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第二話 好感度-999の完璧な笑顔

 能力が発現して一週間が経った。


 慣れた、とは言わない。朝起きて人の顔を見るたびに浮かぶ数字を見て、ああ今日もか、と思う。父さんの【60】、母さんの【70】、ゴミを見る目の妹の【190】。この一週間で多少の上下はあったけど、大枠は変わらない。我が家の好感度事情は安定している。


 通学路も同じだ。すれ違う他人の【0】や【1】。コンビニの店員の【3】。毎朝同じ交差点で信号待ちするおじさんの【4】。おじさんの4は先週より1上がった。顔を覚えられたらしい。おじさん、俺も覚えたよ。


 そして隣の席の【999】。


 氷上雫。


 あの日以来、毎日その虹色の確定演出を見ている。授業中にちらっと見て、999。昼休みに何気なく目をやって、999。視界に入れなくても、そこだけ確定演出の光が異様に光っているのがわかる。


 微動だにしない。


 あの消しゴムのキャップ事件——事件というほどのものでもないが——以降、会話らしい会話はしていない。雫は相変わらず誰とも喋らず、本を読み、一人で弁当を食べている。俺がたまに「おはよう」と言うと、小さく頷くか、聞こえるか聞こえないかの声で「おはよう」と返してくれる。


 それだけ。


 それだけで、999。


 理由はわからない。わからないけど、毎朝あの虹色を見ると少し安心する自分がいる。意味不明の能力に振り回される日常の中で、雫の999だけがなぜか——灯台みたいに思えた。


 あと、一週間でわかったことがある。


 あの日の下駄箱前で見た-999は、まだ見つかっていない。


 毎日気にしている。登下校のたびに、人混みの中に血の色がないか探している。でも見つからない。あの日の一瞬で消えてしまった-999は、まるで幻だったかのように——


 ——いや。


 幻じゃない。


 そのことを、俺はこの日の朝に知ることになる。


---


 4月の最終週、月曜日。


 朝のホームルーム。担任の中里先生がいつもより少しだけ上機嫌で教壇に立った。普段は無表情な中年男性だが、今日は口元がほのかに緩んでいる。好感度は——俺に対して【32】。先週と変わっていない。この上機嫌は俺のおかげではない。


「今日は転校生を紹介する」


 教室がざわついた。4月も終わりに近いこの時期に転校生というのは珍しい。


「入ってきなさい」


 教室の前のドアが開いた。


 ——まず、空気が変わった。


 比喩じゃない。本当に、教室の中の何かが変わった。ざわめきが一瞬止まって、次の瞬間に別種のざわめきに変わった。椅子がかすかに軋む音。息を呑む音。誰かの小さな「わ」という声。


 入ってきたのは、女子生徒だった。


 栗色のセミロング。制服は着崩さず、でも窮屈にも見えない絶妙な着こなし。背筋が伸びている。歩幅が安定している。教壇の横に立つまでの数歩で、この子が「こういう場に慣れている」ことが伝わってきた。


 そして——笑顔。


 完璧な笑顔だった。


 目が柔らかく細まって、口角が自然に上がって、頬にうっすら赤みが差している。緊張しているように見えて、でも堂々としていて、親しみやすくて、でも品がある。相反する印象が全部、一つの笑顔に同居している。


 顔がいい。


 客観的に、圧倒的に、顔がいい。


 雫が「静」の美しさなら、この子は「動」の美しさだった。雫の美しさが月光だとしたら、この子は陽光だ。見ているだけで温かくなるような、誰もが自然と目を向けてしまうような。


 ——その瞬間、教室中の生徒が動き始めた。


 俺以外の相手に対する好感度は見えないが、もし見えるのならば、好感度がはっきりと動いている。


 顔だけでわかった。

 前の席の田中は眼鏡がずれたまま見とれている。斜め前の佐藤は口を半開きにして声をあげそうになっている。後ろの席の鈴木は椅子から身を乗り出している。


「七瀬結愛です」


 声が響いた。高すぎず低すぎず、教室全体に自然に届く声量。プロか。


「趣味は絵を描くことと、お料理です。前の学校は私立愛勝あいうぉん中学校です——」


 ——私立愛勝中学校。


 聞いたことがある。愛勝あいうぉん町の中学校。

 どんなに頑張っても校歌が「あいうぉんちゅう~♪」と最後にはラブソングになってしまうという、冷初ひやうい高校と並ぶ伝説の校歌オチ中学校。


 そんな中学校の名前が突然美少女の口から出てきたのだから、みんなドキッとしてしまった。俺? 俺は頭上の数字に気を取られていたから、それどころではなかった。


「よろしくお願いします♪」


 最後に、もう一段階、笑顔の光量を上げた。♪が聞こえた。語尾に音符が聞こえた。


 教室の好感度が爆発した。


 田中が、鈴木が、佐藤が、みんなスタンディングオベーションをしていた。


「よろしくー!」「七瀬ちゃーん!」「先生、質問がたくさんあるのでフリータイムを設けてください!」「いいでしょう、ただし、5分以内でお願いします」「最高!」「できる教師!」「さすが冷初高校ヒャゥイゴーゴー数学教師!」


 自己紹介一つで。一分にも満たない時間で。全員が。


 これは——


 この子は——


 俺は、転校生の頭上に視線を向けた。


 今まで意図的に見ないようにしていた。でも、もう見なければならない。


 転校生の頭上。


 そこに浮かんでいた数字は——


【-999】


 血の色だった。


 黒に近い赤。乾いた血を幾層にも塗り重ねたような暗い色。その周囲を黒い靄が這っていた。数字が靄の中で脈動して、一瞬、上下が反転して666-に見えた。


 同じだ。

 あの日見たのと同じ。


 一週間前。下駄箱前の廊下で、人混みの奥に一瞬だけ見えた血の色。あれは幻じゃなかった。

 こんな近くにいた。というか——


 これから隣の席に座ろうとしている。


「では、七瀬さんの席は——伺の隣、そこが空いてるから」


 中里先生が俺の右隣を指した。


 窓際が雫。その隣が俺。そして俺の反対側が——今日から、この子。


 七瀬結愛は「はい」と返事をして、教壇から降りた。俺のほうに歩いてくる。近づいてくる。笑顔のまま。完璧な笑顔のまま。


 -999が、近づいてくる。


 黒い靄が、彼女の一歩ごとに揺れている。


 席に着いた。俺の右側。椅子を引いて、座って、カバンを机の横にかけて。一連の動作が全部スムーズで、全部丁寧で、全部「好かれる」ように最適化されている。


 ——そして、振り向いた。


「隣の席だね。よろしくね♪」


 至近距離の笑顔。目が合った。栗色の瞳は柔らかくて、温かくて、本当に心の底から「よろしく」と思っているようにしか見えなかった。


 その頭上に、-999。


「……よろしく」


 声が少し掠れた。

 こんなん乾いた声しか出せないっつうの。


 結愛はにこっと笑って、前を向いた。


 俺は——反対側の左を見た。


 雫が、窓の外を見ていた。いつもと同じ横顔。表情はない。


【999】


 温かい虹色の光は、何も変わっていなかった。


 右に-999。左に999。


 真ん中に、俺。


---


 一限目が始まるまでの数分間。結愛は手際よくクラスに溶け込んでいった。


 前の席の女子に話しかけられれば朗らかに応じ、後ろの席の男子に教科書を見せてもらえば丁寧にお礼を言い、斜め前の席から「どこ住み?」と聞かれれば「駅の南口のほうだよー♪」と笑顔で答える。


 その都度、相手の好感度がぐんぐん上がっていく。


 この子と喋ると、好きになる。


 そういう引力を持っている。天然なのか計算なのかは——わからない。わからないけど、-999の数字が俺にだけ見えている以上、ただの純粋な天然だとは思えなかった。


「ねえ、うかがい君」


 不意に、名前を呼ばれた。


 結愛がこちらを向いている。頬杖をついて、少し首を傾けて。親しげな距離感。隣の席の特権、みたいな自然さ。


「名前、もう覚えちゃった。出席番号表に書いてあったから」


「あ、うん」


「伺って珍しい名前だよね。読み方、最初は『つかさ』だと思ってたけど、よく見たら人偏にんべんがついてるから、『うかがい』で合ってる?」


「合ってる。母さんが推しの名前をとって『つかさ』にしたかったらしいんだけど、姓名判断で画数があんまり良くなかったらしくて、人偏にんべんをつけてみたって」


「あはは。素敵な名前。なんか、こう——人のことちゃんと見てそうな名前」


 何を言ってるんだこの子は。-999で。

 マイナスにカンストしている好感度で。


「この学校って購買ある? 前の学校にはなかったんだよね」


「あるよ。一階の——」


「じゃあお昼一緒に行こうよ!」


「え」


「ダメ?」


 首を傾けたまま、上目遣い。これは反則だと思う。好感度-999じゃなかったら心臓が止まっている。

 好感度-999だから別の意味で心臓が止まりそうになっているけど。


 これは呼び出しを受けて殺されるフラグかもしれない。

 けど、断れなかった。俺は伺、この17年間、人の顔色を伺って生きてきた。


「いや、ダメじゃないけど」


「やった」


 結愛は嬉しそうに笑って——嬉しそうに、だ。-999の邪悪なオーラをぶわっと膨らませながら。——前の席の女子にも「一緒に行こう」と声をかけた。後ろの男子にも。自然に、「行こう、みんなで行こう」に変換していく。


 個人的に誘ったのか、最初から全員を誘うつもりだったのか。

 判別がつかない。


 ——ちらりと、左を見た。


 雫は教科書を開いて、黒板のほうを見ていた。


 表情は、ない。


 999は、動いていない。


 でも——普段と何が違うのか自分でも説明できないけど——雫が教科書のページを繰る指先が、いつもよりほんの少しだけ硬い気がした。


---


 昼休み。


 結愛を中心に、五人くらいで購買に行くことになった。俺もなんとなくその流れに入れられていた。というか逆らう隙がなかった。結愛の会話の組み立ては完璧で、断る口実を差し込むタイミングが存在しない。


 購買でパンを買って、教室に戻る。結愛は俺の隣の自分の席に座り、パンの袋を開けた。


「ねえうかがい君、放課後って何してるの? 部活?」


「いや、帰宅部」


「えー、もったいない。何か入りなよ」


「特にやりたいこともないし……」


「じゃあ一緒に見学行こうよ。私もどこ入ろうか迷ってて」


 距離が近い。物理的に、ではなく——会話の距離が。転校初日の、隣の席の男子に対する距離としては、少し、近すぎる。


 他のクラスメイトへの態度と比べると、明らかに「もう一段踏み込んでいる」。名前の呼び方、話題の選び方、会話を途切れさせないタイミング。全部が、俺を対象に設計されている。


 ……なんで?


 -999だぞ。


 -999の人間が、わざわざ最悪に嫌っている相手との距離を詰めてくる。


 目的は一体何だ?


 考えている最中に、結愛が不意に視線を動かした。俺ではなく、俺の向こう側——左の席を。


 雫が、弁当を食べていた。


 いつもの風景。一人で、黙って、小さな弁当箱から少しずつ食べる。今日はおかかのふりかけ。箸の動きが丁寧で、口元をほとんど動かさずに咀嚼する。


 結愛がそれを見ていた。


 一瞬だけ——本当に一瞬だけ——結愛の笑顔の輪郭が、変わった。


 変わった、と思った。目元の柔らかさはそのままだったけど、口角の角度が0.5度くらい——数字にできるわけがないけど——鋭くなった。笑顔の形を保ったまま、笑顔じゃないものが一瞬だけ透けた。


 気のせい、かもしれない。


「氷上さん、だよね」


 結愛が声をかけた。


 雫を。


 雫の箸が止まった。


 顔を上げる。黒い瞳が結愛を見る。表情はない。


 結愛は笑っている。いつもの完璧な笑顔。


「私、前の学校——愛勝中なんだけど、もしかして氷上さんも愛勝中だった?」


 雫が、ほんの一瞬、目を細くした。


 目を細くした——と言っても、他の誰かが見ても気づかない程度の変化だ。瞬きより短い。でも一週間毎日隣の席で999を見続けてきた俺には、それが「表情の変化」だとわかった。


 一週間で初めて見る、雫の表情の変化。


「……はい」


 短い返事。声は平坦。感情は読めない。

 あの雫も愛勝中あいうぉんちゅーの校歌を……しかも結愛とデュオで……いや、雫は校歌を歌わない子だ。

 ちゃんと歌っているのかは知らないけど、口パクで声が聞こえない。


「やっぱり! 私、見たことあるなって思ったんだ。同じ学年だったよね?」


 結愛は嬉しそうに——嬉しそうに?——身を乗り出した。椅子ごと、少し俺に寄ってくる。俺の領域を経由して、雫との距離を詰めようとしている。


 物理的に、俺を「通り道」にしている。


「氷上さんって前から気になってたんだよね。いつも一人でいるでしょ? ……ねえ、お昼、よかったら一緒に——」


「いい」


 雫が遮った。


 短く、硬く。一文字の拒絶。


 教室の空気が一瞬だけ冷えた。近くで聞いていたクラスメイトが微妙な顔をする。転校初日に善意で話しかけた女子に対して、あまりにも素っ気ない。


 結愛は——笑顔を崩さなかった。


「そっか、ごめんね。無理強いしちゃったかな」


 完璧な引き方だった。押し付けがましくなく、でも「また誘ってもいいよね」のニュアンスを残す。

 結愛の好感度は下がるどころか、この対応を見た周囲の生徒から「いい子だな」の評価が上乗せされていた。


 雫は何も言わずに弁当に戻った。


 999。動かない。


---


 その日の放課後。


 結愛は宣言通り部活見学に行こうとした。そして当然のように俺の腕を引いた。


「ね、行こうよ。美術部とか気になるんだよね」


「俺は別に……」


「一人で見学するの寂しいもん」


 -999の手が、俺の袖を掴んでいる。


 指先は華奢で、力加減は絶妙で、不快じゃない程度に——でも振り解くには明確な拒絶が必要な程度に——しっかりしている。


 嫌だ、と言えなかった。


 嫌だと言うほどの理由がなかった。好感度が-999だから? それは俺にしか見えない数字だ。現実の結愛は感じのいい転校生で、隣の席の俺に親しくしてくれている。数字を根拠に拒絶するのは——フェアじゃない気がした。


 だから、流された。


 美術部の見学に行き、文芸部の前を通り、体育館で運動部を眺め、結愛の横でうんうんと頷いているうちに一時間が経っていた。結愛は行く先々で先輩に好かれ、同行した俺は「彼氏?」と聞かれるたびに「違います」と否定する係だった。


 結愛はその「彼氏?」を否定しなかった。笑って「どうかなあ」と流した。-999で。


 帰り道。校門を出たところで、結愛は「じゃあまた明日ね」と手を振って帰っていった。


 笑顔。最後まで笑顔。-999。


---


 翌日。


 結愛は教室に入ってくるなり「おはよう、うかがい君!」と俺のほうに来た。手にはコンビニの袋。


「はい、これ。昨日の見学付き合ってくれたお礼」


 袋の中身は缶コーヒーだった。俺が昨日の見学中に自販機で買ったのと同じ銘柄。覚えていたのか。


「ありがとう……」


 受け取る。


 結愛はにこっと笑って自分の席に着いた。椅子に座りながら、自然な動作で俺と雫の間に自分の存在を割り込ませてくる。


 具体的には——俺に話しかけ続けることで、俺の意識を左側(雫)から引き剥がしている。


「ねえねえ、昨日の美術部の先輩さ、すごく面白い人だったよね」


「ああ、うん」


「うかがい君はどの部活が気になった?」


「いや、特に——」


「えー、じゃあやっぱり帰宅部? もったいないよ。放課後一緒にいる人がいないじゃん」


 一緒にいる人。その言葉を発したとき、結愛の視線が一瞬だけ左に流れた。俺を通り越して、雫の方向に。


 雫は本を読んでいた。いつも通りだ。

 文芸部に入っているという噂だったけれど、昨日の見学ルートには入っていなかった。

 ひょっとして、意図的に避けたのか?


 結愛の視線はすぐに戻って、俺に集中した。笑顔。変わらない笑顔。


「放課後、私と一緒に帰らない?」


「え」


「昨日楽しかったし。通学路、途中まで同じ方向でしょ?」


 ……同じ方向、だったか? 結愛の家の方角を俺は知らないけど、昨日「駅の南口のほう」と言っていた。冷初ひやうい駅に向かうのなら、俺とは正反対だ。


 でも、結愛はそんなことを気にしていない顔をしている。


「……まあ、いいけど」


 また、流された。


---


 結愛の「距離の詰め方」は、三日目で加速した。


 弁当の時間。結愛が小さなタッパーを取り出した。蓋を開けると、中にはリンゴが丸ごと一個。


「お弁当のデザートなの。自分で剥くのが好きなんだ」


 ポーチから果物ナイフを取り出した。


 刃渡り10センチほどの、ごく普通の果物ナイフ。だが刃の手入れが行き届いていて、蛍光灯の光をきれいに反射した。


 結愛はリンゴを手に取り、皮を剥き始めた。


 皮が途切れない。一本の螺旋になって、くるくると、落ちていく。手つきが異常に上手い。刃先のコントロールが精密で、皮の厚みが均一で、まるで機械が剥いているみたいだった。


 ……いや、それより。


 -999の相手が刃物を持っている。


 目の前で。


 俺の隣で。


 日常の風景として。


「はい、うかがい君も食べる?」


 ウサギの形に切ったリンゴが差し出された。耳の部分が左右対称で、切り口が滑らかで、かわいい。かわいいけど-999。かわいいけどあの果物ナイフの切れ味が脳裏にこびりついている。


 「……ありがとう」


 食べた。甘かった。毒ではなかった。当たり前だ。


 結愛は満足そうに笑って、他のクラスメイトにもリンゴを配り始めた。「え〜結愛ちゃんすごい! 私にも!」「器用だね〜」。歓声と好感度が同時に上昇していく。


 その輪の外で、俺は果物ナイフの刃先を見ていた。


 ——ちらっと左を見る。


 雫は弁当を食べている。いつもと同じ。箸が止まった気配はない。


 でも——いつもは窓の外を向いている雫の目線が、今日は手元の弁当に固定されている。窓の外じゃなく、弁当。それも箸の先。食べているものを、やけにじっと見ている。


 視線が固定されている、ということは——他のどこも見たくないのかもしれない。


 気のせいだろうか。


 999は動いていない。


---


 四日目。


 昼休みに結愛がカバンから小さな木片を取り出した。手のひらサイズの木彫りの何か。まだ途中らしく、輪郭しかない。


「なにそれ」


「最近ね、彫刻にハマってて」


 布製の巻きケースを広げた。中に彫刻刀が五本。丸刀、平刀、三角刀、切り出し刀、印刀。全部きちんと手入れされている。刃先が銀色に光っている。


「木のね、繊維に沿って刃を入れると、すごく気持ちいい感触がするの。知ってる?」


 知らない。知らないけど、-999の人間が「刃を入れると気持ちいい」と言っている事実が俺の精神にダメージを与えている。


「……趣味、多いな」


「うん! なんでも触ってみたいタイプなの」


 結愛はそう言いながら、また——自然に俺との距離を詰めてきた。木片を見せるために体を寄せてくる。肩が触れそうな距離。


「ね、うかがい君もやってみない? コツ教えてあげる」


「いや俺は——」


「手、貸して」


 結愛が俺の右手を取った。


 彫刻刀を俺の手に握らせて、その上から自分の手を重ねる。指の位置を直す。刃の角度を調整する。


 手が重なっている。-999の手が。


「こうやって、こう。力を入れすぎないで、木に聞くみたいにね」


 木に聞くみたいに。詩的なことを言う-999。


 心臓が変なリズムで動いていた。恐怖なのか動揺なのか、自分でもわからない。わからないまま、結愛の手の温かさだけが伝わってくる。


 ……この子はなんなんだ。


 何がしたいんだ。


 果物ナイフ。彫刻刀。日替わりで刃物のバリエーションが増えていく-999の完璧な笑顔の転校生。趣味で刃物を使う人はいる。料理人だって彫刻家だって。-999じゃなかったら何も気にならないはずだ。


 -999じゃなかったら。


 結愛が俺の手から手を離して、「上手じゃん」と笑った。


 もし、結愛の目に俺の好感度が見えていたら、一体どんな数字なんだろうと思った。

 激しく乱高下を繰り返して、平均してゼロのままなんじゃないだろうか。


 ——そのとき。


 空気が変わった。


 左側から。雫の方向から。


 音はなかった。声もなかった。ただ、気配が——今まで完全に沈黙していた気配が、初めて「形」を持った。


 雫が立ち上がっていた。


 本を閉じて。弁当箱の蓋を閉めて。静かに、でもはっきりと、立ち上がっていた。


 教室の中で、雫が自分から動くのを見たのは初めてだった。


 いつもは座っている。本を読んでいる。弁当を食べている。「そこにいる」だけで、自分から何かを始めることがない。風景の一部みたいに、ただそこにある存在。


 その雫が、立ち上がった。


 俺を見ていた。


 黒い瞳が、まっすぐに俺を見ていた。表情は——ない。ないけど、目の奥に何かがある。一週間見続けてきた凪いだ水面の底に、初めて影が動いた。


 雫は一歩踏み出して——俺の手を掴んだ。


 左手を。


 さっきまで結愛に右手を取られていた。今度は左手を、雫に取られた。


 雫の手は冷たかった。指が細くて、力が弱くて、でも離す気配がなかった。


「来て」


 一言。


 それだけだった。


 教室中の視線が集まっていた。いつも喋らない氷上雫が立ち上がって、隣の席の男子の手を掴んで、「来て」と言った。クラスメイトの反応は様々だった。驚き、困惑、好奇心。けど、今はどうでもよかった。


 結愛の顔を見た。


 笑っていた。


 完璧な笑顔のまま。口角の角度も、目元の柔らかさも、何一つ崩れていない。


 でも——-999の黒い靄が、ほんの一瞬、濃くなった。気のせいかもしれない。蛍光灯がちらついただけかもしれない。


 雫が俺の手を引いた。


 足が動いた。教室を出た。廊下に出た。雫の小さな背中が前を歩いている。黒髪が揺れている。手を引かれるまま、階段を上った。二階から三階へ。人気のない廊下を、早足で。


 雫は走らなかった。でも歩幅は普段よりずっと広くて、握った手を離そうとしなかった。


 三階の突き当たり。特別教室が並ぶエリア。「旧視聴覚準備室」と書かれたドアの前で、雫が立ち止まった。


 手を離さないまま、振り返った。


【999】


 虹色の光が至近距離で揺れていた。雫の黒い瞳と、その頭上の999が、同時に俺を見ていた。


 廊下は無人だった。昼休みの喧騒が、階下から遠く聞こえてくるだけ。


 雫が口を開いた。


「あの人に近づかないで」


 声が小さかった。いつもの雫だ。吐息みたいな声量。感情が乗っているのかいないのか判別できない、平坦な音。


 でも言葉は平坦じゃなかった。


 あの人。七瀬結愛のことだ。


 近づかないで。明確な警告。拒絶ではなく——警告。


「えっ……と」


 何を言えばいいのかわからなかった。「なんで」と聞くべきか。「彼女について何か知ってるのか」と聞くべきか。そもそも俺は結愛に自分から近づいたわけじゃない。あっちが来たんだ。


「どう……すればいい?」


 俺は困惑していた。一体どうすればいいのか。

 雫は俺の質問を聞いて、うなずいた。


「近づかなくてすむように、する」


 短かった。いつも通り、最小限の言葉。


 でも今までのどれとも違った。


 相談じゃない。提案でもない。俺の許可を求めてすらいない。「そうする」と決めた人間が、ただそう言っただけ。


 迷いがない。一切。


 雫の黒い瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。


 999は微動だにしていなかった。


 虹色の光だけが、静かに、廊下の薄暗さの中で脈打っていた。

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