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第八話 全員の答え

白い天井だった。


目を開けると、いつもそれが最初に見える。自分の部屋の天井じゃない。蛍光灯のカバーに薄く埃が積もっていて、右腕には点滴のチューブが繋がっていて、空気が消毒液の匂いをしている。


病院。


そうだ。俺は入院しているんだった。


体を起こそうとして、脇腹に走った痛みに息が詰まる。腹だけじゃない。左肩、右の前腕、胸の下。全身のあちこちに刺し傷があって、どれもまだ塞がりきっていない。包帯の下がじくじくと熱い。


痛い。


当たり前のことなのに、俺にとっては当たり前じゃなかった。十七年間生きてきて、痛みがこんなふうに——何時間も、何日も、ずっと残り続けるものだと知らなかった。


転んでも。ぶつけても。「痛かった記憶」が、思い返すと、一度もない。


あの数字が見えるようになってからおかしくなったんだと、ずっと思っていた。


違った。最初から全部、おかしかったのは俺のほうだ。



入院二日目に、刑事が来た。


四十代くらいの、疲れた顔をした男だった。パイプ椅子に座って、手帳を開いて、事務的な質問を並べた。


「犯人の顔は見ましたか」


見た。


完璧な笑顔で。泣きながら。俺を何度も刺した顔を。はっきりと。


「……いえ。暗くて」


「凶器に心当たりは」


光る刀身。普通の刃物じゃなかった。あれで刺された瞬間、体の奥の何かが——ずっと俺を守っていた何かが、初めて断ち切られた感覚があった。


「……わかりません」


刑事はペンを走らせた。頭上に浮かぶ数字は【3】。仕事で来ているだけだ。当然だろう。見ず知らずの高校生に、それ以上の関心があるわけがない。


「同級生で何かトラブルは?」


「……特には」


嘘だ。でも何を言えばいい。前世が魔王で、刺したのは勇者の転生体で、凶器は聖剣です——言えるわけがない。言ったところで、この「3」が動くとは思えない。


刑事は帰った。


俺はまた天井を見た。



母さんが来たのは初日の夜だった。


泣いていた。


頭上に浮かぶ数字は75。いつもは70なのに。5だけ上がっていた。息子が刺されたから。心配だから。当たり前の感情が、当たり前に数字で見えてしまう。


そういう上がり方は、嫌だった。


「お母さん、犯人は絶対捕まるからね」


「……うん」


捕まらないと思う。結愛は、そういう次元にいない。


母さんが帰ったあと、病室は静かになった。窓の外が暗い。点滴の雫が、一定のリズムで落ちている。


看護師が検温に来た。頭上の数字は12。前に来た別の看護師は8だった。担当だから丁寧にしてくれているだけで、それは好意じゃない。職業的な親切。それが数字で可視化される。


見たくない。


でもこの能力はオフにできない。目を開けている限り、すべての人間の頭上に数字が浮かぶ。目を閉じれば見えないが、暗闘の中では別のものが見える。


完璧な笑顔。


血の色の数字。


-999。



三日目の午後だった。


病室のドアが、こんこん、と鳴った。


返事をする前に、ドアが数センチだけ開いた。


そして紙袋が——にゅっと差し込まれた。


「……置いとくにゃ」


小さな声。聞き覚えのある、語尾が猫みたいに跳ねる声。


こむぎ。


俺が何か言う前に、ドアが閉まった。


廊下をぱたぱたと走る足音。小さくて速い。すぐに聞こえなくなった。


紙袋をベッドの上に引き寄せる。体を動かすだけで脇腹が痛んだが、それでも手を伸ばした。


中身は菓子パン。


四つ。丸くて、こんがり焼けていて、表面に粉砂糖がかかっている。まだ温かい。ここに来る直前に焼いたんだろう。


一つ取り出して、噛んだ。


甘かった。


柔らかくて、中にカスタードクリームが入っていて、パンの生地がふわふわしていて。何も考えずに食べた。二つ目も食べた。三つ目は半分で手が止まった。別に満腹じゃない。ただ——喉の奥が、少し詰まった。


紙袋の底に、メモが一枚入っていた。


『はやくよくなるにゃ こむぎ』


猫の絵が描いてあった。


下手だった。耳が左右で大きさが違う。ヒゲが七本ある。左右で本数が違う。なかなか味がある。


残りの一個半は、夕方に食べた。


病院食よりずっとうまかった。



五日目。


ドアが、ノックなしで開いた。


「生きてんじゃん」


あかね。


制服のままだった。学校の帰りに寄ったらしい。丸椅子をベッドの横にがっと引いて、遠慮なく座った。


「……まあ」


「痛い?」


「痛い」


「だよね。刺されたもんね」


遠慮というものがない。


だがそれが——不思議と、楽だった。


あかねは手ぶらだった。こむぎのようにパンを焼いてくるタイプじゃない。花も本も持ってきていない。あかねは「あかねだけ」を持ってきた。


「こむぎのパン食べた?」


「食べた」


「おいしかった?」


「おいしかった」


「じゃ大丈夫。食えるなら死なない」


断定が速い。


沈黙が降りた。あかねは窓の外を見ていた。夕方の空がオレンジ色に染まっている。病室は四階だった。グラウンドが見える。どこかの学校の野球部が走り込みをしているのが、小さく見えた。


「ウチさ」


あかねが言った。


「難しいこと分かんないし。前世がどうとか魔王がどうとか、ぶっちゃけ半分しか分かってないし」


「半分かよ」


「うっさ」


あかねは視線を窓から俺に戻した。


「あんたに聞きたいことが一個だけあんだけど」


「……なに」


「あんたと走んの、楽しかった。ウチはまたあんたと走りたい。——あんたは?」


走る。


あかねとはよく走らされた。魔王部の活動で、あかねが魔王の日はだいたい校庭十周だった。俺は毎回死にかけて、あかねは毎回笑っていて、好感度がどんどん上がるのを横目で見ながら逃げ回っていた。999になると襲われた。


地獄だったと言えば、地獄だった。

楽しかったかと聞かれたら——楽しかった。


「…………」


「返事は退院してからでいいし」


あかねは立ち上がった。丸椅子を元の位置に戻した。几帳面なのか雑なのかよく分からない。たぶん雑だけど、病院だから気を遣ったのだろう。あかねなりに。


「あ、あとウチ手ぶらで来ちゃったんだけど」


「見りゃ分かる」


「今度なんか持ってくるわ。ダンベル5キロでいい?」


「いらない」


「じょーだんだし。1キロにするわ」


ドアを開けて、出ていく。


振り返らなかった。


あかねが廊下を歩いていく足音が遠ざかる。その瞬間、視界の端に——ちらっと、数字が見えた。あかねの頭上。病院まで歩いて来た分だけ上がっているのか、500を少し超えたくらいの金色の数字。


俺は目を逸らした。



七日目の夕方に、しおりが来た。


ノックが三回。均等な間隔。しおりだと分かった。


「失礼します」


入ってくる。制服の上にカーディガンを羽織っている。梅雨の時期だから、外は肌寒いのかもしれない。丸椅子に座る。姿勢がいい。膝の上にノートを一冊置いた。


「体調はいかがですか」


「……まあ、生きてる」


「そうですか。よかったです」


しおりは微笑んだ。いつもの穏やかな笑顔。だがどこかに、隠しきれない疲労の色がある。目の下に薄いクマ。普段はこんなのなかった気がする。


「伺くん」


「なに」


「報告が二つあります」


ノートを開いた。


「一つ目。結愛さんは、事件以降学校に来ていません。自宅にも戻っていないようです」


「……」


「警察の捜査は続いています。ですが——おそらく、核心には届きません」


しおりは淡々と続けた。


「勇者一族の力は『好感度操作』。直接対面した相手の感情を書き換える能力です。接触した捜査官は個別に操作されるでしょう。ですが組織全体を遠隔で支配することはできないはずです。捜査は消えません。ただ、追い詰めることも——おそらくできません」


「……お前、なんでそこまで知ってるんだ」


「参謀ですから」


丁寧語。平坦な声色。いつもなら推しカプの話題で暴走するしおりが、今日はオタク語を一切使わない。テンションが上がる気配もない。ノートの上に置いた手が、微かに力んでいるのが見えた。


「二つ目。こちらが本題です」


ノートを閉じた。膝の上に手を重ねた。


「前世の話です。私は前世で、魔王軍の記録係でした。魔王様の傍で、すべてを書き留める役割でした。正しい言葉を選ぶのが仕事でした」


四天王参謀。知識と言語を武器にする、アークリッチ。


「だから今も——正しい言葉を探しています。あなたに届く、完璧な一言を」


しおりは一度、目を伏せた。


「でも——ないんです」


「1000年分の語彙を持っていても。『早く治してください』以上の言葉が見つかりません」


沈黙。


「……参謀失格ですね」


自嘲ではなかった。本当に悔しそうだった。


「こむぎちゃんはパンを焼きました。あかねちゃんは走って会いに来ました」


少し間を置いた。


「雫さんは——」


しおりの声がわずかに揺れた。


「毎日来ています」


「……は?」


「面会時間が終わっても、病院の前にいます。伺くんの病室には入りません。ただ——います」


初耳だった。


毎日? 面会にも来ないで? 病院の前に?


「誰かが隣にいなくても。呼ばれなくても。あの人は——ずっとそこにいます」


しおりは立ち上がった。


「私は言葉しか持っていません。なのにその言葉すら足りない」


「でも、言います」


しおりが、真っ直ぐ俺を見た。


「早く治してください。そして学校に来てください。あの部室に。私たちのところに」


一礼。


深い。丁寧な。記録係の礼。


「失礼しました」


ドアが静かに閉まった。


しおりの足音は、ほとんど聞こえなかった。


病室がまた静かになる。点滴の音。窓の外で雨が降り始めていた。六月だ。梅雨の真ん中だ。


俺はベッドの上で仰向けに戻って、白い天井を見た。


毎日来ている。


病室には入らない。


ただいる。


……あいつらしいと、思った。



退院前日だった。


十四日目。二週間。刺し傷のほとんどは塞がって、脇腹の深いやつだけがまだ鈍く痛む。医者は「若いから回復が早い」と言った。いや——本来ならもっと早いはずだった。十七年間、怪我が一瞬で治る体だったのだから。あの刀で刺された傷だけが、普通の人間と同じ速度でしか治らない。


普通の速度が、こんなにもどかしいものだとは知らなかった。


夕方。点滴が外された。院内なら歩くことが許可されて、リハビリのために廊下を歩いていた。


外の様子が気になって、俺は病院の前の公園を歩いて行った。


公園のベンチに、誰かが腰かけていた。


雫だった。


片手に水筒を持っている。銀色の、保温ができるやつ。


背筋が真っ直ぐ。小柄な体。無表情な横顔。夕日が黒い髪を淡く染めていた。


「雫」


呼びかけると、俺の方を向いた。

相変わらずの無表情。


「……しおりから聞いた」


「はい」


「毎日来てたって」


「はい」


「なんで部屋に来なかった」


「呼ばれていません」


呼ばれていないから来なかった。それだけの理由。

俺が呼べば来た。呼ばなかったから来なかった。

でも毎日病院の前にはいた。


どういう感情の回路をしてるんだ。


「……ずっと言おうと思ってたんだが、俺は、どうやら好感度が見えるみたいなんだ。お前さ」


「はい」


「好感度999。ずっと変わんねえよな」


「……はい」


入院してから、できるだけ好感度を見ないようにしていた。看護師の無関心な数字も、刑事の「3」も、母さんの75も、見えるたびに心が削れた。だから目を逸らしていた。四天王が見舞いに来ても、なるべく数字を見ないようにしていた。


でも今、雫の頭上を見た。


【999】


虹色のフォント。光の粒子が音もなく舞っている。SSR確定演出。部室で初めて見たときと、まったく同じ輝き。


二週間前、俺が全身を刺されて入院しても。刑事事件になっても。

前世がどうとか魔王がどうとか。

受け入れがたい設定が、全部本当だと突きつけられても。


この数字は最初からずっと変わっていなかった。


一ミリも。


「……なんで」


雫は俺の目を見た。無表情だった。いつもと同じ顔。でも俺を見ている目だけが——どこか、深かった。海の底みたいに静かで、底が見えなかった。


「変える理由がありません」


——その言い方が、引っかかった。


ずっと引っかかっていたことだ。


入学初日から今日まで。一度も揺らがない999。挨拶を返しただけで1上がるクラスメイトの数字、菓子パン一個で天井まで跳ね上がるこむぎの数字、運動のたびに乱高下するあかねの数字。みんな動く。動くのが当たり前だ。感情は水面みたいなもので、風が吹けば波立つし、凪げば静まる。


なのに雫だけが動かない。


最初から999で、ずっと999で、俺が何をしても何をしなくても999。


「……聞いていいか」


「はい」


「俺って、お前にとって何なんだ」


雫の瞬きが、一回分だけ遅れた。


質問の意図を測っているのか。あるいは——答えるかどうかを、決めているのか。


窓の外で、救急車のサイレンが遠くを通り過ぎていった。


「……私は」


雫が口を開いた。


いつもより、少しだけ声が低かった。


「人工精霊です。人の形を似せて作られたもの」


雫は、無表情のまま言った。

ステータスが見えたとき——『コキュートス』という種族名が浮かんでいた。

人ならざるもの。人の形を似せて作られたもの。

1000年の時を超えて生き続ける存在。


「造られた存在には、自我がありません」


淡々と。事実を並べるように。


「感情もありません。好悪もありません。命じられたことを実行する——それだけのものです」


雫の声は揺れなかった。だが、俺にはわかった。これは「説明」じゃない。これは——自分自身に何度も言い聞かせてきた言葉だ。


「あなたは前世で——私にかけがえのないものをくださいました」


雫の手が、膝の上で小さく動いた。指先が制服のスカートの布を、ほんの少しだけ摘んでいた。無意識の仕草。この子がこういう無意識の動作をするのを、俺は初めて見た。


「自由です」


一語。


静かだった。


「造られたものに、自由を与えてくださいました。自分で考え、自分で選び、自分で決めていいのだと」


雫の目が、窓の外から俺に戻った。


「私は——ならばと、初めて、自分の心を持ちました。心を持つ自由を行使しました」


間。


「そして初めて行使した自由が——魔王様を好きになる、ということでした」


息が、止まった。


雫は続けた。表情は変わらない。声のトーンも変わらない。ただ言葉だけが、静かに、一語ずつ、正確に並んでいく。


並木道の間から差し込む夕日が、芝生をオレンジ色に染めていた。雫の頭上の虹色が、夕日と混ざって、見たこともない色になっていた。


「……それで、999に?」


俺の声がかすれた。自分でも気づかなかった。


雫が、ほんの一瞬だけ——目を伏せた。


まばたきより長く、うつむくよりは短い。雫にとっての、照れ、のようなものだと俺が気づいたのは、次の言葉を聞いたからだ。


「……好感度4億は当たり前だと思っていました」


「は?」


「4億です」


「4億」


「はい。私が生まれてから1000年前の時点まで、4億年は経過していましたので、4億にしました」


真顔だった。完全に真顔だった。999が虹色に光っている。その数字の裏に4億が隠れていると思うと、なんというか——規格が違いすぎて目眩がする。


「上限が999であることを知ったのは、もう少し後のことです」


「……知った時どう思った」


「不便だと思いました」


不便。


好感度のカンスト上限が低すぎて不便。人工精霊の感想がそれか。


「たった999だと思われるのは不本意です」


「不本意って……お前、999を超えた分はどうなるんだ」


「あふれています」


あふれている。4億のうち999だけが表示されて、残りの3億9999万9001はどこかにあふれている。どこに? と聞きたかったが、たぶん答えは「ここに」だ。雫の中に。全部。


「……カンストして意味なくなってるよ、それ」


「はい」


「999で止まってるなら、俺に何をされても数字は動かないだろ。嬉しくても悲しくても、999は999だ」


「はい」


「変えようと思わなかったのか?」


雫が俺を見た。


正面から。まっすぐに。


「変える理由がありませんでした」


同じ言葉だった。さっきも聞いた。だが今度は、意味が違って聞こえた。


変えない、のではなく。


変える必要がない。


「……俺、魔王なんかじゃねえよ」


「はい」


「ただの高校生だよ」


「はい」


「お前らが命懸ける価値なんて——」


「はい」


「……全部『はい』かよ」


「はい」


沈黙。


雫は視線を逸らさなかった。俺から。


「あなたがただの高校生でも」


短い一文。


「魔王でなくても」


また一文。


「999は変わりません」


間。


「あなたが何者かは、あなたが決めてください。私が決めるのは、私の数字だけです」


雫にとって999は、上限に張り付いた不自由な数字じゃない。

初めて自分で選んだ感情の、唯一の出力形式なのだ。


雫はそう決めた。自由を使って、自分で決めた。


1000年前に。


そしてそれを、1000年間、一度も変えなかった。


「……お前」


声が出なかった。


喉の奥が詰まった。


さっきから何度も。こむぎのパンでも、あかねの走りたいでも、しおりの言葉でも。喉の奥が詰まる。でも今が一番ひどい。目の奥が熱い。鼻の奥が痛い。


泣くな。泣くなよ。病室で。こいつの前で。


「——4億は、ちょっと重いな」


声を作った。笑おうとした。成功したかどうかは、わからない。


雫は無表情のまま、小さく首を傾けた。


「重いですか」


「重い。めちゃくちゃ重い」


「そうですか」


「……嫌じゃないけど」


雫の瞬きが、また一回分だけ遅れた。


「……はい」


その「はい」は、今までのどの「はい」とも違っていた。


声の大きさは同じ。トーンも同じ。でもその一語の中に、何か——温度のようなものが、ほんのわずかに混ざっていた。

ダムにたまった水の、ほんの一滴が、表面に滲んだような。


俺はそれを聞いて、空を見上げた。

夕日はあっという間に沈んでいく。


雫は、手に持っていた水筒を俺に差し出した。


「紅茶」


「……もらう」


「どうぞ」


水筒のキャップを外す。注ぐ。キャップがカップになるタイプだった。湯気が立つ。琥珀色の液体。部室で毎日飲んでいた、あの紅茶の匂い。


一口飲んだ。


熱くて。香りが良くて。


部室で雫が白磁のカップに淹れてくれた、あの味と同じだった。


「……うまい」


「はい」


六月の終わり。梅雨の晴れ間。明日退院する。そうしたら——


今はまだ何も決められない。魔王になるとか、前世がどうとか、そんなことは分からない。分からないけど——


紅茶が温かかった。


パンが甘かった。


「あんたと走りたい」と言われた。


「学校に来てください」と頭を下げられた。


そして999は変わらなかった。4億のうちの999が、1000年間、一度も。


「……雫」


「はい」


「明日退院する」


「はい」


「学校——行くと思う。たぶん」


「はい」


雫は立ち上がった。


「残りは飲んでください」


「……ああ」


「おやすみなさい」


初めて聞いた言葉だった。あいつの口から、おやすみなさいなんて。


歩く。小さな背中。夕日が影を長く伸ばしている。


足音は——しなかった。雫の足音は、いつも聞こえない。


水筒の紅茶を、もう一口飲んだ。


まだ温かかった。



退院した翌日、俺は学校に行った。


脇腹はまだ鈍く痛む。完全には治っていない。制服のシャツの下に包帯が巻いてある。でも歩ける。走るのはまだ無理だが、歩ける。


教室に入ると、クラスメイトが何人か声をかけてきた。


「伺くん、大丈夫?」「入院してたんでしょ?」「犯人捕まった?」


頭上に数字が浮かんでいる。15、22、8、18。普通の数字。普通の関心。入院していたクラスメイトへの、社交辞令と少しの興味。


「まあ、なんとか」


適当に返して、自分の席に座った。


隣の席が目に入った。


結愛の席。


空だった。


机の上には何も置かれていない。花瓶もない。まだ失踪扱いだ。死亡ではない。ただいなくなっただけ。


「結愛さん、まだ来ないんだよね……」「家の事情とか?」「心配だよね」


クラスメイトの会話が耳に入る。心配している。本気で心配している。好感度操作で好かれていた——その名残が、まだ残っている。結愛がいなくなっても、植え付けられた好意は簡単に消えない。


俺だけが知っている。


あの完璧な笑顔の裏側を。


血の色の-999を。


泣きながら刺してきた、あの手の震えを。



放課後。


三階。旧視聴覚準備室の前。


『魔王部』


ドアに掛けられた手書きのプレート。しおりの達筆。明朝体に近い、綺麗な字。


ドアノブに手をかける。冷たい。金属の感触。ここに来るのは三週間ぶりくらいか。たった三週間なのに、もっと長い時間が経ったような気がする。


ドアを開けた。


部室の中。


窓から夕日が差し込んでいた。オレンジ色の光がタペストリーを染めている。しおりが作った漆黒の魔王城タペストリー。ペラペラで、風が吹くと揺れる。今日も揺れていた。


真ん中に、玉座があった。誰も座っていない。俺がいない間も、誰もそこに座らなかったんだろう。空けてあった。ずっと。


こむぎが、窓際の椅子から顔を上げた。膝の上にパンの袋を抱えていた。食べかけだった。目が丸くなって——耳がぴくっと動いた気がした。気のせいかもしれない。でもそういうやつだ。


「……おかえりにゃ」


あかねがデコダンベルを置いた。ラインストーンとリボンが揺れた。かわいい凶器。五キロが二つ。そんなものを部室で振り回していたのか。


「おっそ。何週間休んでんの」


しおりが本から顔を上げた。——いや、本じゃなかった。ノートだった。何かを書いていたらしい。ペンを置いて、こちらを見た。目の下のクマは、まだ少し残っていた。


「お帰りなさい、伺くん」


雫は——何も言わなかった。


部室の隅で、白磁のティーカップに紅茶を淹れていた。湯気が立っている。五つ分。誰が来るか分かっていたかのように、ちょうど五人分。


振り返りもしなかった。


四人の頭上に、数字が浮かんでいる。


こむぎ。食べかけのパンを抱えている。食事中だから——700を超えていた。金色。温かく光っている。


あかね。ダンベルを振っていた直後。500台。まだ上がりきっていない。でも俺の顔を見て、にっと笑って——数字が少し跳ねた。


しおり。400台。安定している。穏やかな金色。興奮していない。ノートの上に手を置いて、ただ微笑んでいる。


雫。


【999】。


虹色。光の粒子。SSR確定演出。


変わっていなかった。一ミリも。いつもと同じ。病院で見たのと同じ。入院する前と同じ。最初に見たときと同じ。


いつもと、同じだった。


こみ上げてくるものがあった。


目の奥が熱い。喉の奥が詰まる。泣きそうになっている。——泣くのか、俺は。ここで。こいつらの前で。


こらえた。


息を一つ吸って、吐いた。


「…………ただいま」


雫がティーカップをテーブルに置いた。五つ並んだカップから湯気が立っている。


振り返って、こちらを見た。


無表情だった。いつもと同じ。何も変わっていない顔。


でもカップは五つだった。


最初から、俺が来るのを待っていたみたいだった。

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