第2話 さようなら。平和な日常
夕暮れ時の放課後、南校舎3階の2年B組の教室には、西日が斜めに差し込んでいた。
黒板に書かれた数学の公式が橙色に染まり、グラウンドからは運動部の威勢のいい掛け声と、スパイクが土を蹴る音が心地よく響いている。
クラスメイトたちは数人のグループを作って、週末の予定やアプリゲームの話題で盛り上がっていた。
「恒一ー、お前今日もこのあと『模型のタカハシ』寄ってくの?」
隣の席の男子生徒が、カバンを肩にかけながら声をかけてきた。
窓際の一番後ろの席で、黒瀬恒一はシャープペンシルを握ったまま顔を上げた。
「ん……ああ。頼んでおいた海外メーカーのエッチングパーツが入荷したって連絡があったからな」
「出たよ、また模型か。お前ホント好きだよなぁ。放課後は毎回プラモ屋かミリタリー雑誌読むかだろ? たまにはカラオケでも行こうぜ」
「遠慮しとく。今作ってるやつの履帯パーツ、1コマずつ組み立てなきゃいけないんだ。今日中に終わらせないと週末の塗装に入れない」
「1コマずつ!? うわ、気の遠くなるような作業……俺なら絶対途中で投げ出すわ」
友人は呆れ半分、感心半分といった風に肩をすくめ、「じゃあな、また明日!」と言って教室を去っていった。
静かになった教室で、恒一は再び手元のノートに目を落とした。
ノートのページには、教科書の余白どころか、見開きいっぱいに精密な図面が描かれていた。
現在自分が組み立てている、第二次世界大戦時のドイツ軍重戦車の内部構造図だ。エンジンブロックからトランスミッション、砲塔の油圧旋回機構、サスペンションのトーションバーの配置に至るまで、細部まで定規を使わずに正確な比率でスケッチされている。
(……トーションバーの配置は、右と左でわずかに前後へズレている。車幅を削らずに長いスプリング効果を得るための、実に合理的な設計だ)
恒一は物心ついた頃から、「物体の構造」に異常なほどの執着と興味を持っていた。
プラモデルを作る際も、ただ説明書通りに外側を組み立てて塗装するだけでは満足できなかった。
「なぜこのパーツはこの形をしているのか」
「内部でどんなギアが噛み合って動くのか」
「どのような材質で作られ、どれほどの耐久性があるのか」
気になった兵器や機械があれば、海外の専門書籍を取り寄せ、時には英語やドイツ語の文献を辞書片手に読み解き、内部構造からメカニズムの原理までを頭の中で三次元の立体データとして完全に構築できるまで調べ尽くした。
「知らないものは、好きになれない」
それが恒一の持論だった。構造を知るということは、それを設計した人間の思考や、その時代の技術の極致を理解するということだ。
「黒瀬くん、まだ残ってたんだ」
不意に声をかけられ、恒一はサッとノートを閉じた。
振り返ると、手間にプリントの束を持ったクラス委員の女子生徒が立っていた。
「あ、うん。ちょっと考え事をしてて」
「相変わらず熱心だね。何のノート? ……あ、もしかしてまた何かの図面でも書いてたの?」
「……まあね」
「ふふ、本当に好きだよね。この前も放課後にプラモ屋さんのショーケースを30分以上じっと見つめてたでしょ? 通りかかった時、思わず声かけようか迷っちゃったよ」
「……見られてたのか。恥ずかしいな」
恒一は苦笑しながら、ペンケースにシャープペンシルを仕舞った。
自分でも自覚はある。クラスでは「口数が少なくて大人しいミリタリーオタク」。特別目立つわけでもなく、かといって浮いているわけでもない、ごく普通の男子高校生。それが学校での黒瀬恒一の立ち位置だった。
カバンにノートを放り込み、恒一は立ち上がった。
「じゃあ、お先に。鍵閉め、よろしく」
「うん、また明日!気をつけて帰れよ~」
廊下へ出ると、西日の射す校舎はすっかり静まり返っていた。
階段を下り、昇降口でズック靴からスニーカーに履き替える。外の風はすっかり秋の冷たさを帯びていて、恒一はブレザーの襟元を少し狭めた。
学校を出て徒歩15分ほど。住宅街の角を曲がったところにある古びた商店街の一角に、目的の店――『模型のタカハシ』があった。
ガラガラと音を立てて引き戸を開けると、塗料とプラモデルの箱の匂い、そして独特の紙の匂いが恒一を包み込んだ。天井近くまで高く積み上げられたプラモデルの箱の山。まるで秘密基地のようなその空間が、恒一にとっては一番落ち着く場所だった。
「ちわーす、店長」
「おう、恒一か。待ってたぞ」
奥のカウンターから、白髪混じりの頑固そうな老店主が顔を出した。この店の店長であり、恒一にとってはミリタリーの知識を共有できる数少ない「師匠」のような、「仲間」のような存在だった。
「頼まれてたドイツ製のディテールアップパーツ、入ったぞ。わざわざ輸入代理店に掛け合って取り寄せたんだからな」
「ありがとうございます! これ、探してもどこにも売ってなかったんですよ」
カウンターに置かれた小さな袋を受け取り、恒一は目を輝かせた。中に入っているのは、真鍮を精密にエッチング加工した超小型のパーツ群だ。エンジンのグリルの網目や、照準器の照準環など、プラスチックの成形では再現不可能な極小のパーツたちだ。
「相変わらず細かいところにこだわるねぇ。最近の若い奴はパチ組みで満足するってのに」
「せっかく作るなら、本物と同じ構造にしたいじゃないですか。材質は違っても、形や組み合わさり方が本物と同じなら、そこに理由が宿る気がするんです」
「ハハッ、相変わらず堅物なオタクだな。だが、そういうこだわりは嫌いじゃないぞ」
店長は嬉しそうに目を細め、カウンターの下から缶コーヒーを1本取り出して恒一に放ってこした。
「ほら、お賃金だ。持ってけ」
「すみません、いただきます」
缶のプルタブを引き、温かいコーヒーを口に含む。微糖の甘さと苦味が、放課後の疲れをじわじわと癒やしてくれた。
それから30分ほど、恒一は店長と新型の戦車模型の出来や、WW1時代の戦車の構造についての雑談を交わした。
「WW1の戦車かぁ。イギリスの菱形戦車なんかは、今の戦車とは全然違う構造だからな。サスペンションすらなくて、乗員はエンジンと一緒の部屋で排気ガスに蒸されながら戦ってたんだから狂気の沙汰だよ」
「ええ。装甲もリベット留めで薄いですし、砲弾の直撃には耐えられない。でも、あの『泥沼の塹壕戦を突破する』ためだけに作られた無骨な機能美は、現代の戦車にはない凄みがありますよね」
「お前、本当に渋い趣味してるなぁ。同世代と話合わないだろ?」
「全然合わないですね。クラスの奴らはスマホのソーシャルゲームの話ばかりです」
「まあ、男には誰にも譲れないロマンってのがあるんだよ。大事にしな」
「はい」
店長にお礼を言い、店を出た頃には、すっかりあたりは濃い群青色の夜に包まれていた。
街灯がぽつぽつと灯り始める街並みを、恒一は買い求めたパーツの袋を大切にポケットに入れて歩いた。
自宅は駅から少し離れた閑静な住宅街にある。
一戸建ての玄関を開けると、出汁のいい匂いが漂ってきた。
「ただいまー」
「お帰り、恒一。今日は少し遅かったじゃない」
キッチンから母親が顔を出した。エプロン姿で、手に玉じゃくしを持っている。
「ちょっと学校の帰りにタカハシさんに寄ってたんだ」
「またプラモデル? もう、自分の部屋、箱だらけなんだから少し整理しなさいよ。それと、明日は模試なんだから夜更かししちゃダメよ」
「わかってるって。親父は?」
「今日は残業だって。ご飯できてるから、手を洗っておいで」
「はーい」
洗面所で手を洗い、鏡に映る自分の顔を見る。
少し寝癖のついた黒髪、どこにでもいる平凡な高校生の顔。
毎日同じ学校へ行き、同じ授業を受け、放課後は好きな趣味に没頭し、夜は家族とご飯を食べて寝る。
退屈で、けれど穏やかで平和な日常。
明日も、明後日も、来年も、この平穏がずっと続いていくのだと、恒一は疑いもしなかった。
夕食の肉じゃがと味噌汁を平らげ、自分の部屋へ戻る。
6畳ほどの自室の壁際には、恒一がこれまで組み上げてきた戦車や航空機、銃器のプラモデルがずらりと並んでいた。棚の一角には、何冊もの厚い軍事技術全書や構造図面集が整然と並んでいる。
机に向かい、スタンドライトの明かりをつけた。
購入してきた小さな真鍮パーツをピンセットでつまみ、拡大鏡を覗き込みながら、1ミリにも満たない接着面に慎重にピンポイントで接着剤を乗せていく。
カチ。
パーツが完璧な位置に収まる。
内部構造の歯車と、外身の装甲が綺麗に組み合わさるその瞬間、恒一の胸には小さくも確かな充足感が湧き上がった。
「……よし。これでエンジンの冷却ファン周りは完璧だ」
時計を見ると、すでに夜の11時を回っていた。
母親に言われた通り、明日は模擬試験だ。本当はもう少し作業を進めたかったが、恒一はキリのいいところで作業を切り上げ、道具を整頓した。
ベッドに横になり、天井を見上げる。
静かな部屋の中に、柱時計の規則正しいチクタクという音だけが響いていた。
(明日の模試が終わったら、次は車体の塗装だな。オリーブドラブにするか、それとも迷彩にするか……)
そんな他愛もない明日への楽しみに思考を巡らせながら、恒一は静かに目を閉じた。
翌日。
秋晴れの爽やかな青空が広がる朝だった。
恒一はいつも通りの時間に登校し、いつも通りの席に座った。
午前中の重苦しい模擬試験が終わり、昼休みのチャイムが鳴ると、教室は一気に解放感に包まれた。
「うわー! 数学マジで意味不明だった! 恒一、お前最後の手順解けた?」
前線の友人が振り返って頭を抱える。
「ん? ああ、最後の問4だろ? あれは計算の順番さえ間違えなければ、公式通りに解けるはずだけど」
「うぐぐ……理系脳め……。よし、気を取り直してメシだメシ!食券買いに行くぞ!」
そう言うと友人は席から立ち上がり、恒一もカバンの中に入ってある財布を取ろうとした。
その、瞬間だった。
――ズンッ。
地鳴りのような、不気味な重低音が校舎全体を揺らした。
「うわっ!? 地震!?」
クラスメイトの誰かが叫んだ。
机が一斉にガタガタと激しく揺れ、窓ガラスがビンビンと悲鳴を上げる。
だが、それは通常の地震とは明らかに異なっていた。揺れとともに、空間そのものがぐにゃりと歪むような、激しい目眩と浮遊感が全員を襲ったのだ。
「な、なんだこれ……!?」
恒一は咄嗟に机の脚を強く握りしめた。
視界が急速に色を失っていく。教室の壁、黒板、友人たちの顔、窓の外の青空――すべてがキャンバスに描かれた絵のぐ具が溶け出すように、ドロドロと崩れていく。
「きゃあああッ!?」
「おい、足元が……!? 光ってる!?」
男子生徒の悲鳴と、女子生徒の悲鳴が錯綜する。
恒一が足元に目をやると、教室の床一面に、複雑で幾何学的な模様を描く巨大な謎の円。まるで異世界物の魔方陣のようなものが光っていた。
白く、眩い、目も眩むような暴力的な光。
「な……んだ……これ……!?」
光の粒子が、足元から渦を巻いて登ってくる。
重力が失われ、身体が宙に浮き上がる感覚。
周囲のクラスメイトたちが、光の奔流の中に呑み込まれ、一人、また一人と姿を消していく。
耳をつんざくような激しい風切り音。
空間が引き裂かれるような圧倒的な圧力。
時間の感覚すら喪失した光の果てで――。
ゴオォォォォン……ッ!
重厚なパイプオルガンのような音色と、幾重にも重なる讃美歌のような合唱の声が、眩暈を起こしそうなほど大音量で脳内に響き渡った。
身体に、ズシリと重力が戻ってくる。
固い、磨き上げられた大理石の床の冷たさが、倒れ込んだ膝と両手に伝わってきた。
「ぐ……っ……、あ……」
恒一は激しい吐き気に襲われながら、必死に体を起こした。
周りを見渡すと、そこは学校の教室ではなかった。
天を突くほど高い天井。そこから吊り下げられたシャンデリア。
幾本もの巨大な石柱が立ち並び、壁には精巧な聖人の彫刻が彫られている。まるで中世ヨーロッパの大聖堂のような、荘厳で、同時に底知れぬ威圧感を放つ巨大な広間だった。
周囲には、同じように床に倒れ込み、困惑と恐怖で混乱するクラスメイトたちの姿があった。
「ここ……どこだよ……?」
「私、学校にいたはずじゃ……」
「夢……? これ、ドッキリか何か!?」
悲鳴と戸惑いの声が広間に満ちていく。
恒一もまた、荒い呼吸を整えながら必死に状況を観察した。
彼らの正面、高い階段の上に設置された黄金の玉座。
その周囲を取り囲むように、真っ白な法衣に身を包んだ無数の人物たち――神官と思わしき集団が、手に握った杖を黄金の光で輝かせながら、見下ろしていた。
そして、その中央に立つ、一際豪華な衣を纏った老神官が、両腕を大きく広げ、朗々とした声で広間全体に響き渡るように叫んだ。
『――歓喜せよ、異世界の訪問者たちよ!』
老神官の顔には、慈愛に満ちた笑みが浮かんでいた。
しかし、その瞳の奥には、人間を人間とも思っていないような、冷たく計算された光が宿っていた。
『神の御業により、諸君は勇者として召喚された! この聖なるスフラン共和国を、そして世界を救うために!』
大聖堂の静寂を切り裂く、その大袈裟で、どこか胡散臭い言葉。
「「「はあああああああ!?」」」
僕含め周りにいた生徒たち全員が叫んだ。
拝啓、お母さんお父さん。どうやら俺は異世界に召喚されたらしいです。




