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第一話 好感度999の無口な美少女

 目が覚めたら、好感度が見えるようになっていた。


 前日までやっていたゲームと似ていたので、たぶん好感度だ……と思う。


 階段を降りた。リビングに入ると、父さんがコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。


 その頭の上に、数字が浮かんでいる。


 【60】


 淡い黄色。温かみはあるけど、特に目立たない光。


「……おはよう」

「おう」


 父さんは新聞から目を上げずに答えた。いつも通りだ。口数の少ない、でも悪い人じゃない父親。その頭上の60という数字は、なんとなく父さんっぽいな、と思った。根拠はないけど。


 台所から母さんが出てきた。


 【70】


 黄色がほんの少し明るい。


「あら、おはよう伺。今日は早いじゃない」

「……うん」

「顔色悪いわよ? ちゃんと寝た?」

「寝た」


 寝た。寝たけど起きたら世界がバグってた。


 母さんの頭上の70は、60より少し温かい。会話の量とか、態度の柔らかさとか、そういうものと一致している気がする。


 これ、もしかして——


 ドタドタと階段を降りる音。リビングのドアが開いた。


 妹の凛が、制服姿で立っている。寝癖。不機嫌な顔。そしてその頭上に。


 【190】


 濃い黄色。金色に近い。光の粒がわずかに舞っている。


 ……え?


「どけ」


 凛は俺の横をすり抜けざまに、膝の裏を蹴った。スリッパの先が脛に当たる。痛くない。まあ妹の蹴りなんてそんなもんだ。生まれてこのかた、怪我らしい怪我もしたことないし。


「おはよう、くらい言えよ」

「……おはよ」


 ゴミを見る目だった。完全にゴミを見る目で、190。


 190?


 父さんが60で、母さんが70で、ゴミを見る目の妹が190?


 いや待て。これが俺の考えている通りの数字——つまり好感度的なものだとしたら、この家で一番俺を好きなのがあのゴミを見る目の妹ってことになるんだが。


「凛、兄ちゃんにちゃんと挨拶しなさい」

「した」

「蹴ったでしょ今」

「挨拶」


 母さんに叱られながら食卓に着く凛。ジャムをパンに塗る手つきが荒い。俺のほうを一切見ない。190。


 ひょっとして、好感度じゃないのかもしれない。

 じゃあ、なんだこの数字。


---


 通学路に出て、状況はさらにカオスになった。


 すれ違う人、全員の頭上に数字が浮かんでいる。


 【3】【0】【7】【12】【0】【0】【1】


 色はほとんどが無色透明か、かすかに白い程度。ほぼ見えない。目を凝らしてようやくわかるくらいの、存在感のない数字たち。


 俺に対する好感度だと思う。たぶん。


 知らない人。当然だ。この街で俺のことを知っている人なんてほとんどいない。4月に引っ越してきたばかりの、何の変哲もない高校一年生。通りすがりの他人に好感度があるわけがない。


 0が普通。一桁が「なんとなく見かけたことある」くらい。二桁は知り合い以上。


 なんとなく、基準が見えてきた。


 冷初高校の校門が見えてくる。冷初市ひやういしの市立高校、市立冷初ひやうい高等学校。


 校歌がどんなにがんばっても「ひゃういこー♪ ひゃういこー♪ ひゃういーこーこー♪」と最後にハジけた英語の歌詞みたいになることから、校歌斉唱が毎年SNSで盛り上がるユニークな高校だった。


 生徒がぞろぞろと入っていく。頭上の数字が少しずつ増える。同じ学校の生徒同士、顔くらいは覚えているから、一桁から二桁がちらほら。


「うかがいくーん、おはよ〜」


 クラスメイトの女子が手を振ってきた。名前は——えっと、確か山際さん。


【15】


 淡い白。15。社交辞令のおはよう、の好感度。なるほど。嫌われてはいないけど、特別でもない。これが「普通のクラスメイト」の数字なんだろう。


「おはよう、山際さん」


 返事をすると、15が17になった。


 ——動いた。今、動いたぞ。


 挨拶を返しただけで2も上がるのか。

 やっぱり好感度なのかな、この数字。


---


 1年1組の教室に入る。


 数字の洪水だった。


 三十人以上の生徒が、それぞれの頭上に数字を浮かべている。大半が一桁から二十前後。入学から二週間、まだクラスメイトとの関係なんてその程度だ。


 席に向かいながら、視界をざっと流す。


【8】【22】【11】【6】【17】【13】——


 特に目を引くものはない。全部、薄い色。淡い白か、かすかに黄色がかっている程度。これが「一般的なクラスメイトの好感度」の色なんだと思う。


 ——と。


 視界の端で、場違いな数字が見えた気がした。


 400前後の、暖かい金色。教室の後方、窓際の席のあたり。ちらっと見たけど、誰の数字かまでは追えなかった。人の流れに紛れて見失う。


 ん? ……400?

 高すぎないか?


 気になったけど、妹の件もあるので、あんまり当てにできない。


 自分の席に着く。


 隣の席を見た。


 数字が見える前から、妙に輝いて見えた。


 ——息が、止まった。


【999】


 虹色だった。


 赤、橙、黄、緑、青、藍、紫——すべての色が混ざり合いながら、滑らかに循環している。数字の周囲から光の粒子が放射されて、まるで——なんだこれ、ソシャゲのSSR確定演出か?


 輝いている。文字通り、輝いている。教室中のどの数字とも次元が違う。一桁や二桁の薄い白がロウソクの火だとしたら、これは太陽だ。直視すると目が潰れそうな、圧倒的な光量。


 そしてその数字の下に——その数字の持ち主が、座っている。


 黒髪のロングヘアが、背中の半ばまで流れている。色素が薄いんじゃないかと思うくらい白い肌。小柄な体を制服に包んで、姿勢だけはやけに正しい。


 顔には——表情がない。


 窓の外を見ている。何を見ているのかわからない。何を考えているのかもわからない。瞬きの回数すら少ないんじゃないかと思うくらい、静かな横顔。


 氷上雫。


 入学初日からずっと隣の席に座っている女子。二週間で、俺が彼女の口から聞いた言葉は片手で数えられる。いや、片手の指を三本折っても足りるかもしれない。


 誰とも喋らない。目も合わせない。休み時間は本を読んでいる。昼は一人で弁当を食べている。クラスメイトの大半は彼女のことを「怖い」「何考えてるかわからない」と言って避けている。


 その氷上雫の頭上に、999。


 虹色の、SSR確定演出つきの、999。


 ……。


 …………。


 バグだ。


 いやバグだろ。絶対バグだ。この能力が発現して——起きてからまだ一時間くらいしか経ってないけど——バグり散らかしているだけだ。隣の席の、ほぼ喋ったことない美少女の頭上に、999。


 父さんが60で、母さんが70で、クラスメイトが軒並み一桁〜二桁のこの世界で。


 俺のことを蹴ってくる妹が190で、隣の美少女が999。


 おかしいだろ。


---


 一限目、現代文。


 教科書を開く。先生の声が聞こえる。黒板にチョークが走る音。いつもの授業風景。


 ちらっと隣を見る。


【999】


 動かない。


 雫は教科書を開いて、先生の話を聞いている。ように見える。表情は変わらない。ノートにペンが走る音だけが、かすかに聞こえる。


 999。虹色。光の粒子。


 動かないのか、これ。


 朝の山際さんの好感度は、俺が挨拶を返しただけで15から16に動いた。父さんの60も、多分日によって多少は上下するんだろう。

 俺に対する好感度っていうのは、要は俺をどのくらい意識しているかどうか——そういう流動的なものだと思う。


 なのに999は、ぴくりとも動かない。


 二限目、数学。


 ちらっと見る。999。虹色。動かない。


 三限目、英語。


 ちらっと見る。999。


 四限目、体育。


 教室に戻ってきて、ちらっと見る。999。


 ——ずっと見てるな俺。いやだって気になるだろ。隣の席の美少女の頭上に虹色の999がSSR確定演出つきで輝いてたら誰だって気になる。気にならないやつがいたらそいつのほうがおかしい。


---


 昼休み。


 教室の大半が移動した。購買に行く者、友達のクラスに遊びに行く者、屋上を目指す者。教室に残っているのは十人もいない。


 雫は残っている。


 巾着袋から弁当箱を取り出して、静かに蓋を開ける。あまりよく見えなかったけど、たまご焼きは見えた。たぶん手作り。


 一人で、黙って、弁当を食べている。


 【999】


 この光景を、入学してからずっと見てきた。正確には、「無口な子が一人で弁当を食べている」という光景を。でも今日は見え方が違う。999が、その孤独な食事に虹色の光を落としている。


 周囲のクラスメイトの、雫に対する反応は冷ややかだった。


 校歌斉唱のとき、唯一無言のまま突っ立っていたからかもしれない。


 俺が転校してくる前に、なにかあったのかもしれない。


 怖い。近寄りがたい。そんな空気。


 誰も彼女に話しかけない。誰も隣に座らない。


 なのに、俺への好感度は999。


 ……なんで?


 俺、何もしてないぞ。入学してから二週間、彼女に話しかけた回数はゼロだ。会話した回数もゼロ。目が合った回数すら——たぶん、ゼロに近い。


 何もしていない相手から、999。


 意味がわからない。


 でも——不思議と、怖くはなかった。


---


 五限目と六限目を消化して、放課後になった。


 帰りのホームルームが終わる。教室がざわつく。部活に行く者、帰宅する者、だべる者。


 隣の席で、雫がカバンに教科書を入れている。いつもの動作。表情なし。手際だけはいい。


 今日一日、ずっと考えていた。


 この能力が何なのか。なぜ突然見えるようになったのか。それは正直、全くわからない。わからないけど、一つだけわかったことがある。


 二週間、隣にいたのに、彼女の事を何も知らなかった。


 話しかけてみたい。


 そう思った。


 雫がカバンを持って立ち上がる。帰るところだ。今を逃したら、また明日まで機会はない。


 ——よし。


 「あの」


 声が出た。自分でも驚くくらい普通の声が。


 雫が立ち止まった。


 振り向く。黒い瞳がこちらを見る。表情は——ない。ないけど、目だけはこちらを見ている。


 999が、虹色に輝いている。


「えっと……これ」


 咄嗟に——本当に咄嗟に、口実を探した。目に入ったのは、床の上。椅子の脚のそばに、小さな消しゴムのキャップが落ちている。


 拾った。


「これ、落ちてた。お前の——氷上さんのかなって」


 我ながら苦しい。消しゴムのキャップ。別に彼女のかどうかもわからない。たぶん違う。


 雫は俺の手のひらの上の消しゴムのキャップを見た。


 三秒。


 それから俺の顔を見た。


 「……ありがとう」


 小さい声だった。ほとんど吐息みたいな声。感情が乗っているのかいないのか、判別がつかない。


 でも——999は微動だにしなかった。


 上がりもしない。下がりもしない。


 ずっと999だったし、今も999。俺が話しかけたことで何かが変わった気配はゼロ。


 雫は消しゴムのキャップを受け取って、ブレザーのポケットに入れた。


 「じゃあ」


 一言だけ残して、雫は教室を出ていった。


 黒髪が揺れる。小さな背中が廊下に消える。虹色の999が、残像みたいにちらっと光って、見えなくなった。


 ……。


 なんだろう、この感覚。


 嬉しいとか、ときめくとか、そういうんじゃない。もっとこう——安心する? 知らない場所で、知らない文字の看板ばかりの街を歩いていて、ふと見覚えのある灯りを見つけたときみたいな。


 俺にとって雫の999は、理由はわからないけど、そういう光だった。


---


 帰り支度をして、教室を出る。


 廊下を歩く。下駄箱に向かう階段を降りる。すれ違う生徒の頭上に、一桁の数字がぽつぽつと浮かんでいる。見慣れてきた。朝はパニックだったけど、もう驚かない。


 ——と、思った。


 一階の廊下。下駄箱の手前。


 生徒がまばらに行き交うその人混みの中に——


 不穏な色が、あった。


 血の色。


 比喩じゃない。本当に、血の色をした数字が、誰かの頭上に浮かんでいた。

 真っ赤じゃない。もっと暗い。黒に近い赤。乾いた血を塗り重ねたような色。

 その周囲を、黒い靄が這っている。数字が靄の中で明滅している。


【-999】


 マイナス。999。


 心臓が、跳ねた。


 今日一日で見たどの数字とも違う。雫の999が太陽なら、これは——太陽の真裏にある何かだ。見ているだけで指先が冷たくなる。


 誰だ。


 目を凝らす。人混みの中、その数字の持ち主を探す。


 ——見えない。


 生徒の波に紛れて、血の色の数字だけが滑るように移動していく。背格好も、髪の色も、制服の特徴すらも、人の壁に遮られて判別できない。


 ただ数字だけが見えた。


 -999。


 黒い靄を纏った、真逆の光。


 数秒で、人混みに沈んだ。消えた。


「——なんだ、あれ」


 乾いた声が、自分の口から漏れた。


 立ち尽くしていた。足が動かなかった。


 4月の夕方。下駄箱前の廊下に、まだ冬の匂いが残っている。


 ともかく、俺の日常が壊れた日のはじまりだった。

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