87.鬼が染み入る
ドサッ。
畳に沈み込むように、蓮次の体が倒れた。息が上がっている。肩が細かく震え、乱れた呼吸が部屋の静けさに滲んだ。
黒訝はその様子をじっと見下ろしていた。目を逸らすこともなく、蓮次に起きている変化を見定めるように。
蓮次はその視線に気づいていたが、今はそれどころではない。
――身体がおかしい。
黒訝の力が体に馴染み始めるにつれ、蓮次の中に得体の知れない感覚が浮かび上がってきた。苦痛とは違う。かといって、気持ちが悪いというのとも違う。
ぞわりと背筋をなぞる熱。脈打つような感覚が体の奥底から湧き出し、指先まで伝わっていく。
「……っ……」
耐えきれず、蓮次は体をくねらせた。
肌の内側をぞわぞわと這っていくこれは――鬼の力なのか。
奥底から湧き上がる熱が、骨と筋肉の隙間を縫うように広がっていく。
「……っ……ん、……っ」
思わず漏れた息を噛み殺すが、どうにも抑えられない。
――こんな感覚に振り回されるのが、悔しい。
意識まで塗りつぶされそうだった。収まったかと思えば、また大きな波が押し寄せ、体内を巡る。そのたびに吐息が漏れる。
そこで、黒訝がすぐ傍にいることを思い出した。先ほどからずっと見下ろされている。
急に恥ずかしさが込み上げた。
蓮次は奥歯を噛み、うっすらと開いた瞼の奥から黒訝を睨む。
「……見……るな……」
自分でも驚くほど弱々しい声だった。
蓮次は顔を背けた。それが気まずさからなのか、悔しさからなのか、自分でもよく分からない。
黒訝の力には感謝している。体は少しずつ軽くなり、体力が戻ってきていることも実感できた。しかし、その力とともに染み込んでくる得体の知れない感覚には、ぞっとするものがあった。
蓮次は再び黒訝を睨んだ。
やはり、じっと見下ろされている。
獲物を見るような目、と言えば近いのかもしれない。だが、そこにあるのは単なる興味とも違う。何かを確かめるような、蓮次の反応を見逃すまいとするような視線だった。
「……っ、見るなって……言ってるだろ」
声を荒げたつもりだったが、喉が震え、思ったほど強くは出なかった。
黒訝はそんな蓮次を見て、どこか満足げに口元を歪める。
「さっさと準備しろ。待たせるなよ」
そう言い残して、部屋を出て行った。
去り際、襖の向こうで一度足を止めたような気がした。
蓮次は畳に転がったまま、ぼんやりと壁を見つめる。心臓はまだ落ち着かない。
あれほど長く目を逸らさず見られていたことに、少しばかりの恐怖さえ覚えていた。
今から一緒に出かけることになっているが――。
(なんだか少し、気まずいような……)
蓮次は深く息を吐いた。
(とりあえず、落ち着こう……)
まだ時折、体が震えている。黒訝の力が完全に馴染むまでは、部屋を出られそうになかった。
蓮次は自分の体を抱くように腕を回した。
(…………)
気を緩めれば、このまま眠りに落ちてしまいそうだ。だが、今は眠るわけにはいかない。
しばらくして蓮次は体を起こし、ふらつく足取りで支度を整えた。
廊下に出ると、黒訝が壁にもたれかかるようにして立っていた。
――なんだろう。
妙な圧を感じる。
蓮次は問いかけようとして、やめた。
――下手に言葉にしないほうがいい。
迷うように立ち止まっていると、黒訝が「行くぞ!」と強く言い放った。いつもの機嫌の悪い黒訝に戻っている。
蓮次は無意識に胸元へ手を当て、ゆっくりと撫で下ろした。それでも、ざらついた違和感は胸の奥に残っていた。
黒訝が歩き出す。
蓮次は一拍遅れて後を追った。前を行く黒訝の背には、翼が生えた時にできた大きな穴が開いている。
(確かにあの時は、黒訝には助けられたけど……)
蓮次は息を吐いた。
――なんか、癪だ。
そう思いながらも、黒訝の背を追って歩いる。




