第五話 魔王様ゲーム
放課後の旧視聴覚準備室には、もうすっかり生活感が染みついていた。
入口の右手にはこむぎが持ち込んだオーブンが鎮座し、その横の棚には業務用かと疑うほどの菓子パンが積まれている。左手の壁際にはあかねのデコダンベルがリボンを揺らし、窓際のテーブルには雫のティーセットが白磁の光を放っている。奥の壁には、しおりが描いた漆黒の魔王城タペストリー。風が吹くとぺらぺら揺れて実に安っぽいのだが、本人は満足げだった。
そしてその手前に——玉座。
魔王部。
正式名称を「冷初高等学校・魔王研究同好会」。略称・魔王部。部室は本校舎三階、元・文芸部室。部員五名。顧問なし。活動実態不明。
つまり、俺たちの城だ。
扉を開けると、すでに四人が揃っていた。
席の配置は、いつの間にか固まっていた。中央のテーブルの右側に雫。左側にこむぎ。対面の中央にあかね、その隣にしおり。そして俺の椅子は——雫とこむぎの間に、当然のように空けてある。
「……今日も定位置?」
座りながら言うと、こむぎが尻尾でも振りそうな顔でこちらを見た。好感度480。平常運転だ。
雫は本を閉じて、静かにこちらを向いた。999。虹色の光が、今日もぶれない。
あかねは椅子の背もたれに腕を乗せて、にかっと笑った。350。こっちも平常。
しおりはノートから顔を上げず、ペンだけ止めた。420。何か書いている。たぶん触れないほうがいい。
「全員揃いましたね」
しおりがノートを閉じた。眼鏡の奥の目が、すっと細くなる。参謀の顔だ。
「では本日より、魔王部の恒例活動を正式に開始します」
「恒例っていうか、まだ二回目だけど」
「恒例です」
言い切られた。
しおりが立ち上がり、ホワイトボードの前に立つ。いつの間に持ち込んだのか、小さなホワイトボードが壁に掛かっている。
「魔王部の主な活動は二つ。一つは、ビデオレターの視聴」
前回見たあれだ。フードを被った自称・魔王が、妙に芝居がかった口調でこちらに語りかけてくるDVD。内容は——好感度の説明と、「プリンは隠せ」という意味不明な忠告。
正直まだ全然理解が追いついていないのだが、四天王たちは大真面目に受け止めていた。
「ビデオレターは毎回あるわけではありません。届いた時だけです」
「届くって……誰から?」
「届いた時だけです」
二回言われた。つまり聞くなということだ。
「そしてもう一つが——」
しおりがホワイトボードにマーカーで大きく書いた。
『魔王様ゲーム』
丸っこい字で。ハートマーク付きで。参謀の字面ではない。
「ルールは単純です。全員でゲームをして、一位が今日の魔王。魔王はその日一日、この部の方針を決定できます。いわば——王様ゲームの魔王版」
「それ普通に王様ゲームでは?」
「魔王様ゲームです」
三回目だ。しおりは訂正を許さないタイプらしい。
「本日のゲームは——UNO」
こむぎが「おー」と声を上げた。あかねが「よっしゃ」と拳を握った。
しおりがカードを配り始める。手際がいい。完全にシャッフルされたカードが、五人の前に均等に並んでいく。
——ところで。
俺はふと気づいた。
さっきからこむぎとあかねは元気だが、ゲームが始まる前の一瞬、妙な空気があった。しおりがルールを説明した直後——「一位が魔王」と言ったとき、こむぎの好感度が10ほど下がった。あかねも似たような揺れ方をした。
しおりだけは微動だにしなかったが、目が泳いでいた。
雫は——999。何も変わらない。
なんだ? 魔王になるの、嫌なのか?
ゲームが始まっても、その空気は微妙に続いていた。こむぎの手が一瞬遅れる。あかねの目がちらりとしおりを見る。しおりが咳払いをする。
遠慮している。
三人とも、勝ちにいっていない。
雫だけが淡々とカードを出していく。何の感情もなく、最適手を、呼吸するように。
ゲームとして成立していない。これでは雫が勝つだけだ。
「あのさ」
全員の手が止まる。
「魔王が決まったら、残りは四天王ってこと?」
しおりが眼鏡を押し上げた。
「……残りが四天王になるのは偶然ですが、確かにそうなりますね。本来はもう少し大人数で行う想定でしたが」
「そうだったんだ」
俺はカードを揃えながら、何気なく言った。
「じゃあ、ドベは四天王最弱ってことだな」
——空気が、変わった。
「四天王……最弱……?」
こむぎの好感度が60跳ね上がった。いや違う、これは好意じゃない。闘志だ。目の色が変わっている。さっきまで尻尾を振っていた子犬が、牙を剥いた。
あかねの好感度が一気に80上昇した。テーブルに置いた手に、血管が浮いている。
しおりの好感度は動かなかったが——ノートの端を握る指が白くなっていた。
三人の目が、一斉にカードに戻った。
——あれ?
なんか、始まった。
こむぎが鼻をひくつかせた。カードの——手札の匂いを嗅いでいる。嗅いでいるようにしか見えない。そしてにやりと笑って、あかねにドロー2を叩きつけた。
あかねの好感度が20下がった。「こむぎいいいい!」と叫びながら二枚引く。だが次の瞬間、目が据わった。手元を一切見ずに——リバースカードを投げるように出した。
流れがしおりに回る。しおりは一拍の沈黙のあと、スキップを置いた。淀みない。統計的最適手。好感度は微動だにしない。この人、感情でカードを選んでいない。
俺の番。手札を見る。悪くない。ここでこむぎに——
——こむぎの好感度が目に入った。
412。さっきより下がっている。ドロー2を食らった直後のあかねに反撃されて、手札が増えたのだ。眉が下がっている。口がへの字になっている。
……かわいそうだな。
俺は手札から、こむぎに有利になるカードを選んで出した。
——は?
あ。
しまった。
戦略が崩壊した。
次のターンでしおりに刺され、その次にあかねに轢かれ、こむぎにとどめを刺された。
俺が助けたこむぎに。
好感度440。にっこにこしている。ありがとう、という顔だ。お前が殺したんだぞ。
そして、ゲームは終わった。
最後の一枚を、雫が無表情で置いた。
「——あがりです」
「……あがりました」
「あがりー!」
「あがったにゃ!」
一位——雫。
二位——しおり。
三位——あかね。
四位——こむぎ。
五位——俺。
しおりが咳払いをした。
あかねが腕を組んだ。
こむぎが俺を見た。
三人が、順番に口を開く。
しおり「ふっ、伺が死んだか」
あかね「しょせん奴は最弱」
こむぎ「我ら四天王の面汚しよ」
——ノリノリじゃねえか。
いや待て。さっきまでゲームに手を抜いていた三人が、俺が「最弱」という単語を出した瞬間にあの目になったのは覚えている。あれは冗談で済む目じゃなかった。
何がそんなに嫌だったんだろう。
「さて」
しおりが立ち上がった。参謀の顔に戻っている。
「本日の魔王は雫さんです。——魔王、玉座へ」
雫がゆっくりと立ち上がった。
部室の奥に据えられた玉座。その背後には、しおり渾身の魔王城タペストリーが広がっている。
雫がマントを羽織った。
黒い布が、小さな体にふわりと覆いかぶさる。裾が床に引きずっている。サイズが合っていない。
それでも——玉座に座り、足を組み、顎を上げ、マントの裾を片手で払った。
どやぁ。
完璧なポーズだった。
表情だけが、一切変わっていない。虹色の999が、静かに頭上で回転している。
「……なんでポーズだけ完璧なの?」
「…………」
答えない。
しおりがスマートフォンを構えた。
「記念撮影です。学級新聞のホームページ——部活動報告ブログに本日の魔王と魔王指令を掲載します」
「え、公開するの?」
「もちろんです。我々は正々堂々、活動報告を行う健全な部です」
カシャ、とシャッター音。
黒マントに埋もれた小さな魔王が、無表情でピースしている写真が撮れた。——ピースは俺が頼んだ。雫は「了解した」と言って、言われた通りにやった。指だけがVサインで、顔は無だ。
シュールすぎる。
「では、魔王。本日の指令をお願いします」
しおりに促されて、雫が口を開いた。
玉座の上から、小さな魔王が宣言する。
「——皆のもの」
低い声を作ろうとして、失敗して、いつもの静かな声に戻った。
「カラマーゾフの兄弟を読め」
沈黙。
「月末には読書感想文を寄稿せよ」
沈黙が、長くなった。
こむぎが本棚からそれらしい文庫本を取り出して——ぱらぱらとめくり——閉じた。
「……ながい」
あかねが気合を入れて表紙を開いた。三ページで目が閉じかけている。
しおりだけが涼しい顔で「既読です」と言った。なんでだ。
俺は手に取って、厚さを確認して、雫を見た。
「長すぎて読み切れないよ?」
雫は玉座の上から、俺を見下ろした。無表情のまま。999のまま。
「私が魔王になるたびに時間を設ける。毎日ちょっとずつ読むのだ、最弱」
最弱。
あかねが眠気を吹き飛ばして言った。
「魔王様にむかって無礼な口をきくな、最弱」
お前もう寝かけてただろ。
こむぎが俺をつついて言った。
「最弱、最弱ー♪」
もう何も言わない。
俺は文庫本を開いて、最初のページに目を落とした。
……ひょっとして雫は、普通に文芸部がやりたかったんじゃなかろうか。
元の文芸部員が雫の加入をきっかけに全員逃げた、という話は聞いているが。
もしかして、単に読書量についていけなくなっただけでは?
カラマーゾフの兄弟を当たり前のように指定できる高校一年生は、普通にやばい。
雫は玉座の上で、もう自分の本を開いていた。マントに埋もれたまま、膝の上で読んでいる。窓から差し込む午後の光が、白いページと虹色の999を同時に照らしている。
——まあ、いいか。
これが今日の魔王部だ。ガチ文芸部。
部室に、ページをめくる音だけが響いた。こむぎはいつの間にか菓子パンを齧りながら読んでいる(好感度が800を超えている。食事中だ)。あかねは開始五分で本を枕にして寝た(好感度が310まで下がった。退屈らしい)。しおりは既読のくせに赤ペン片手で再読している(好感度は安定の420。こういう作業が好きなのだ)。
静かな時間だった。
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部活動終了。
午後五時半。夕陽が廊下をオレンジに染めている。
昇降口で靴を履き替えて、校門に向かう。四天王たちとは校舎の中で別れた。雫は図書室に寄ると言った。こむぎは購買のパン売り場が気になると言った。あかねは走って帰ると言った。走って帰るって何だ。しおりは何も言わずに消えた。参謀らしい退場だった。
校門をくぐる。
夕陽が眩しい。
「——部活、はじめたんだ」
声は、横から来た。
立ち止まる。
結愛が、校門の柱にもたれて立っていた。
鞄を片手に。制服のリボンを夕風に揺らして。完璧な笑顔を浮かべて。
頭上に、【-999】。
血の色をした数字が、夕陽を吸い込んで、ぬらりと光っている。
「……ゆあ」
「楽しそうだね」
楽しそう——。
それは質問なのか、確認なのか、あるいはもっと別の何かなのか。好感度-999の相手が「楽しそうだね」と言う時、その言葉に何が載っているのか。
俺には、読めない。
数字は見える。でも数字の裏は見えない。
「……まあ、なりゆきで」
結愛は微笑んだ。いつもの——完璧な笑顔。頬の角度、目の細め方、唇の曲線。計算し尽くされた、あるいは磨き上げられた、一点の隙もない笑顔。
-999の人間が浮かべる笑顔としては、あまりにも綺麗すぎる。
「じゃあ、明日もクラスでよろしくね」
結愛が体を柱から離して、背を向けた。
二歩、三歩。
夕陽の中を歩きながら、ふいに振り返った。
「——【最弱】」
笑っていた。
完璧に。
-999のまま。
結愛の背中が夕陽に溶けていく。小さくなるシルエットの上で、血の色の数字がゆらゆらと揺れて——やがて、見えなくなった。
俺は校門の前に立ったまま、動けなかった。
——なんで「最弱」を知ってるんだ?
考えて、やめた。
考えたくなかった、のかもしれない。
夕陽が沈んでいく。オレンジが赤に変わる。空の色が、あの数字と同じ色になる。
俺は鞄を握り直して、歩き出した。
明日も魔王部がある。明日はどんなゲームだろう。
このときまだ俺は、結愛が魔王部のすぐ隣の美術部だったことに、気づかなかったのだ。




