の委譲を受けました」
「鍵の委譲か。聞いたことはないね。証明できる?」
「できません」
ゾランは小さく笑った。
「ならば不法侵入ということになるね。それを渡してもらおうか」
「できません」
「君は自分の立場をわかっているのか?これは命令だ」
微かに怒りの滲む声に、思わずびくりと震えた。
だがメガネは静かに返す。
「……猊下は、大聖女の望みをご存知ですか?」
「看取ったのは君だろう? 遺言はなかったと、そう言わなかったか」
「……あまりに、私的な望みでしたので」
迷うような、ためらうような数秒の後、ゾランは鼻で笑った。
「それでも君は女神に誓った上で、遺言はないと言ったんだ。偽証罪の自白かな?」
「私がどのような罪に問われようと構いませんが、このままでは我々は大聖女を失います」
「それを判断するのは私だ。だが情報を隠されていては正しく判断することができない。それを渡しなさい」
「できません」
互いを探り合うような沈黙が落ちる。
やがて、ゾランが一歩踏み出した。
「手荒な真似はしたくないのだが?」
「私もです」
「よかろう」
その瞬間、爆風が部屋を走り、斬撃の音が響き渡った。
……は?
恐る恐る覗くと、ゾランの手には聖術の剣が、メガネの手には真剣が握られていた。
いやいやいやいや!
意味がわからん!
人の部屋で暴れるでないわ!!
ゾランが斬り上げ、メガネがそれを弾いて、身を翻す。と同時に魔力の塊が部屋の中心で爆ぜた。
ゾランが防御結界で防いだところに、メガネの剣が閃く。しかしそこへ聖術の矢が飛び、メガネは剣を引き、矢を打ち落とした。
そしてまた、互いの斬撃が空気を切り裂き、ぶつかった。
「さすが現役の聖騎士だね」
「猊下も衰えておられないようで安心いたしました」
「……言ってくれるね」
おい。ちょっと待て。
お前ら、楽しんでないか?
……そういやゾランも騎士団に所属してたな。
まさかお前ら、拳で確かめ合うタイプか?!
「で、そのノートの中身は何かな?」
二人は剣を打ち合わせながら、お茶でもしているかのように話す。
「それは秘密です」
「ちょっとだけ教えてよ」
メガネは机の影から覗く私をちらりと見て、柔らかく笑った。
「……私が聖騎士になった理由です」
その瞳があまりにも優しくて——
一瞬、誤解しそうになった。
でも……これは、赤ん坊を慈しむ目だ。
……私が欲しいものじゃない。
ゾランは眉を上げ、呆れたように笑った。
「……なるほどね」
そして肩をすくめると、聖術の剣を収束させた。
メガネもそれを見て、剣を納めた。
「ふふ、その笑顔は反則だ。なんとなーくわかったよ。ピンクのノートだしね」
ピンクで悪いか!
「でもこれは忠告だけど、大聖女を求めてるのは聖堂だけではないし、ここだって一枚岩じゃない。それに僕も、諦めたわけじゃない。状況が悪化すれば、次の一手を打つしかない」
「はい」
……なんだ?
よくわからんが、ゾランは納得したのか?
どこにそんな要素があったんだ?
「まったく、最初から相談してくれれば良かったのに。そんなに信用ないかなあ、僕」
「立場は人を変えますから」
「……確かにね」
ゾランはくるりと踵を返し、数歩進んで突然振り返った。うっかり目が合いそうになり、私は慌てて首を引っ込めた。
どきどきしながら隠れていると、ゾランが微かに笑う声が聞こえた。
「……その"机"、よほど大事なんだね。机を守りながら戦う聖騎士は初めてだよ」
「ええ、何より大事な"机"です」
「そっか。じゃあ、また明日ね」
「はい」
…………。
……え?これで終わり?
意味がわからんのだが?
脳筋ども、説明しろ。
ゾランの足音が遠ざかり、ようやく張り詰めていた空気が緩んだ。
私は、大きく息を吸い込み、ふーっと吐いた。
知らず、息を詰めていたようだった。
「お待たせいたしました、ジェレン」
メガネが机の下から私を抱き上げ、ピンクのノートを手渡す。
「どうぞ」
四角い眼鏡の奥で、まなじりが下がる。
……また、あの目だ。
優しくて柔らかくて、慈しむような——。
そこで、私は、はっと気づいた。
違う、これは“忠誠”だ。大聖女を崇める色。
胸の奥がしん、と冷える。
……あれ?なんだ、これ。
私、悲しいのか?なんで?
崇められるのは嫌いじゃないぞ?
むしろ全人類、私の前にひれ伏せばいい。
なのに、なんで——。
いやいやいやいや、今はそんなことはどうでもいい。
結局、メガネは、これの中身を知ってるのか?それとも知らぬのか?
これが聖騎士になった理由とか言うてたぞ?
それに、ゾランは何に納得したんだ?
メガネは、ノートの表面を指でなぞる。
その愛おしむような視線に、息をのむ。
「猊下は、前世の聖下をご存知ですから──猶予をいただけたのだと思います」
猶予……ね。
なるほど。
それで、状況が悪化すれば、といったのか。厄災の活性期に入れば、容赦しないと。
「さあ、戻りましょう。お母様が心配されますから」
私はまた抱っこ紐で胸に押し付けられた。
暑い。汗が冷たい。心臓がうるさい。
……私の心臓も、ちょっとうるさい。
でも、すごく安心する。
だけどその奥に、ぽっかりと穴が開いている。
——変なの。




