↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
29/37

第27話 村まで3分

5月16日。


異世界に来て、5日目の朝。


いつものように社員証をタイムレコーダーへかざすと、短い電子音とともに《出勤》の文字が表示された。


俺はその画面を見ながら、ふと手を止める。


「……これ、本部まで届いてるのかな」


店ごと異世界へ来たあとも、俺たちは毎日きちんと出勤と退勤を打刻している。


誰かに言われたわけではないが、店で寝泊まりしているからといって、起きている時間すべてが仕事というわけではない。


営業が終われば退勤して、翌朝になればまた出勤する。


その辺りだけは、できる限り以前と変えないようにしていた。


問題は、その勤怠データがどこまで届いているのかだ。


売上は会社へ届いているし、発注も通っている。


店内使用の申請まで向こうで処理されているのなら、勤怠だって届いていてもおかしくはない。


……いや。


そもそも店舗そのものが異世界にある時点で、全部おかしいんだけど。


最近は何がおかしくて、どこからを普通として扱えばいいのか、自分でも分からなくなってきた。


俺はそれ以上考えるのをやめ、そのまま1階のバックヤードへ向かった。


扉を開けると、すでに鈴木さんが朝の荷物を確認していた。


「おはようございます」


「おう。おはよう、店長」


「今日も早いですね」


「年寄りは朝が早いんだよ」


「55で年寄りって言ったら怒られますよ」


「誰にだよ」


そんな会話を交わしながら、俺はバックヤードの奥へ視線を向けた。


今日も、いつもの場所に《GOD BOX》が置かれている。


最初に見つけた時はかなり警戒した謎の箱だが、これを見るのも今日で3日目だ。


たった3日なのに、GOD BOXを確認すること自体が、もう朝の日課になりつつある。


蓋を開けると、今日も中には現金が入っていた。


昨日の売上は8,536,420円。


これまでの結果から考えると、GOD BOXから出てくる金額は、おおよそ商品の粗利相当と見てよさそうだった。


今のところ、原価75%、粗利25%で計算するとほぼ一致している。


つまり今日の報酬は2,134,105円。


数えてみても、やはりその金額だった。


「……また200万超えか」


営業初日の売上が9,983,760円。


2日目が8,947,320円で、昨日が8,536,420円。


3日間の売上合計は27,467,500円になる。


その25%なら、GOD BOXから受け取った報酬の累計は6,866,875円。


そのうち10,000円はすでに現地通貨へ両替しているので、円の現金として残っているのは6,856,875円だ。


約686万円。


会社側には売上そのものが入金され、こちらには利益相当だけが残る。


相変わらず意味の分からない仕組みだが、ひとつだけ分かってきたことがある。


通常の売上金は、一晩経つと金庫から消えて会社側へ入金される。


ところが、GOD BOXから出てきた現金は、事務所の金庫へ入れておいても翌朝そのまま残っている。


「……そのうち1,000万いくな」


普通の店舗なら、金庫にこれだけの現金を置いておきたくはない。


防犯設備も監視カメラも動いているとはいえ、落ち着かないものは落ち着かない。


「店長?」


鈴木さんがこちらを見る。


「いや、独り言です」


俺は今日の分を持って4階の事務所へ向かい、金庫を開けて昨日までの現金と一緒にしまった。


異世界に来てまだ5日で、営業を再開してからなら、たった3日しか経っていない。


それなのに金庫には、会社員の感覚ではあまり近寄りたくない額の現金が積み上がっている。


「店長、おはようございます」


振り返ると、山本が事務所へ入ってきた。


「おはよう」


「今日もGOD BOXですか?」


「ああ。普通に入ってた」


「普通って何なんでしょうね」


「俺に聞かれても困る」


山本は苦笑しながら自分の席へ向かった。


俺も金庫を閉じようとして、今朝タイムカードを見た時のことを思い出す。


「あ」


「なんですか?」


「給料」


山本の動きが止まった。


「給料?」


「俺たちの」


二人で数秒、黙り込んだ。


「……そういえば」


「忘れてただろ」


「店長もですよね?」


「俺も今思い出した」


売上や在庫、発注のことばかり考えていたせいで、完全に抜け落ちていた。


俺たちは普通に働いているのだから、当然そこには給料の問題がある。


「タイムカードは毎日打ってますよね」


「ああ」


「勤怠データまで本部に届いていれば、そのまま給与処理されている可能性はあります」


「問題は、それを確認できないことだな」


一般のインターネットは使えるし、銀行のサイトを見ることもできる。


ただし、会社へ問い合わせることはできない。


電話もメールもメッセージも、問い合わせフォームも、こちらから何かを送信しようとすると全部失敗する。


「まあ、給料日になったら口座見れば分かるか」


俺がそう言うと、山本は呆れたような顔をした。


「ずいぶん適当ですね」


「今考えたって答え出ないだろ」


「それはそうですけど」


「入ってなかったら、その時考えよう」


山本は小さくため息をついた。


「最近、私までそういう考え方になってきた気がするんですよね」


「いいことじゃん」


「店長みたいになってるってことですよ?」


「それは失礼だな」


「褒めてません」


給料の件は、ひとまず保留にした。


現時点でできることがない以上、考え続けても仕方がない。


俺は再び1階へ戻る。


バックヤードへ入ると、今度は渡辺も来ていた。


「おはようございます、店長」


「おはよう」


渡辺は入荷した商品を台車へ載せ、その横では鈴木さんが冷凍食品の箱を開けている。


「店長、これ見ました?」


「何です?」


「冷食」


「冷食?」


箱の中を覗き込む。


冷凍チャーハンや冷凍うどん、冷凍パスタなら今までも見ていた。


ただ、その奥に並んでいたものは少し違った。


冷凍の鶏肉や豚肉、魚に野菜。


完成品ではなく、明らかに調理用の食材だ。


「……肉あるじゃん」


「ありますね」


渡辺も横から覗き込む。


「これ、業務用っぽいですね」


俺は近くの端末で商品マスタを開き、そのまま検索をかけた。


すると鶏もも肉、豚こま、白身魚、冷凍ブロッコリー、ミックス野菜など、調理用の冷凍食材が普通にいくつも出てくる。


「これ、普通に発注できるな」


「できますね」


「じゃあ、ちゃんと飯作れるじゃん」


これまではレトルトやカップ麺、完成品の冷凍食品が中心だった。


もちろん、それでも生活はできるが、14人が長期間ここで暮らすとなれば話は別だ。


材料から料理できるのなら、食事の選択肢は一気に広がる。


俺の頭に、3階のリフォーム展示に置かれているシステムキッチンが浮かんだ。


あれを4階へ持っていければ、食生活はかなり改善できる。


「やっぱりキッチン、早めに上げたいな」


「3階のですか?」


「ああ。肉も魚も野菜も頼めるなら、使わない理由ないだろ」


鈴木さんが笑う。


「だったら風呂も早くしたいな」


「そうなんですよ」


どうせ給排水の工事をするなら、システムキッチンだけでなく、ユニットバスも一緒に考えた方がいい。


大型のドラム式洗濯乾燥機も置きたいし、ベッドも少しずつ揃い始めている。


最初は、とりあえず寝られればいいと思っていた。


でも今は、ここでしばらく暮らす可能性が高いと分かってきた。


だったら「生活できる店」ではなく、「生活しやすい店」にした方がいい。


「店長」


伊藤がバックヤードへ顔を出した。


「ミアちゃんとお父さん、来ましたよ」


「あ、もう来た?」


「はい。入口で待ってもらってます」


「分かった。すぐ行く」


今日は、いよいよ店の外へ出る。


異世界に来て5日目。


初めてカワダ電器の敷地の外へ行く日だ。


1階の正面入口へ向かうと、ミアと父親が待っていた。


二人のそばには自転車が置かれていて、どうやらこれで村から来たらしい。


「テンチョー!」


ミアがこちらに気づき、大きく手を振った。


「おはよう、ミア」


「オハヨー!」


またひとつ日本語を覚えたらしい。


少し遅れて、山本と田中もやってきた。


今日、村へ向かうのは俺、山本、田中の3人だ。


本音を言えば伊藤も連れていきたかったが、今は1階と2階の両方で営業しているため、レジ担当を抜く余裕がない。


そのため今回は田中を連れていくことにした。


メーカーの販売支援をしていた経験もあるし、接客にも慣れている。


「ところで、村まではどれくらいなんです?」


俺が尋ねると、ミアの父親はあっさり答えた。


「歩いて20分ほどです」


「20分?」


思っていたより、ずっと近い。


勝手に何時間もかけて向かうような場所を想像していた。


「自転車なら?」


「7分か8分くらいですね」


「近いな」


山本が俺を見る。


「歩きます?」


それでもいいのだが、せっかく村まで行くのなら、少し商品も持っていきたい。


「……トラック使おう」


「トラックですか?」


田中が聞き返す。


「荷物が積めるからな」


村の人たちが何を必要としているのか。


どの商品に興味を示すのか。


店で客を待っているだけでは分からないことも多い。


大量に持っていく必要はないので、LEDランタン、乾電池、モバイルバッテリー、充電器、小型のソーラーパネル、それに少しの日用品と菓子、飲料を選ぶことにした。


売れなければ、そのまま持って帰ればいい。


「出張販売ですね」


田中が言う。


「調査販売」


「違います?」


「気持ちが違う」


山本が笑う。


「一緒じゃないですか」


持っていく商品を選び、台車でバックヤードへ運ぶ。


さらに、サービス用のハンディターミナルとモバイルレジも用意した。


問題は通信だ。


カワダ電器の敷地を離れた時、店のネットワークがどこまで使えるかは分からない。


だから最初から、通信できない前提で準備しておく。


最新の商品マスタと売価、持っていく商品のバーコードデータを端末へ更新し、そのあと通信を切った。


「田中、これ読ませて」


「はい」


乾電池をスキャンすると、短い電子音とともに商品名と売価が正常に表示された。


続いてLEDランタンも読み込ませ、数量を入力して会計画面まで進めてみる。


「大丈夫ですね。オフラインで使えます」


「災害時対応用だな」


通信障害が起きても最低限の販売を続けられるよう、売上データを端末内へ保存できる。


店舗ネットワークへ戻った時点で同期すればいい。


今回は現地通貨による現金販売だけの予定なので、それで十分だった。


「帰ってきたら同期してくださいね」


山本が言う。


「分かってる」


「店長、忘れそうなので」


「信用ないな」


釣り銭用の現地通貨も用意した。


以前、GOD BOXから10,000円を取り出して両替したものなので、これだけあれば小規模な販売なら問題ないだろう。


最後に、店を任せる体制も確認しておく。


木村には事務と全体連絡。


小林さんには、俺と山本がいない間の現場判断を任せる。


1階は伊藤たち、2階は高橋が見る。


昨日決めた通りの体制だ。


俺と山本が同時に店を離れるのは初めてだが、今の東山店なら営業は続けられる。


異世界へ来た初日の混乱を思えば、それだけでもかなりの進歩だった。


商品を配送用トラックへ積み終え、俺たちは外へ出た。


ミアの父親は、さっきから興味深そうにトラックを眺めている。


「これは……魔石車ですか?」


やっぱり、そう見えるらしい。


「違います」


「違うのですか?」


「これは軽油で走ります」


「ケイユ?」


「燃える油……ですね」


父親が首を傾げる。


「魔石は使わない?」


「使いません」


「魔力も?」


「使いません」


父親はトラックを見てから俺を見て、もう一度トラックへ視線を戻した。


「では、誰でも動かせるのですか?」


「免許があれば」


「メンキョ?」


また説明が必要な言葉が増えた。


「……それは、また今度説明します」


父親はまだ不思議そうだったが、自転車へ戻った。


ミアもその隣で自転車にまたがる。


「私たちが先に行きます」


「お願いします。後ろからゆっくりついていきます」


俺が運転席へ乗り込み、山本と田中が助手席側へ乗った。


エンジンをかけると低い音が響き、その音にミアが驚いたように振り返る。


父親も少し目を見開いていた。


考えてみれば当然か。


魔力も魔石も使わず、馬にも引かせず、大きな車体が自力で動く。


この世界の人からすれば、十分に異様な乗り物だろう。


ミアと父親が自転車で走り出し、俺は少し距離を空けながら、その後ろをゆっくりついていった。


駐車場を抜けると、毎日見ていた店舗の正面が少しずつ後ろへ遠ざかっていく。


そのまま敷地の端を越え、異世界に来てから初めてカワダ電器の外へ出た。


アスファルトが終わり、タイヤの下が土へ変わる。


車体が軽く揺れ、窓の外には草地や畑、その向こうには森が広がっていた。


舗装されていない道の周囲には家がぽつぽつと建ち、日本の郊外とはまるで違う景色が続いている。


窓を少し開けると、土と草の匂いが車内へ入ってきた。


「……異世界だな」


思わず口にすると、助手席の山本が笑う。


「今さらですか?」


「店の中にいると、あんまり実感ないんだよ」


冷蔵庫もテレビもエアコンもある。


インターネットまで繋がっている。


店内にいる限り、目に入るもののほとんどは日本にいた頃と変わらず、そこへ異世界の客がやって来ていただけだった。


今は逆だ。


俺たちの方から、この世界で暮らす人たちの生活圏へ入っていく。


前を走るミアが何度か楽しそうにこちらを振り返り、そのたびに父親から前を向くよう注意されている。


道端や畑にいた人たちも次々と作業の手を止め、ほとんど全員が俺たちのトラックを見ていた。


馬はいない。


誰かが漕いでいるわけでもないし、目立つ魔石もない。


それなのに、大きな鉄の車が音を立てながら走っている。


俺たちから見れば、この景色こそが異世界だ。


でも彼らからすれば、異世界から来たのは俺たちの方なのだろう。


自転車に合わせて走ること、7分ほど。


やがて前方に、建物がまとまって見えてきた。


ミアの父親が振り返って片手を上げたので、どうやらあそこが目的地らしい。


「着いたみたいですね」


山本が前を見る。


「早かったな」


「歩いて20分ですからね」


その言葉で、ようやく距離感が掴めた。


自転車についてゆっくり走って7分ほどなのだから、トラックだけなら数分で着く距離だ。


「……近所じゃん」


俺が呟くと、田中が隣で笑った。


「初めての異世界遠征が、ご近所訪問になりましたね」


「言うな」


ただ、村へ近づくにつれて、今度は別の違和感が出てきた。


遠目に見える家の数が、俺の想像より明らかに多い。


人影も多く、小さな農村と呼ぶには、少し規模が大きすぎるように見える。


「……思ってた村と、ちょっと違うな」


山本も同じことを感じたのか、黙って前方を見ていた。


何にせよ、それは中へ入ってみれば分かる。


初めてカワダ電器の敷地を離れた俺たちは、ようやくこの世界で暮らす人たちの場所へ足を踏み入れようとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。