第九話 最後のビデオレター
放課後の旧視聴覚準備室は、いつもと同じ匂いがした。
雫が淹れた紅茶の香り。こむぎが持ち込んだ菓子パンの甘い匂い。あかねの制汗スプレーのフローラルなやつ。しおりのインクの匂い。
全部混ざって、もう何の匂いかわからない。
でも俺はこの匂いを知っている。
魔王部の匂いだ。
「……よ」
扉を開けたら、四人が一斉にこっちを見た。
三日ぶりだった。
あかねが立ち上がりかけて、止まった。こむぎが菓子パンを握りしめたまま固まった。しおりが眼鏡の位置を直した。意味もなく、三回直した。
雫だけが動いた。
カップを取り出して、茶葉を量って、湯を注いだ。
いつも通りだ。
頭上の数字は——見なくていい。見なくても知っている。
【999】。
虹色に光る、いつもの999。
「……座れば?」
あかねが言った。いつものギャル声じゃない。少しだけ低い、素の声。
「おう」
パイプ椅子に座る。黒マントはかけない。今日はそういう日じゃない。
誰も喋らなかった。
こむぎが菓子パンの袋をがさがさ鳴らしている。食べていない。袋を触っているだけだ。それだけで、今日がいつもと違う日だとわかる。
しおりがノートを開いた。閉じた。また開いた。
「——あの」
しおりが口を開いた。
「最後の一枚が、まだあります」
ビデオレターだ。
これを観る事も、魔王部の大事な活動の一つだった。
「見よう」
自分の声が、思ったより静かだった。
しおりがDVDを取り出す。いつもの透明ケース。ラベルには油性ペンで「③」とだけ書いてある。筆跡はしおりのものだ。几帳面な字。
雫がDVDを受け取った。
プレイヤーに入れる。
雫の指が触れた瞬間、ディスクが薄く光った。俺以外には見えていないかもしれない。でも確かに、雫の指先から何かが流れた。
古いモニターが青く点灯する。
ノイズが走る。
——映った。
暗い画面。
いつものフードの男。
だが、今回は少し違った。
背景にろうそくの光が揺れている。一本じゃない。いくつも。壁に影が踊っている。
フードの男は壁にもたれかかっていた。いつもの偉そうな姿勢じゃない。片膝を立てて、だるそうに座っている。
声が出るまで、少し間があった。
『——これが最後だ』
低い声。聞き慣れた声。俺のものに似ていて、俺よりも少しだけ深い声。
『いや、最後にする。これ以上喋ると、未練が増える』
ろうそくの炎が揺れた。
『お前がこれを見ているということは、雫がお前を見つけてくれたということだ。四天王も揃っているなら、なおいい』
雫を見た。
横顔は無表情だった。モニターの青い光を反射して、白い肌がほんの少し青く見える。999は微動だにしない。
『まず言っておく。お前は俺だが、俺じゃない。記憶がないなら、それでいい。いわゆる転生体というやつは、記憶が残る場合と、残らない場合があるらしい』
——やっぱり、そうだったのか。
この男は、前世の俺だ。
『俺はな——選び直してほしかったんだ』
フードの男が天井を見上げた。フードの奥で、目が細くなった気がした。
『前の俺は、成り行きで王になった。もともと王なんて器じゃなかった。誰かがやらなきゃいけなかったから、やっただけだ。それが正しかったのか、今でもわからん。だからお前には、まっさらな状態で決めてほしかった』
『こいつらと一緒にいたいと思うなら、いろ。思わないなら、逃げろ。どっちでも正解だ』
一拍。
『……どっちでも正解だが、まあ、こいつらを見て逃げられるなら大したもんだ』
ふっ、と笑った気配がした。フードの影で見えなかったけど、声が少しだけ柔らかくなった。
『——しおり』
しおりの肩が跳ねた。
『お前がこのビデオレターを管理していると踏んで喋っている』
しおりがノートを握りしめた。ペンが震えている。
『記録係。お前がそう名乗ったんだったな。俺はお前に頼んだことは一度もない。お前が勝手に記録し始めて、勝手に本にした』
長い間。
ろうそくの炎が揺れて、影が壁を滑った。
『……ありがたかった』
しおりの眼鏡が曇った。
『俺たちがいた証拠を、お前が残してくれた。——また記録しろ。今度は、もっと楽しい話を書け』
しおりが眼鏡を外した。
レンズを拭こうとして、拭けなかった。手が震えすぎていた。
「……記録、しなきゃ」
かすれた声だった。丁寧語が剥がれていた。ノートを開いたが、文字が書けていない。ペン先が紙の上を滑るだけだ。
『——あかね』
あかねが唇を噛んだ。
『お前は走るのが好きだったな』
あかねの目がモニターに釘付けになっている。いつものキラキラしたまつ毛が、光を受けて揺れている。
『鎖を壊したのは俺だが、走り出したのはお前だ。あの日、お前が笑ったのを覚えている。ガキみたいな顔で笑って、そのまま地平線まで走っていった』
あかねが鼻をすすった。
『追いかけるのが大変だった』
ぼろ、と涙が落ちた。
あかねは隠さなかった。ぼろぼろ泣きながら、モニターを睨んでいた。
『また走れ。今度は、鎖なしで』
「やっば……マスカラ……」
泣きながら言って、全然拭かない。拭く気もない。鼻をすする音が部室に響いた。
『——こむぎ』
こむぎが膝を抱えた。菓子パンが床に落ちた。拾わない。
『……お前は覚えているか。初めて飯を食わせた日。お前は食い終わった後、ぼろぼろ泣いて、それから俺の足元で丸くなって寝た』
こむぎの肩が小さく震え始めた。
『あの時は困った』
くすり、とも笑えない沈黙が流れた。
『……今度は泣くなよ。いくらでも食え。1000年後の世界がどうなっているか分からんが、飢えることがないようにな』
「泣くなって、言われた……にゃ」
声が湿っていた。膝に顔を埋めて、丸くなっていた。猫が身を守るときの姿勢だった。
『——雫』
部室の空気が変わった。
四天王全員の視線が、一瞬だけ雫に集まって、すぐに逸れた。みんな知っていたのだ。このメッセージが一番重いことを。
フードの男が黙っていた。
長い間だった。
ろうそくの炎が三回揺れるのを、俺は数えた。
画面の中で、フードの男が何か言おうとした。口が動いた。でも声にならなかった。もう一度、口が動いた。
『……待たせたな』
それだけだった。
映像が一瞬揺れた。フードの男の手がカメラの近くに伸びて、止まって、戻った。何か言おうとして、やめた痕跡。
雫は動かなかった。
999は動かなかった。
ただ——
雫の手がカップの取っ手に触れていた。紅茶を淹れるために準備していたカップ。白磁のカップ。
その指先が、ほんの少し、白くなっていた。
力を入れすぎている。
それだけだった。それが、雫の全部だった。
画面の中で、フードの男が姿勢を変えた。
壁にもたれていた体を起こして、カメラに正対した。
『最後に、顔を見せておく』
ゆっくりとフードに手をかけた。
『お前が鏡を見たとき、思い出すかもしれんからな』
フードが下りた。
——俺と同じ顔だった。
まったく同じ、ではない。少しだけ年上。目つきが鋭い。顎の輪郭が角ばっている。頬にうっすら傷がある。
でも——間違いなく、俺の顔だった。
鏡を見ているみたいだった。少しだけ未来の俺を見ているみたいだった。
四天王は誰も驚いていなかった。
当然だ。こいつらは知っていた。最初から、この顔を知っていた。
知らなかったのは、俺だけだ。
フードの男——いや、前世の俺が、カメラを真っ直ぐ見つめていた。
俺と同じ顔が、俺に向かって喋っている。
『王ってのが何なのか、俺は最後までわからなかった』
静かな声だった。
『何をすればいいのかも、これで正しかったのかも、結局わからないまま終わる』
ろうそくの炎が揺れた。顔に影が落ちた。
『ただ——こいつらの面倒を見ると決めたときから、周りが俺を王と呼んだ』
長い間。
『……1000年後の未来がどうなっているのか、分からない。だからこの先は、お前が決めてくれ』
画面が暗転した。
一拍の間。
ノイズが走った。
——まだあるのか。
画面が再び映った。追加録画。照明が変わっている。ろうそくが減っている。少し時間が経った後に録ったものだ。
前世の俺が、カメラに向かって笑っていた。
不器用な笑顔だった。下手くそな笑顔だった。笑い慣れていない人間の、ぎこちない口角の上げ方。
でも——笑おうとしていた。最後に、笑おうとしていた。
『じゃあな、俺』
映像が終わった。
モニターが青い画面に戻った。
部室が静まり返っていた。
しおりの手が震えている。ノートの上のペンが、一文字も書けていない。
あかねが泣いている。声を殺して、でも肩が揺れて、全然隠せていない。
こむぎが丸くなっている。膝に顔を埋めて、小さく震えている。
雫は、紅茶を淹れていた。
立ち上がって、ポットに湯を注いで、茶葉を蒸らして、カップに注いだ。
手順は完璧だった。一ミリのブレもなかった。
俺にカップを差し出した。
「どうぞ」
受け取ろうとして、雫の手に触れた。
冷たかった。いつも通り。コキュートスの末裔だから、雫の手はいつも冷たい。
でも——
カップを渡す手が、0.5秒だけ止まった。
ほんの0.5秒。
誰も気づかなかったと思う。泣いている三人は見ていなかった。
俺だけが見た。
雫の手が止まって、それから、いつも通りの速度で離れていった。
それが雫の全部だった。1000年分の全部が、この0.5秒に入っていた。
——紅茶を飲んだ。
いつもの味だった。
少しだけ、しょっぱかった。
……いや。これは紅茶のせいじゃない。俺の問題だ。
ノイズが走った。
全員がモニターを見た。
画面が——まだ映っている。
さっきの「じゃあな、俺」で終わったんじゃなかったのか。
二回目の追加録画。
前世の俺がカメラに向かって座っていた。さっきよりもさらにろうそくが短い。もっと後に録ったものだ。
表情が違った。
にやっと笑っていた。さっきの不器用な笑顔じゃない。悪戯を仕掛ける直前の、子どものような笑み。
『大事なことを忘れていた。最後に一つ』
声が軽い。さっきまでの遺言のトーンが消えている。
『この転生計画の成功を祈る』
少し間を置いた。わざとらしく咳払いをした。芝居がかった声で——
『名付けて——「プリン・ア・ラ・モード計画」だ』
映像が終わった。
今度こそ、終わった。
沈黙。
泣いていたあかねが、涙の顔のまま固まっていた。
こむぎが顔を上げていた。涙の跡がついた頬が、きょとんとしていた。
しおりが眼鏡をかけ直して、モニターを二度見した。
「……あの、計画名についてなんですが……」
「いや関係ある? 今?」
あかねが泣き顔のまま突っ込んだ。
「……おなかすいた」
こむぎが呟いた。泣き止んでいた。床の菓子パンを拾い上げて、袋を開けた。
俺は——
笑っていた。
泣いた後の顔で、笑っていた。
「…………最後の最後にそれかよ」
声が震えていた。笑っているのか泣いているのか、自分でもわからなかった。でも確かに笑っていた。この部室で、初めて心の底から。
あいつは最後まで、こういう奴だったんだ。
遺言を残して、泣かせて、そのあとで——ふざけた計画名をぶち込んで、全部台無しにする。
いや、台無しじゃない。
これがあいつのやり方だったんだ。多分。
知らないけど。記憶がないから、知らないけど。
でも——わかる。なんとなく、わかる。
こういう奴だったんだ。
「——伺さん」
雫が立ち上がった。
いつもと同じ動作。静かで、無駄がなくて、音がしない。
人工精霊。1000年を生きた存在。そのことを知った今でも、目の前にいるのはただの無口な同級生にしか見えない。
雫の手が、制服の内側に入った。
ブレザーの合わせ目から取り出されたのは——ガラスの小瓶だった。
プリン。
カラメルの層が琥珀色に透けている。完璧な二層。傾けても崩れない密度。そして異常なほど冷たい。雫の指先に結露がついている。
「……何それ」
「プリン」
「見ればわかる。なんで服の中から出てくるんだよ」
「冷蔵庫の奥、と言われたので」
——冷蔵庫の奥。
ビデオレター第二部。あのフードの男が言った台詞だ。
「プリンは本当に隠せ。冷蔵庫の奥だ」。あれはギャグじゃなかったのか。
いや、ギャグだと思っていた。全員が笑った。俺も笑った。
だが今、目の前の女は自分の体内温度でプリンを冷やして持ち歩いていた。
「お前が冷蔵庫なのかよ」
「はい」
「否定しろよ」
雫はどこからともなく銀のスプーンを取り出した。小さい。ティースプーンより一回り小さい。どこに持っていたのかわからない。この女のブレザーの内側は四次元ポケットか何かなのか。
雫がプリンの蓋を開けた。カラメルの甘い匂いがふわりと広がる。スプーンでプリンをすくう。滑らかな断面。完璧な弾力。
雫がスプーンを差し出した。
「はい、あーん」
無表情。
999が虹色に光っている。光の粒子が散っている。いつもと同じ。だが今日は——なんというか——拒否権がない。
スプーンが俺の口元の前で静止している。雫の目が真っ直ぐにこちらを見ている。瞬きをしない。
「いや待て、話が——」
スプーンが1ミリ近づいた。
「…………」
スプーンが動かない。雫も動かない。999も動かない。宇宙が止まったようにスプーンだけがそこにある。
「……………………あーん」
食べた。
冷たい。
カラメルが舌の上で溶ける。少し苦い。その奥から卵の甘さが広がる。なめらかで、濃くて、ただのプリンだ。どこにでもあるプリンの味だ。
うまい。
——視界が、白く飛んだ。
---
暗い部屋。石の壁。高い天井。
自分が座っている。硬い椅子。背もたれが高い。
目の前に四つの影が立っている。
一人は動かない。隣に立っている。表情がない。
一人は何かを頬張っている。尻尾が揺れている。
一人が誰かを殴り飛ばしている。笑っている。
一人が巻物に何かを書いている。羽根ペンの音がする。
場面が変わる。
夕焼け。城の屋上。風が吹いている。
手の中にプリンがある。同じ味。
隣に誰かが座っている。顔が見えない。
自分の声が聞こえる。
「——面倒を見ると、決めたんだ」
笑い声。自分のか、誰かのか、わからない。
温かい。
---
視界が戻った。
雫が目の前にいた。無表情。999。窓からの光。蝉の声。部室。
頬が濡れていた。
涙が一筋、顎まで伝っていた。いつ流れたのかわからない。
雫が白いハンカチを差し出した。無地。アイロンがかかっている。
「……なんで泣いてるんだ、俺」
「おいしかったから」
「…………そうかもな」
プリンの瓶は空になっていた。ガラスの底にカラメルの残りが薄く張りついている。ただのプリン。ただのガラス瓶。
だが今、何かが見えた。
思い出したとは言えない。言葉にできるほど明瞭じゃない。
ただ——知っている。
こいつらのことを、俺は知っている。
---
「す、素晴らしい……記録に値します」
しおりが好感度【999】になって、高速で何かを書き始めた。
「おなかすいたにゃー」
こむぎが、さっそくオーブンでクッキーを焼き始めた。
「ちゅーか、泣いてる?」
あかねが指摘して、俺は顔をぬぐった。
「泣いてない」
「泣いてました」
雫。余計なことだけは言う。
「お前な」
いつもの空気が部室に満ちていく。
こむぎがぽりぽりと食べかすを落としながらクッキーを食べている。
あかねが俺の事を見ないふりしてダンベルを軽く振っている。
しおりが鼻血を吹いて倒れている。
雫がティーセットを並べ始める。白磁のカップが五つ。
日常。
だが俺の目には、全員の好感度が見えている。昨日よりずっと高い。全員。部室全体が虹色に光っている。
俺は立ち上がった。
玉座——パイプ椅子に黒マントをかけただけの、ペラペラの王座。そこには座らなかった。
五人の真ん中に立った。
何かが込み上げていた。
さっきのフラッシュバックの残滓か。昨日のビデオレターの余韻か。それとも最初から——この部室に初めて来た日から、ずっと溜まっていたものか。
わからない。ただ、今言わなければならないことがある。
「——今から、四天王の任命を行う」
空気が変わった。
蝉の声が遠くなった。部室のLEDが一瞬暗くなった。
こむぎの手から菓子パンが落ちた。
あかねの目が見開かれた。
しおりのペンが止まった。
雫だけが動かない。ただ999の輝きが、一段、上がった。
俺は一人目の名前を呼んだ。
「雫」
雫が前に出た。
音もなく。影のように滑らかに。
膝をついた。頭を下げた。
無表情。1000年変わらなかった顔。だが999の文字そのものが、かすかに震えていた。
「こむぎ」
こむぎが前に出た。
足がもつれかけた。目に涙が溜まっている。唇が震えている。それでも膝をついた。頭を下げた。好感度が600を超え、700を超え、まだ上がり続けている。
「あかね」
あかねが前に出た。
まっすぐ歩いた。力強い足取りで。膝をついた。頭を下げた。泣いていた。だが笑っていた。好感度が500を突き抜けて跳ね上がっていく。
「しおり」
しおりが前に出た。
メモ帳を握りしめたまま膝をついた。指が白くなるほど強く握っている。頭を下げた。好感度が999を超えている。
四人が跪いている。俺の前に。
旧視聴覚準備室。窓から差し込む七月の光。黒マントを羽織った五人。隣の美術部から、誰かが絵の具を洗う水音が聞こえている。
この場所は玉座の間じゃない。城でもない。ただの高校の空き教室だ。
だがここにいる四人は本物だ。
1000年前から、ずっと本物だった。
「お前らの中に最弱はいない」
声が出た。自分の声だ。だが同時に、さっきフラッシュバックで聞いた声と重なっていた。
「いるとすれば——それはまだ力が完全に蘇っていない、俺だ」
四人が顔を上げた。
雫の目が、こちらを真っ直ぐに見ていた。
こむぎの涙が頬を伝っていた。
あかねの目が赤く、だが笑っていた。
しおりの眼鏡が曇っていた。
「伺の魔王就任。四天王の任命」
息を吸った。
七月の空気。夏の匂い。蝉の声。ここは教室で、俺はただの高校生で、こいつらは俺の部活仲間で——
——そして、それだけじゃない。
「これをもって——魔王軍、結成の序とする」
---
空気が変わった。
自分の周囲で何かが膨らんだ。
音ではない。光でもない。圧力ですらない。ただ——そこに「王がいる」という事実が、空間を満たしていく。何かが溢れている。体の奥から。胸の底から。コントロールできない。する気もない。
好感度が動いた。全員。同時に。
こむぎ——800、900、999。数字が虹色に切り替わった瞬間、こむぎの膝が床に沈んだ。本能が先に従属を選んでいた。SSR確定演出の光がこむぎの頭上で弾けている。
あかね——一気に999。泣いている。笑っている。拳を握りしめたまま、頭を垂れている。光の粒子が舞っている。
しおり——999を超えた。数字が一瞬だけ崩れた。鼻から赤い一筋が伝った。「……尊い……」。目の焦点が消えた。メモ帳を握ったまま、前のめりに崩れ落ちた。
雫——999。
数字は変わらない。色も変わらない。虹色。いつもと同じ。
だが光量が違う。
999の文字が、震えていた。数値の上下じゃない。文字そのものが振動している。雫の感情がそこに刻まれている。感情を自己定義した人工精霊の、変わらないと決めた999が、それでも震えている。
部室が虹色に染まっていた。
五人分の999。四方向から放射される光が、安っぽい蛍光灯の白を塗り潰している。壁に貼られたしおりの漆黒のタペストリーが虹色に透けている。こむぎのオーブンが光っている。あかねのデコダンベルのラインストーンが七色に乱反射している。
こんな景色は見たことがない。
好感度が見えるようになってから、ずっと数字ばかり追いかけていた。プラスの数字。マイナスの数字。上がった。下がった。一喜一憂して、怯えて、喜んで。
だが今——ただ、きれいだと思った。
四人の声が重なった。
「魔王様——仰せのままに」
こむぎの声は震えていた。あかねの声は濡れていた。しおりの声は床の上から聞こえた。
雫の声だけが、一拍遅れた。
他の三人より、ほんの少しだけ遅い。
それは命令に従ったのではないから。
1000年待って、ようやく自分の意志で言えた言葉だから。
雫が顔を上げた。
無表情。目は真っ直ぐにこちらを見ている。999が震えたまま、虹色の光を放っている。
「——おかえりなさいませ、魔王様」
---
覇気が消えた。
嘘みたいに、すうっと引いていった。
部室に日常の蛍光灯の光が戻る。蝉の声が戻る。隣の美術部から「ちょっと水出しっぱなしだよー」という声が聞こえる。
しおりが床に倒れたまま呟いている。
「……今のシーン……8万字は……書ける……」
白目を剥いている。鼻血が床に小さな水たまりを作っている。
こむぎが跪いたまま顔を上げた。
「……おなかすいた」
あかねが乱暴に目元を拭った。
「泣いてねーし! これ汗だし! 汗!」
目が真っ赤だった。
俺は自分の手を見た。何も変わっていない。ただの手だ。さっきの何かはもう残っていない。
「……なんか出たな、今」
「覇気です」
雫が立ち上がっていた。いつの間にか元の位置に戻っている。音がしない。
「覇気って何だよ」
「王の力です」
「ゲームかよ」
「いいえ。本物です」
999。変わらない。変わる理由がない。
笑った。
笑えた。
こいつらの前でなら、笑える。
---
数日後。七月下旬。終業式。
---
結愛が消えたのは、六月のあの日からだった。
俺を刺した翌日から、結愛は学校に来なくなった。席は空いたまま。担任は「体調不良で自宅療養中」と説明した。クラスメイトは心配した。LINEを送り、手紙を書き、千羽鶴まで折ろうとした子がいた。みんな結愛が好きだった。好感度を操作された好意で、誰もが純粋に結愛を案じていた。
だが俺は知っている。
体調不良ではない。
あの完璧な笑顔の少女は、放課後の教室で伺の腹に聖剣を突き刺してから一ヶ月以上、姿を消していた。
連絡はない。痕跡もない。席だけが空いている。まるで最初からいなかったかのように、結愛という存在が日常から抜け落ちていた。
誰も不思議に思わない。好感度操作が残響のように機能しているのか、あるいはそもそも、消えること自体が計画の一部なのか。伺にはわからない。
わかるのは一つだけだ。
-999は消えていない。
視界の端に、ずっと残っていた。学校のどこにもいないはずなのに、あの血の色の数字だけが、記憶の中で脈動し続けていた。
——それが今日、終業式の日に、戻ってきた。
---
終業式が終わった。
教室で配られたプリントの束を鞄に突っ込んで、校門に向かう。四天王が一緒にいる。いつものように。
雫が隣を歩いている。こむぎが何か菓子を齧りながらついてくる。あかねが伸びをしている。しおりがメモ帳に何か書きながら歩いている。危ない。
蝉の声。入道雲。七月の光が校舎の壁に跳ね返って白く光っている。
夏休みが始まる。
校門が見えた。
——校門の前に、一人、立っていた。
足が止まった。
結愛。
制服。胸元のリボン。完璧に整った髪。スカートの丈。靴下の折り方。爪の先まで隙がない。一ヶ月前と何も変わっていない。日焼けもしていない。やつれてもいない。まるで昨日まで毎日隣の席に座っていたかのような、完璧な佇まい。
好感度——【-999】。
血の色。黒い靄が、陽炎のように揺れている。
周囲を歩く生徒たちが、結愛を見つけて駆け寄っていく。
「結愛ちゃん久しぶり! 元気になったんだ!」
「よかったー! 夏休み遊ぼうよ!」
操作された好意。本物の心配。操作されたものと本物の区別がつかない善意が結愛に集まっていく。
結愛はそのすべてに、完璧な笑顔で応えていた。
「ありがとう。もう大丈夫だよ」
声が明るい。表情が柔らかい。仕草の一つ一つが自然で、温かくて、誰が見ても「いい子が帰ってきた」としか思わない。
伺だけが見えている。
【-999】。
あの日。放課後の教室。完璧な笑顔のまま突き出された刃。腹を貫く異物感。治らない傷。初めて知った痛み。
「——なんでまた好きになるの」
あの声を、まだ覚えている。
四天王が止まった。
空気が変わった。日常の空気が、一瞬で剥がれた。
こむぎの菓子が止まった。噛む音が消えた。目が細くなっている。見えないはずの尻尾が逆立つような殺気。
あかねの拳が握られた。音がした。骨が軋むような音。
しおりのペンが止まった。メモ帳を閉じた。眼鏡の奥の目が、温度を失っている。
雫は動かない。ただ999が、冷たく光っていた。温かい虹色ではない。冷たい虹色。同じ色なのに、温度だけが違う。
結愛が、こちらを見た。
生徒たちの輪の向こうから、真っ直ぐに。
完璧な笑顔。
「——夏休み、楽しみだね♪」
声は明るかった。周囲の誰が聞いても、ただの挨拶にしか聞こえない。夏休みを前にした女子高生の、何気ない一言。
だがその笑顔の奥で、-999の靄が蠢いていた。
わざわざ今日を選んだのだ。
終業式。夏休みの始まり。学校という舞台装置が消える日。制服を脱ぐ日。教室と廊下と部室で守られていた日常が終わり、何の枠組みもない夏が来る日。
この少女は——一ヶ月身を潜めて、この日を待って、ここに立っている。
宣戦布告だ。
俺は一歩、前に出た。
四天王の前に立った。
結愛を見た。-999を見た。
「——来いよ、勇者」
結愛の笑顔が、一瞬だけ歪んだ。
笑顔のまま。目だけが、笑っていない。
結愛は何も言わなかった。
四天王が俺の隣に並んだ。
誰も口を開かない。
雫が左に立っている。冷たい虹色の999。
こむぎが右に立っている。目が鋭い。さっきまでの甘えた空気が消えている。
あかねが背後に立っている。拳を握ったまま。
しおりが全員の後ろに立っている。ペンを握りしめている。
六つの影が、校門に伸びている。
夏が始まる。




