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  作者: Yonohitomi
一章
83/184

90.見惚れるな

 開け放たれた障子の向こうに、一人の男がいた。


 耀だった。


 手にした扇子を軽やかに翻しながら、耀は舞っていた。


 ほんの一瞬。それでも、蓮次の目を奪うには十分すぎるほど美しい動きだった。呼吸することすら忘れたように、その姿へ見入る。


 背後には若い女鬼が二人いた。どうやら耀が、彼女たちに舞を教えているらしい。


(また、見れるだろうか)


 もう一度、舞ってほしい。期待するように、蓮次は目を凝らした。


 そんな彼の耳元で、老婆の声が響く。


「耀様は、舞踊の心得がございます。若い鬼たちに舞を教え、鬼が営む隠れ宿などで披露できるようにしているのです」


 蓮次はちらりと老婆を見る。しかし、すぐに耀へ視線を戻した。


 扇子が穏やかに空気を切り、はらりと翻る。耀が再び、舞の手本を見せた。


 先ほどと同じように、美しい動きだった。


「綺麗だ……」


 思わず声が漏れる。


 すると老婆が、少し笑みを含んだ声音で言った。


「耀様の踊りは、朱炎様の前でしか披露されませんよ」


 その言葉を残し、老婆の姿はすっと消えた。


 蓮次はなおも耀の姿に釘付けになっていた。


(もう一度……)


 先ほどの動きが、まだ目の奥に残っている。もう一度舞ってくれないだろうかと、期待しながら見つめ続けた。


 だが、耀はもう舞わなかった。女鬼たちと向かい合って座り、それぞれが深々と頭を下げている。どうやら稽古は終わったらしい。


 しばらくすると、耀がこちらへ向かって歩いてきた。


「耀」


 蓮次は迷いなく声をかけた。


「綺麗だった。また見せてくれ」


 耀が何かを答えようとした、その時。


 ゴンッ!


 鈍い衝撃が蓮次の頭に響いた。


「……は?」


 後ろから殴られた。


 振り向けば、黒訝が立っている。


「またお前! なんで殴るんだ!」


「お前、話聞いてたか?」


 黒訝は明らかに苛立っていた。


「耀は父上の前でしか踊らねぇんだよ、馬鹿か!」


 そう言い放ち、さらにもう一発。


「っ……!」


 今度は避けることができた。


 蓮次は舌打ちし、黒訝を睨みつける。


「お前は殴ることしか出来ないのか!」


「うるさい! お前が父上みたいなことを言うからだろうが!」


「なんの話だ!」


「絶対許さねぇ!」


 互いに睨み合い、結局、二人は取っ組み合いになった。


「お前が一緒に来いって言ったから来たんだろう! 俺、来た意味なかったよな!? それに、耀に話しかけるくらい自由だろ!」


「お前が急にいなくなるからだろうが!」


「だから何だよ!」


「黙れ、クソが!」


 言葉の応酬とともに、再び拳が飛び交う。互いの腕が絡み、膝がぶつかった。


 近くを通りかかった鬼たちは、二人の取っ組み合いを見るなり少し距離を取り、見なかったことにして去っていく。


「全部お前が悪い!」


「知るか!」


「そこまでにしましょうか」


 穏やかな声が響いた。


 熱を帯びていた空気が、そこで止まる。


 耀だった。


 蓮次が荒い息を整えながら顔を上げる。その時には、黒訝の姿がふっと影になり、そのまま掻き消えていた。


「……!」


 蓮次は拳を握ったまま、我に返る。


 黒訝はもうどこにもいない。何も言わず、去ってしまった。


 胸の奥には、収まりきらない苛立ちが残っている。


 それとは別に、うまく言葉にできない何かも。


 蓮次は大きく息を吐き、乱れた髪を整えた。


「…………」


「蓮次様、戻りましょうか」


 耀の穏やかな声がした。


 蓮次は何も言わず、耀とともに屋敷へ戻った。


 結局この日は、黒訝から鬼について詳しく聞くこともできなかった。ただ苛立ちばかりが残った。


 森はすっかり闇に沈んでいた。木々の影は昼間よりも濃く、風の音まで森の奥へ吸い込まれていく。


 蓮次は足を止め、ふと空を見上げた。


 月は雲に隠れている。


 また大きくため息を吐く。


 歩きながら考えているのは、黒訝のことばかりだった。


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