第75話 アマリリスの未練
『シャルロット薬舗』へ穏やかな日常が戻っていた。
薬草教室を終えた日の夜。
夕食を済ませた皆は、お茶を飲みながら食卓を囲み、思い思いにくつろいでいる。
リュンヌは一冊の恋愛小説を夢中になって読んでいた。
「もう、この二人、お似合いすぎるよ!」
頬を緩めるリュンヌを見て、ソレイユも興味津々で身を乗り出す。
「どんなお話なんですか?」
「最初は喧嘩ばっかりだった二人が、最後は恋人になるんだよ!」
「わぁ……素敵!」
その様子を見ていたアマリリスが、ひょこっと本を覗き込んだ。
「なになに?」
「恋愛小説?」
ページをぱらぱらとめくっていた、その時だった。
「あっ……」
アマリリスの表情が、ぴたりと止まる。
胸の奥が、小さくざわついた。
「どうしたの?」
シャルロットが優しく尋ねる。
アマリリスは、自分の胸へそっと手を当てた。
「私……」
「恋をしたことが、なかった気がする」
食卓が静まり返る。
「だからかな……」
「私が他界できず、この世にいるのって」
「恋を知らないまま死んじゃったからなのかな……」
記憶は曖昧だった。
けれど、その言葉だけは、不思議と胸の奥からこぼれ落ちてきた。
シャルロットは少し考え、穏やかに微笑む。
「でしたら、一度確かめてみませんか」
「本当に、それがアマリリスさんの未練なのか」
ルークも静かに頷く。
「思い込みかもしれないしね」
「実際に試してみれば、本当に心へ引っ掛かっているものが分かるかもしれない」
エレナは湯呑みを置き、穏やかに微笑んだ。
「恋とは、心で育まれるもの」
「じゃが、自分の心と向き合うきっかけにはなるじゃろう」
リュンヌも笑顔で拳を握る。
「やってみないと分からないよ!」
すると、ソレイユが勢いよく手を挙げた。
「じゃあ、僕がお手伝いします!」
皆の視線が集まる。
ソレイユは少し照れくさそうに笑った。
「恋愛小説みたいに、一緒に街を歩いたり、お買い物をしたり……」
「そういうことをしてみたら、何か思い出せるかもしれません!」
アマリリスは目を丸くする。
「ソレイユくん……」
シャルロットも優しく頷いた。
「それは素敵な提案ですね」
「では明日、お仕事が終わってから行ってみましょう」
「はい!」
翌日。
アマリリスとソレイユは、街をゆっくり歩いていた。
この日のアマリリスは、ソレイユにしか姿を見せていない。
道行く人々から見れば、ソレイユが一人で楽しそうに話しているようにしか見えなかった。
「あの子、誰と話してるんだ?」
「独り言かしら?」
そんな声が聞こえてくる。
ソレイユは少し照れ笑いを浮かべながら、小さな声で言った。
「気にしなくて大丈夫ですよ」
「皆さんには、アマリリスさんは見えていませんから」
アマリリスは思わず吹き出す。
「ふふっ」
「なんだか不思議な気分」
二人は露店を見て回り、小物を眺める。
焼きたてのお菓子の甘い香りが漂う。
ソレイユは嬉しそうに焼き菓子を頬張っていた。
その姿を見ながら、アマリリスは穏やかに微笑む。
「いいなぁ」
「食べられないけど、見てるだけで幸せ」
恋愛小説の主人公のような一日。
二人はたくさん笑った。
とても楽しかった。
けれど――。
「違う……」
「楽しかったけど……」
「私が探しているものは、これじゃない」
胸の奥に残る、小さな違和感。
まるで、本当に探しているものは別にあると、誰かが教えてくれているようだった。
その夜。
アマリリスは、不思議な夢を見る。
病弱だった幼い頃。
ベッドの上で過ごした毎日。
忙しく働く両親。
世話をしてくれた使用人。
窓越しに眺めていた外の世界。
そして、一度だけ屋敷で出会った幼いミュゲ。
忘れていた記憶が、静かに、ゆっくりと蘇り始めるのだった。




