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第七話 勇者

夏服についた染みが落ちない。


五話のあの夜からもう三日が経っていた。結愛からのLINEは既読をつけたまま返していない。


『ねえ、ビデオレター、全部見た?』


たった一文。絵文字もスタンプもない。結愛のいつもの文面とは明らかに違っていた。


あの瞬間、背筋を走った冷たいものが何だったのか、俺にはまだわからない。わからないから、返せない。


教室で結愛と目が合うたびに、彼女はいつもと同じ完璧な笑顔を見せた。頭上の-999は、やはり微動だにしない。黒い靄がゆっくりと脈打っている。


俺はそのたびに目を逸らした。



放課後。


魔王部の部室では、いつもの光景が展開されていた。


「もう一回! もう一回再生するにゃ!」


こむぎがDVDプレイヤーのリモコンを握りしめている。好感度は現在891。上昇中。テーブルの上には雫が焼いたスコーンの残骸と、こむぎが持ち込んだ菓子パンの空袋が散乱している。


「何回目だよ」


「十四回目です」


雫が即答した。数えてたのか。


「いいじゃん別にー! あたしはこのフードの人の声好きなんだけどー?」


あかねがデコダンベルを片手で上下させながら言う。好感度672。運動中なので順調に上昇している。ラインストーンが蛍光灯を反射してきらきらしていた。凶器のくせに。


「わかります。低音でありながら滑舌が良く、緩急の付け方が絶妙で、しかも最後の『プリンは隠せ。以上だ』の溜めが——」


しおりがノートに何かを書き殴りながら早口で語り始める。好感度は現在814。危険水域に入りつつある。


「しおり先輩、鼻血」


「ぶふっ——大丈夫です大丈夫です、これは仕様です」


仕様って何だ。


モニターではフードの男が三度目のプリン演説に入っていた。


『——いいか。もし冷蔵庫のプリンに気づかれそうになったら、場所を変えろ。隠せ。棚の裏だ。いや、棚の裏も危ない。天井裏だ。とにかく——プリンは隠せ。以上だ』


画面が暗転する。


「以上なんだよなぁ……」


十四回目でもここで笑ってしまう。フードの男の声は低くて威厳があるのに、内容がプリンなのだ。このギャップをどう処理すればいいのか、十四回見てもわからない。


「もう一回!」


「喉乾いた。なんか買ってくる」


立ち上がると、雫がこちらを見た。


「……傘」


「ん?」


窓の外を見る。いつの間にか雨が降っていた。六月だ。梅雨の真っ最中だった。灰色の空から落ちる水の幕が、校庭を煙らせている。


「借りてく。体育館の自販機だし、すぐ戻る」


雫の好感度を見る。


999.


虹色のフォントが静かに光っている。いつもと同じだ。いつもと同じことに、最近ようやく慣れてきた。


「すぐ戻ります?」


「すぐ戻る」


「……はい」


雫は俺の目を二秒ほど見つめて、それから視線を戻した。雫の「はい」にはいくつか種類があって、これは「信じます」の「はい」だと、最近わかるようになった。


傘を借りて部室を出る。


廊下に人気はなかった。



体育館横の自販機は、渡り廊下の屋根の延長線上にある。雨でも比較的濡れない場所だ。


比較的、というのは、今日の雨が斜めだったからだ。風がある。傘を差していても肩が濡れる。六月の雨は冷たくない。ただ、まとわりつく。


自販機の明かりが雨の幕の向こうにぼんやりと見えた。


誰かが立っている。


自販機に寄りかかるようにして、雨の中に。傘もなく。


制服がびしょ濡れで体に貼りついている。長い髪が顔に張りついている。それでも顔はわかった。


頭上の数字が見えた。


【-999】。


血の色の数字が雨の中で脈打っている。黒い靄が滲むように広がって、水滴の中に溶けていく。


結愛だ。


足が止まった。


結愛は自販機に右手を触れていた。指先が、自販機のパネルの上に置かれている。


何かがおかしい。


目を凝らす。


結愛の右手が——焦げていた。


指の先から手の甲にかけて、皮膚が赤黒く変色している。火傷だ。いや、火傷とも違う。もっと鋭い痕だった。稲妻に打たれたような、枝分かれした焦げ跡が手首まで走っている。


自販機の電光パネルが明滅した。


結愛が顔を上げた。


「既読無視はひどいよ、伺くん」


笑っていた。


いつもの笑顔だ。教室で見るのと同じ、完璧な笑顔。声のトーンも同じ。雨に濡れて制服が体に張りついていなければ、昼休みの廊下ですれ違ったときと変わらない。


-999が脈打った。


黒い靄が膨れ上がるように広がった。一瞬——数字が上下反転して、666-に見えた。


逃げろ。


頭の中で誰かが叫んだ。理性でも本能でもない。もっと深い場所——骨の髄か、血の記憶か、わからない何かが叫んでいた。


傘を捨てて走った。



雨の中を走る。


本校舎が見える。あの中に入れば——部室に戻れば——みんながいる。こむぎがいて、あかねがいて、しおりがいて、雫がいる。


正面玄関に辿り着く。


引き戸に手をかけた。


動かない。


もう一度。両手で。体重をかけて。


動かない。


施錠されている。放課後の校舎が施錠されているのは——おかしくない、のか? いや、おかしい。魔王部は活動中だ。顧問の許可も出ている。施錠する時間じゃない。


東側の入口に回る。走る。息が切れる——切れるはずがないのに、切れている。


東側。施錠。


北側の非常口。施錠。


全部、閉まっている。


結愛の足音は聞こえなかった。走ってくる気配もない。追いかけてきていない。


追いかける必要がない。


そういうことだ。


結愛はこの学校の全員に好かれている。教師にも。事務員にも。彼女が「鍵を閉めてください」と言えば——いや、言う必要すらないのかもしれない。ただ好感度を操作するだけで、人は結愛の望む通りに動く。


旧校舎。


旧校舎から渡り廊下を通れば、本校舎の三階に出られる。部室のある階だ。


走る。雨が顔を叩く。旧校舎の入口——


開いた。


嫌な予感がした。これだけ開いているのは——


考えるな。走れ。


旧校舎の中に入る。照明は落ちている。非常灯の緑色の光だけが廊下を薄く照らしている。埃の匂い。雨音が壁の向こうから響いている。


渡り廊下。あの扉を開ければ本校舎だ。


走る。


たどり着く。


扉に手をかけた。


動かない。


「……嘘だろ」


声が出た。自分の声が廊下に反響して消えた。


引く。押す。体当たりする。びくともしない。


閉じるべきドアが閉じている。


開けるべきドアが開いている。


全部、最初から設計されていた。


俺は逃げているんじゃない。誘導されている。


振り返る。旧校舎の廊下が暗闇の中に伸びている。来た道を戻るか。外に出て——どこへ? 校門から出るか。いや、校門の鍵も——


上を見た。


階段がある。旧校舎は四階建てだ。四階の奥に、屋上への階段がある。


屋上。


逃げ場のない場所。だが——屋上からなら、部室の窓が見えるかもしれない。声が届くかもしれない。


他に選択肢がなかった。


階段を駆け上がる。二階、三階、四階。踊り場を蹴って、最後の階段を上がる。


屋上への鉄の扉。


普段は施錠されている。生徒は立入禁止だ。


ドアノブに手をかけた。


開いた。


知っていた。開いているだろうと思っていた。結愛がここに誘導しているのだから、ここだけは開いている。


それでも、他に行く場所がなかった。


扉を押し開けて、屋上に出た。


雨が顔を打った。


灰色の空。コンクリートの床に水溜まりが広がっている。フェンスの向こうに校庭が見えた。誰もいない。雨の校庭は静かだった。


振り返ろうとした。


背中に、衝撃が走った。



何かが刺さった。


背中から胸へ。突き抜ける感覚が——


なかった。


手応えがない。刺さったはずの場所に手を当てる。制服は切れている。血が——ない。傷が、ない。


蜃気楼のように、全てが消えていた。


結愛が後ろに立っていた。


右手に包丁を持っている。刃に血がついている——俺の血のはずだ。たしかに刺さった。でも傷がない。


結愛は驚いていなかった。


包丁の血を見て、それから俺の背中を見て——笑った。


「ああ、よかった」


その声は、安堵の色をしていた。


「やっぱり君が魔王だったんだ」


包丁がコンクリートの上に落ちた。からん、と軽い音がして、雨の中を転がった。


「私は勇者。覚えてる?」


何を言っているのかわからなかった。


魔王。勇者。ビデオレターの中でフードの男が言っていた言葉だ。しおりが喜々として解説してくれた設定だ。魔王部の看板に書いてある単語だ。


ごっこ遊びの。


「覚えてないよね。うん、知ってた」


結愛の右手が光った。


指の間から——光が漏れ出していた。白い光だ。雨粒がその光に触れた瞬間、蒸発した。小さな蒸気が立ち上る。雨の中に一筋の熱が生まれていた。


光が形を成していく。


刃だった。


透明に近い、白い刃。包丁とは比べものにならない。もっと長く、もっと薄く、もっと——本物だった。何が本物なのかわからないのに、それが本物であることだけはわかった。


聖剣。


その単語が、なぜか頭の中に浮かんだ。知らないはずの単語だった。


結愛が一歩、近づいた。


押し倒された。


背中がコンクリートに叩きつけられる。水溜まりが跳ねる。結愛が馬乗りになって、聖剣を振り上げた。


雨が降っている。


結愛の顔が真上にあった。髪から雫が落ちてくる。


笑っていなかった。


「全部捨てたの!」


聖剣が突き刺さった。


右肩。


——痛い。


痛い?


生まれて初めて、そう思った。いや、正確には違う。痛みという感覚は知っている。膝をぶつけたことも、指を切ったこともある。でもそれは全部、一瞬で消えた。気づいたときには治っていた。だからそれは痛みではなく、痛みの予感だった。


これは違う。


痛みが、消えない。


聖剣が引き抜かれる。血が噴き出す。雨に混じって、コンクリートの上を流れていく。赤い。俺の血だ。


「仲間も!」


左の脇腹に突き刺さる。


治らない。


「故郷も!」


右の太腿。


治らない。


「自分の気持ちも!」


左肩。


……治らない。


一つ刺されるたびに、傷が増えていく。


当たり前のことだ。刃物で刺されれば傷ができる。傷からは血が出る。血が出れば体が冷える。当たり前のことだ。


当たり前のことを、俺は十七年間知らなかった。


「全部書き換えたの!」


腹部。


「あなたを好きだった自分を!」


胸。


「全部!」


聖剣が深く突き刺さったまま、結愛の手が止まった。


刃が胸の中にある。透明な白い光が、俺の体の中で脈打っている。


何かが見えた。


一瞬だった。


炎だ。あたり一面が燃えている。黒い玉座が炎の中に立っている。フードの男が座っている。フードの下に——顔が見える。


俺の顔だ。


誰かが剣を振り上げている。泣いている。泣きながら、剣を振り下ろそうとしている。


消えた。


何も見えない。見えるのは灰色の空と、雨と、結愛の顔だけだ。


結愛の声が聞こえた。


今度は感嘆符がなかった。


「なんでまた好きになるの」


静かだった。


「どうして好きになるの」


同じことを言っている。言い回しだけが変わる。


「好きになっちゃうの、なんで」


声の温度が同じだ。音量も同じだ。雨音に溶けそうなほど小さい。


「なんでよ」


でも止まらない。


「ねえ、なんで」


聖剣が引き抜かれた。


体が冷たい。雨のせいなのか、血が出すぎたせいなのかわからない。わからない。何もわからない。


「……あ」


声が出た。自分の声だった。


「これ……血だ」


当たり前のことを口にしている。


「俺の……血だ」


コンクリートの上に広がる赤が、雨に薄まっていく。ピンク色の水になって、排水口に向かって流れていく。


「……治らない」


治らない。


治らない。


何で治らないんだ。今まで全部治ったのに。擦り傷も、切り傷も、何もかも、気づいたときにはなくなっていたのに。


結愛が聖剣を振り上げた。


今度は——終わりの一撃だと、体の方が先にわかった。


振り下ろされる。


その腕が——止まった。


結愛の右腕が、肘から先を氷に覆われていた。


白い氷だ。空気中の水分が一瞬で凝固したような、透明な結晶が結愛の腕を包んでいる。聖剣が氷の中で光を放っている。動かない。


結愛が飛び退いた。


氷を砕きながら、三メートル。着地。水溜まりが跳ねる。


屋上のフェンスの上に、誰かが立っていた。


雫だった。


制服のまま。傘はない。しかし——濡れていなかった。


雫の周囲だけ、雨の軌道がおかしい。水滴が斜めに、いや、横に流れている。まるで見えない壁があるように——いや、違う。風だ。雫の周囲で風が渦を巻いている。目に見えない薄い層が彼女を包んでいて、雨粒がその層に触れた瞬間に弾かれている。


雫がフェンスから降りた。


音がなかった。着地の瞬間、足元に風が吹いて衝撃を殺している。


「離れてください」


短かった。


声に温度がなかった。


雫の好感度が見えた。


【999】。


虹色のフォントが、雨の中で光っている。いつもと同じだ。いつもと同じなのに——今はそれが、全く違うものに見えた。


結愛が氷の破片を払い落とした。右腕が赤くなっている。凍傷だ。しかし結愛は気にした様子もなく、雫を見て——笑った。


いつもの笑顔だ。


「久しぶり、雫ちゃん。中学以来だね」


雫は答えなかった。


「ねえ、知ってる?」


結愛が一歩、横に動いた。雫がそれに合わせて一歩動く。俺と結愛の間に、雫が立っている。


「この子、ビデオレター何回再生してたと思う?」


雫の肩が、わずかに動いた。


「愛勝中のころからだよ。放課後の空き教室で、こっそり」


雫が動かない。


「一人で。何度も何度も。巻き戻しては最初から。巻き戻しては最初から」


結愛の声は穏やかだった。友達に噂話をするような口調だった。


「ご先祖様の記録によるとね——」


結愛が人差し指を立てた。


「千年間ずっと見てたんだって」


沈黙。


雨音だけが屋上を満たしていた。


「定期的に再生してたんだって。ずーっと。千年間、ずーっと」


雫の頭から——湯気が出ていた。


文字通りの湯気だ。雫の周囲の風が乱れて、空気中の水分が彼女の体温で蒸発している。顔は無表情のままだった。999は微動だにしない。しかし耳の先が赤かった。


「……違います」


雫の声はいつもと同じ短さだった。


「あれは定期点検です」


定期点検。千年分の定期点検。


「マジックアイテムの保全管理は所有者の義務です。再生による動作確認は——」


「千年間、毎回全編再生するのが動作確認なの?」


雫の口が閉じた。


湯気の量が増えた。


「……魔王様に私の有能さを証明するには」


雫が俺の方を一瞬だけ見た。目が合った。すぐに逸らされた。


「あなたを殺すしかありません」


論理が破綻していた。雫にしては珍しい。いや、雫がこんなに長く喋ること自体が珍しい。いつもは二語か三語で済ませるのに。


結愛が雫を見ていた。


笑顔が——消えていた。


結愛の顔から表情が消えるのを、俺は初めて見た。教室でも、廊下でも、LINEの文面でさえも、結愛は常に笑っていた。完璧に。隙なく。-999を頭上に掲げたまま。


今の結愛には、表情がなかった。


「私もそんな恋してみたいよ」


声が小さかった。


「どうして私にはできないのよ」


結愛の頭上で-999が脈動した。黒い靄が一瞬、膨れ上がって——


「どうして私にはできないのよ!」


感嘆符が戻った。一瞬だけ。叩きつけるような音量で。


それから——


静寂。


一拍の沈黙。


「……また来るね」


声のトーンが、完全に戻っていた。


笑顔が、完璧に復元されていた。


スイッチを切り替えたように。さっきまでの表情の空白が嘘だったかのように。いつもの結愛が、いつもの笑顔で、雨の中に立っていた。


「魔王を倒すには、勇者パーティーを集めなきゃ」


聖剣の光が消えた。結愛の手の中から白い刃が溶けるように消失していく。


結愛がフェンスに手をかけた。


雫が動こうとした。しかし結愛の方が速かった。フェンスを越える。四階の屋上のフェンスを、ためらいもなく。


雨の幕の向こうに——消えた。


落下音は聞こえなかった。着地音も。何の音も。ただ雨だけが降っていた。



屋上に、俺と雫だけが残された。


雨が降っている。


コンクリートの上に俺の血が広がっている。雨に薄められて、ピンク色の水になって、排水口に流れていく。


聖剣の傷だけが残っていた。


右肩。左の脇腹。右の太腿。左肩。腹部。胸。


六箇所。全部開いている。血が止まらない。


包丁の傷は消えた。背中に刺された最初の一撃は、いつもの通り蜃気楼のように復元された。でも聖剣の傷は——治らない。


雫が俺の前にしゃがんだ。


顔を覗き込まれた。


雫の目が近い。黒い瞳に俺の顔が映っている。血まみれの、濡れた、間抜けな顔が。


「……ごっこ遊びじゃ、なかったのか」


声が出た。かすれていた。


雫は一秒の間も置かなかった。


「はい。全部本当です」


短かった。静かだった。いつもの雫だった。


999が、頭上で虹色に光っていた。


雨の中で。血の中で。


変わらない。何も変わらない。ビデオレターを十四回再生した後も、俺が血まみれで転がっていても、この数字だけは変わらない。


「お前の999も……本当なのか」


雫が俺の目を見た。


「はい」


その一言の重さが、今は少しだけわかった。



翌日から、結愛は学校に来なくなった。


俺も、行かなかった。

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