83.血の滝で
地獄の大気は重く、蓮次の呼吸を鈍らせていた。慎重に歩を進めながら、ひたすら気配を探る。
ここで迷うわけにはいかない。
この地獄のどこかに、異質な森があるはずだった。そこを抜けさえすれば、この空気の淀んだ不快な場所から脱することができる。
蓮次は森の気配を求め、慎重に進んでいた。
足元の地面は硬く乾いていたが、時折、生ぬるい液体が滲むように染み出している。血のような匂いが鼻をつき、息苦しさを増していく。
視界の端には、黒ずんだ岩々が歪な形で連なり、その隙間からは時折、人間か鬼か判別できない白骨が覗いていた。
ゆっくりと歩みを進める。だが、その歩みは次第に遅くなった。
空気の密度が増しているのか、それとも自分が消耗してきているのか。
蓮次は迷い始めた。気配を読むことに集中するほど、逆に感覚が鈍っていく。目が回るような感覚がし、足がふらつく。
けれど、背中には黒訝がいる。ここで倒れるわけにはいかない。
助けられてばかりの自分を思い出し、蓮次は歯を食いしばった。そして、再び前へと足を踏み出す。
そのときだった。
二つの気配が動く。
耀と烈炎のものだ。まるで誘導するかのような動き。蓮次はそれを追った。
彼らが何かを伝えようとしていると直感したのだ。
しばらく進むと、空気がわずかに軽くなるのを感じた。酸素が増えたわけではない。だが、あの纏わりつくような不快な圧が和らいでいる。
蓮次は迷わず彼らの示す方向へと進んだ。
しかし、途中で気配は消えてしまった。
ここからは自分で進めということなのか。
蓮次は少しずつ歩みを速める。
地獄の淀んだ空気の中で、ようやく周囲の気配を掴めるようになってきた。すると、目の前に奇妙な森が広がる。血に濡れた木々が、生温かい赤い液体を滴らせながら立ち並んでいる。
そう、ここを抜ければ、普通の森へと出られるはずだった。
希望が見えた。蓮次は力を振り絞り、歩を速める。
――しかし。
足が止まった。
「!!」
目の前に広がる光景に、蓮次は息を呑んだ。
巨大な滝があった。だが、それはただの滝ではない。流れ落ちるのは水ではなく、血だった。
膨大な量の血液が絶え間なく流れ落ち、地響きのような轟音を響かせている。足元を見ると、崖の淵。
下には赤黒く濁った川が広がり、深さも計り知れないほどだった。川の表面は蠢き、波間には何かが揺れている。
米粒ほどの小さな存在に見えるが、確かに動いている。
蓮次にはわかる。あれは人間だ。
人間が死んでは蘇る。呪われている。
この川に落ちれば最後となる。
蓮次は咄嗟に背後を振り返った。だが、戻ることもできない。
この血の滝を越えねばならない。しかし、向こう岸までの距離は絶望的なほど遠い。
どうする?
瞬間移動で渡れるだろうか?
いや――消耗しきった今の状態では、確実に成功する自信がない。もし途中で失敗すれば、この川へ落ちることになる。それだけは避けなければならなかった。
では、飛ぶか?
黒訝を背負ったままでは無理だ。距離が遠すぎる。足の踏み場も、不安定な今にも崩れそうな崖。
全力で跳躍しても、途中で力尽きてしまう可能性が高い。
「…………」
考えろ。確実な方法を。
失敗は許されない。ここで間違えれば、全てが終わる。
蓮次は、静かに覚悟を決めた。
どちらにせよ、進むしかない。
崖の縁で、蓮次は大きく息を吸い込んだ。
足元の地面を力強く蹴り、思い切り飛び上がる。
そして、瞬間移動を試みた。
――絶対に落ちてはならない。
血の滝に沈んだら、ただでは済まない。
そんなことは、分かりきっていた。
空間が微かに揺らぐ。
けれど、それだけだった。
蓮次の体は、どこにも転移しない。
別の場所へと移動することもなく、宙に放り出されたまま。
失敗した。
届かなかった。
そして――。




