第六話 ステータスが見える
放課後の廊下を歩いていたら、美術部の部長に捕まった。
「あの、伺くん……ちょっといい?」
美術部の部長——名前は確か、藤堂さん。おっとりした雰囲気の三年生で、頭上には【好感度:18】が浮かんでいる。可もなく不可もない数値。普通だ。
「最近、隣の部室がすごくうるさくて……」
「あー……すみません」
「それはいいんだけど」
いいのか。
「伺くんが最弱って、どういうこと? なにが弱いんですか?」
廊下に声が響いた。通りかかった二年の男子二人がこっちを見て、にやにや笑っている。そいつらの好感度は【14】と【11】。赤の他人の数値だ。なのに「最弱」は知っている。
「いや、あれはゲームの話で……」
「ゲーム?」
「部活でゲームをして、負けた人が最弱って呼ばれるっていう……」
「毎回負けてるの?」
「…………」
否定できなかった。
藤堂さんの好感度が【18】から【20】に上がった。同情だ。同情で好感度を稼ぐ男、伺。最弱の名にふさわしい。
「あ、次から静かにします。すみません」
「ううん、気にしないで。……がんばってね、最弱」
がんばってね最弱。新しい激励をいただいた。
---
教室に戻ると、自分の席に荷物を取りに来ていた結愛と目が合った。
隣の席。完璧な横顔。完璧な微笑み。そして頭上に浮かぶ、血の色をした数字。
【-999】
黒い靄がゆらゆらと揺れている。相変わらず、見るたびに背筋が冷える。
「伺くん」
「……ん」
「今日も最弱だったんだ?」
お前もか。
「廊下で聞こえちゃった。ふふ、かわいい」
結愛が笑う。完璧な笑顔。教室に残っていた何人かが、その笑顔につられて顔を緩めている。
ただ一つ、結愛自身の数字だけが、絶対零度の底に沈んでいる。
「がんばってね、最弱くん」
二人目のがんばってね最弱。しかも「くん」付き。
「……うるさいな」
「あはは」
結愛が荷物を持って教室を出ていく。すれ違いざま、完璧な笑顔の残像だけが瞼に焼きついた。
-999。
あの数字の意味を、俺はまだ知らない。
---
放課後。本校舎三階、旧視聴覚準備室。
通称——魔王部。
ドアを開けると、いつもの光景が広がっていた。
奥の窓際でこむぎがクッキーを齧っている。机の上にはオーブンから出したばかりのチョコチップクッキーが山盛りで、部室全体に甘い匂いが漂っている。こむぎの頭上には【好感度:580】が金色に光っていた。平常運転。
「あ、うかがいだー。おかえりにゃ」
「おう……」
にゃ。毎回思うが、語尾が猫だ。
手前の長机では、あかねが椅子の上であぐらをかいてスマホをいじっている。制服のリボンは緩め、スカートの裾からのぞく膝には絆創膏が二枚。さっきまで走っていたのか、額にうっすら汗が光っている。
「おっそ。まーた最弱が遅刻じゃん」
「遅刻じゃない、時間通りだ」
「最弱は五分前行動でしょ。常識」
あかねの頭上には【好感度:370】。今日は低め。運動量が足りないんだろう。そのうち上がる。
長机の端では、しおりがノートPCに向かって何かを打ち込んでいた。眼鏡の奥の目が真剣で、画面の光を反射している。
「あ、伺さん。お疲れ様です」
「しおり、何書いてんの」
「議事録です。昨日の魔王様ゲームの詳細な戦況分析を」
「ババ抜きに戦況分析いる?」
「記録は文明の礎ですので」
しおりの好感度は【好感度:450】。安定している。ただし、この数値は「推しカプ」に火がつくと一瞬で振り切れる。先週、俺が雫にお茶を注いでもらっただけで、しおりの好感度が820まで跳ね上がって鼻血を出していた。危険人物だ。
そして——一番奥。窓際の、日当たりのいい席。
雫がいた。
文庫本を開いて、静かにページをめくっている。黒髪がさらりと肩に落ちて、横顔は絵画のように整っている。
頭上には、虹色に輝く数字。
【999】。
光の粒子がきらきらと舞い、まるでSSR確定演出のような神々しさ。相変わらず、これが毎日変わらないのだから恐ろしい。
俺が入ってきたことに気づいたのか、雫が顔を上げた。
「……おかえりなさい」
短い。無表情。でも、999。
「ただいま」
この返事が正解なのかは未だにわからない。
---
「今日の魔王様ゲーム、決めよっか!」
あかねが立ち上がって宣言した。
「昨日ババ抜き、一昨日UNO、その前しりとり——カードゲームばっかじゃ飽きるし!」
「あかねが飽きてるだけにゃ」
「飽きてるけど? 悪い?」
「悪くないにゃ」
こむぎがクッキーを咀嚼しながら頷く。好感度が【480】から【490】に上がった。食べながら会話すると微増するらしい。
しおりが眼鏡を直した。
「提案があります。こちらをご覧ください」
ノートPCを回転させて、画面をこちらに向ける。モニターにはマリオカートのタイトル画面が映っていた。
「マリカーにゃ!?」
「備品のモニターとDVDプレイヤーを応用すれば、ゲーム機の接続も可能です。あかねさんが昨日持ち込んでくれたSwitchを使います」
「ウチ天才じゃん」
あかねが自分の手柄として胸を張った。持ち込んだだけだ。
「よし、マリカーなら——」
俺は拳を握った。
UNO、ババ抜き、しりとり、ジェンガ、人狼。この一ヶ月、あらゆるゲームで四天王最弱の座を守り続けてきた。不本意に。だがマリカーは違う。中学時代、友達と何百時間もやり込んだ。ショートカットもドリフトのタイミングも身体に染みついている。
「今日こそ、魔王の座をいただく」
「お、最弱がイキってるにゃ」
「最弱って呼ぶな」
「じゃあ魔王になってみろし」
あかねがコントローラーを投げ渡してきた。受け取る。重い。覚悟の重さだ。
雫が文庫本を閉じて、静かにコントローラーを手に取った。
「……参加します」
好感度は999のまま微動だにしない。この人は何をしていても999だ。マリカーをしても999。本を読んでいても999。息をしているだけで999。
五人分のコントローラーが揃った。モニターにコースセレクト画面が映る。
「ルール確認です」しおりが眼鏡を光らせた。「四レース合計ポイントで順位を決定。一位が本日の魔王様。最下位が——」
「言うな」
「——四天王最弱です」
言った。
---
一レース目。レインボーロード。
スタートの瞬間、俺は完璧なロケットスタートを決めた。
加速。ドリフト。最適ライン。身体が覚えている。中学時代の数百時間が指先に宿っている。
「速っ!? うかがい速いにゃ!?」
「マリカーなめんな……!」
一位。独走態勢。後続との差はぐんぐん開いていく。
モニターの中で、俺のカートが虹色のコースを駆け抜ける。後ろを振り返る余裕すらある。二位の雫が淡々と追走しているが、ミスをしなければ追いつかれない。
——いける。
今日こそ魔王だ。最弱返上。校内の噂を塗り替える。「あの伺くん、実は魔王らしいよ」「まじ?かっこいい」「最弱じゃなかったんだ」。そんな未来が見える。見えるぞ。
「伺さん」
しおりが隣から囁いた。
「次のアイテムボックスの確率分布ですが、一位通過時は防御系アイテムの出現率が67%で——」
「集中させてくれ!!」
耳元で戦術情報を流し込んでくるな。
それでもペースは崩さない。一位キープ。二周目に入る。
「ねえ伺」
反対側から、あかねが至近距離で顔を寄せてきた。甘い汗の匂い。近い。
「今ウチを抜かしたらさ」
「……」
「わかってるよね?」
好感度を見る。【380】が【430】に上がっている。上がるな。圧が強い。だがこの程度では——
「えいっ☆」
横から衝撃。
物理的な。
こむぎが体ごと突っ込んできた。肩が思い切りぶつかり、俺の上半身が大きく傾ぐ。コントローラーを握る手がブレる。
「こむっ——!?」
「手が滑ったにゃ☆」
嘘だ。全身で滑ってきただろ。
驚いて、反射的にこむぎの方を見た。
——その瞬間。
見えた。
好感度の表示の、上。
今まで数字しかなかった空間に、文字が浮かんでいた。
---
【こむぎ】
【リカッチオ】
【四天王諜報部】
【戦闘力:3830】
【好感度:███ 【820】】
---
指が、止まった。
画面の中で俺のカートが壁に突っ込んだ。だがそんなことはどうでもいい。
文字が、浮かんでいる。
好感度と同じ位置。同じように、俺にだけ見える光の文字。だが情報量が桁違いだ。名前、種族名、役職、そして——戦闘力。
リカッチオ。四天王諜報部。戦闘力3830。
何だこれは。
目を動かす。あかねの頭上を見る。
---
【あかね】
【アビスオーガ】
【四天王将軍】
【戦闘力:4030】
【好感度:███ 【450】】
---
アビスオーガ。四天王将軍。4030。
しおり。
---
【しおり】
【アークリッチ】
【四天王参謀】
【戦闘力:3370】
【好感度:███ 【460】】
---
アークリッチ。四天王参謀。3370。
そして——雫。
---
【雫】
【コキュートス】
【四天王筆頭】
【戦闘力:4660】
【好感度:███ 【999】】 ← 虹色
---
コキュートス。四天王筆頭。4660。
全員の頭上に、中二病としか思えない情報が浮かんでいる。
モニターからファンファーレが聞こえた。
「ゴールにゃ〜♪」
「ウチ二位!」
「記録しました。一位雫さん、二位あかねさん、三位こむぎさん、四位しおり——」
「……」
雫が無表情のままコントローラーを置いた。最適ルートを一度もミスせず、黙々と走って一位を取っていた。盤外戦術を一切使わない。使う必要がない。999の顔で、ただ最短距離を走る。
「あれ、伺さんは——」
しおりがモニターを見た。
俺のカートは壁に突っ込んだまま、一周目の途中で止まっていた。
「…………」
「最弱にゃ」
「最弱じゃん」
「最弱ですね」
「……最弱」
四方向から最弱を浴びせられた。雫の「最弱」が一番短くて一番重い。
だが今、俺の頭の中を占めているのは順位のことじゃない。
「なんだ……この文言……!」
声に出ていた。
四人が俺を見た。こむぎはクッキーを咥えたまま、あかねは首を傾げて、しおりは眼鏡の奥の目を細めて。
雫だけが、表情を変えなかった。
「……また新たな力にお目覚めになりましたか」
静かな声。無表情。999。
「詳しくは、ビデオレター第二部をご覧ください」
---
「第二部!?」
あるのか。続きが。
しおりが立ち上がり、部室の隅の棚からDVDケースを取り出した。手慣れている。まるで最初からこうなることを知っていたかのように。
「保管しておりました。雫様、再生をお願いします」
「うむ」
モニターの入力が切り替わる。マリカーのコースセレクト画面が消え、一瞬の暗転を挟んで——
映った。
フードの男。
前と同じだ。深いフードを目深に被り、顔の上半分が影に沈んでいる。見えるのは口元だけ。声だけが、やけに鮮明に響く。
「——俺の設計によると、お前は次にステータスを読めるようになっているはずだ」
設計。
「お前が目覚める能力の順番は、俺が設計した」
やはり、こいつが。
「お前は成長によって魔力が自動的に溜まってゆく。一体どういう順番で能力に目覚めるべきか、それが俺の設計思想だ。お前は特に何もしなくていい。時間が来れば、勝手に目が開く」
フードの男は淡々と語った。まるで取扱説明書を読み上げるように。
「お前の存在は魔族にとって善にもなれば、悪にもなりうる」
魔族。聞きなれない言葉だった。
「千年の時を経て——ひょっとすると、勇者と魔族が和解している可能性もある」
勇者と魔族。
「だからこそ、お前には力のない今、平等に物事を見極めてもらいたい」
フードの男が少し間を置いた。
「何者にも……いいように使われないように。これはお前が完全に目覚めるまでの猶予だ」
猶予。
つまりこいつは、俺にこの能力を段階的に与えることで、力のない期間——判断の猶予を作った、と。そう言っている。
「そして——」
フードの男の声色が変わった。
さっきまでの真剣なトーンが消え、一段低く、しかし切実な声。
「——何よりも大事なことがある」
間。
「プリンは——必ず死守しろ」
必ず死守しろ。
「冷蔵庫の奥だ。名前を書け。日付も書け。それでも奴らは食う。だから二重に隠せ。野菜室の裏が最終防衛ラインだ——いいな、これは命令だ」
画面が暗転した。
終わり。
---
沈黙が落ちた。
部室の空気が、一瞬だけ変わった。
しおりの手が、もう巻き戻しボタンに伸びていた。
指が震えていた。泣いてはいない。眼鏡の奥の目は乾いている。でも、手だけが勝手に動いている。
こむぎの咀嚼が止まっていた。口の中にクッキーが残っているはずなのに、噛む動作が完全に停止している。目が、モニターの暗い画面を見つめたまま動かない。
あかねが目元を擦った。
「……汗」
汗だと言い張った。座っているのに汗が目に入るのか。
雫は微動だにしない。999。無表情。ただ、文庫本を持つ手がいつもより少しだけ低い位置にあった。
「……もう一度」
しおりが言った。言葉より先に、もう再生ボタンを押していた。
「……うん」
あかねが頷いた。
こむぎが無言で頷いた。口の中のクッキーを、ゆっくり飲み込んでから。
同じ映像が流れる。同じ声が聞こえる。設計の話。魔力の話。善にも悪にもなりうるという話。
そしてプリン。
四人は、二回目なのに真剣に見ていた。
一言も喋らず、まばたきの回数すら減らして、フードの男の言葉を一語残らず拾おうとしていた。
——ごっこ遊びで、ここまでやるか?
その疑問が、一瞬だけ胸をよぎった。
だがすぐに、プリンの下りで空気が壊れた。
「プリンて」
あかねが吹き出した。
「プリン大事にゃ。わかるにゃ」
「わかるんだ」
こむぎの好感度が【820】から【840】に上がった。食べ物の話になると自動的に上がる生態をしている。
しおりが眼鏡を直した。手の震えは止まっていた。
「……記録完了です。ビデオレター第二部、全文書き起こし済み」
---
部室を出て、昇降口で靴を履き替える。
夕暮れの校庭を横切りながら、頭の中を整理した。
設計。こいつが俺にこの能力を与えているのか。
魔王と呼ばれているが、何者だ。何が目的だ。
こんなわけの分からない超常の力を使って——俺のクラスメイトに中二設定をつけて遊ぶような奴が、本当に存在するっていうのか。
コキュートス。リカッチオ。アビスオーガ。アークリッチ。四天王筆頭、諜報部、将軍、参謀。戦闘力四千。三千。
全部、あのフードの男が「設計」した。俺に見えるように。段階的に。
……プリン。
なるほど。そういうことか。
こいつは遊んでいるんだ。きっと。超常の力を得てしまった、心は子供の中二病患者なんだ。
勇者と魔族と千年の歴史。壮大な設定。作り込まれたキャラクター。段階的な能力覚醒の演出。
全部——手の込んだ、遊び。
そう思えば、すべて辻褄が合う。
帰り道、ふと振り返って校舎を見上げた。三階の旧視聴覚準備室の窓に、まだ明かりがついていた。誰か残っているのか。
あの部室で、四人は今も何かを話しているのかもしれない。
——ごっこ遊びで、ここまでやるか。
さっきの疑問が、また浮かんで、また沈んだ。
---
家に着いて、風呂に入って、ベッドに転がった。
スマホを開く。LINEの通知が一件。
【結愛】。
トーク画面を開いた。
---
> 【結愛】:今日も最弱だったんだって?笑
> 【結愛】:ねえ、あのビデオレター……全部見た?
---
指が止まった。
ビデオレター。
俺はその単語を、魔王部の外で誰かに話したことがない。四天王の誰かが話したのか。学校の噂か。
魔王部が騒ぐと隣の美術部に筒抜けなのはわかっている。
だが、結愛の聞き方は妙だった。「ビデオレターって何?」ではない。「全部見た?」だ。
この子は、あのビデオレターの何を知っているんだ?
結愛の顔が浮かんだ。完璧な笑顔。完璧な成績。完璧な人望。そして——
-999。
LINEごしだから、今の好感度は見えない。
見えないことが、こんなに不安だとは思わなかった。
返信を打とうとして、やめた。何を返せばいいのかわからない。「見たよ」と答えたら、何が始まるのか。「見てない」と嘘をついたら、何を防げるのか。
結局、スマホを伏せた。
天井を見上げる。
暗い部屋の中で、瞼の裏に四つの称号が焼きついていた。
コキュートス。リカッチオ。アビスオーガ。アークリッチ。
四天王筆頭。諜報部。将軍。参謀。
戦闘力——四桁。
遊びだ。遊びのはずだ。
そう自分に言い聞かせて、目を閉じた。
スマホの画面が暗くなる。結愛のメッセージが、既読のまま残っている。
---
> 【結愛】:ねえ、あのビデオレター……全部見た?
---
続きは、来なかった。
---




