86.鬼の手ほどき
「寝過ぎなんだよ!」
黒訝の怒声と同時に、蓮次の布団が乱暴に引きはがされた。
蓮次が、「はぁ?」と、不機嫌そうな声を漏らしながら、ゆるく身を起こす。
だが、全く鋭さのない目つきで黒訝を睨んだあと、すぐにまた布団を引き寄せ、背を向けるように寝転がってしまった。
それを見た黒訝のこめかみあたりから、ぴきっと苛立ちを含んだ音が鳴る。
「ほら、さっさと支度しろ! いつまで寝てるつもりだ!」
響く怒鳴り声。蓮次は微動だにしない。
むしろ、布団をさらに深く被ろうとする始末。
「聞いてるか! おい! 蓮次!」
黒訝の声は廊下に響いていた。
相変わらず、蓮次は返事もせず、ただ布団の中でじっとしている。
黒訝の怒りが頂点に達する。
「いい加減に! 起きろ!」
ドカッ!
鈍い音とともに、蓮次の体が揺れた。黒訝は布団を力任せに引きはがし、ついでに拳を振るったのだ。
「やめろよ、大事な布団なんだ!」
「布団が大事とか、ふざけてんのか!」
黒訝は怒りのままに声を荒げた。
――冗談にしても笑えない、布団が大事だと?
こいつは俺をどこまで馬鹿にするのか、と 内臓が煮えくり返る。
「いい加減にしろ!」
「うるさい、俺は体調が悪いんだ」
蓮次は布団を取り返そうと手を伸ばす。
しかし、黒訝はそれを無視し、蓮次の襟を掴んで力任せに引き起こした。
「お前がわがままばかり言ってるからだろ!」
「…………」
蓮次は黒訝の手を振り払い、布団の上に座り直した。
「……なんだよ……」
「なんだよじゃねぇ! お前が鬼のことを教えてほしいって言ったんだろうが!」
それを聞いて、蓮次の顔がわずかに歪んだ。
――地獄谷で、たしかに言った。
「ああ……確かに言った。でも、本当に今は体調が悪いんだ。明日でもいいか?」
気怠そうに蓮次が言うと、黒訝はさらに表情を険しくする。
「……明日? 明日だぁ?」
拳を握り締める音が微かに響く。だが、黒訝はそれをぐっと堪え、深く息を吐いた。
「着物を変えに行く。お前も来い」
少し落ち着いた声でそう言ったあと、黒訝は蓮次に背を向けて見せた。
翼が生えたときに着物が破れてしまったせいで、新しいものを取りに行かなければならない、と。
蓮次は黒訝の背中を見て表情を変える。
少しの間を置いて、「……わかった」と小さく答えた。
声色も、先ほどとは異なっていた。
とはいえ、すぐに立ち上がれない蓮次。
黒訝は静かに振り返り、蓮次の動きをじっと見つめていた。
「おい、何してんだ」
「……少し……待ってくれ……」
「は?……待つ?……だと?」
黒訝の片眉が上がる。
そして、座り込んだままの蓮次に近づき、蓮次の腕を掴んで乱暴に引き上げた。
ぐらっ……
蓮次の体がぐらりと傾ぎ、まるで力が抜けたように、黒訝の方へ倒れかかってきた。
「!?」
咄嗟に支える。
(――こいつ、本当に動けないのか?)
黒訝は眉をひそめ、蓮次の横顔を見下ろした。
いつも憎らしい余裕の表情を浮かべる蓮次。それが、今。
目を閉じ、血の気が引いた顔には青白い隈も刻まれている。ぐったりとして、まるで人形のように動かない。
蓮次の苦しそうな表情に、黒訝の勢いが止まった。
(なんだ……)
ふと、以前のことを思い出す。
蓮次の首にひび割れが生じていたときのこと。
あの日、咄嗟のことで首のひび割れに手を当てた。それが蓮次の傷を癒すことになった。
偶然かと思っていたが、その後、蓮次が「あれで元気になった」と言っていた。
お前のおかげで、と。
そこで黒訝は、蓮次の首筋に視線を落とす。
以前ひび割れていた部分には、今は何の痕跡もない。だが、なぜか。
確かめたくなった。
深く考えることはない。黒訝は手を伸ばしていた。
蓮次の肌に指先が触れる。
「……っ!」
蓮次の体が小さく強張った。
その反応に、黒訝の口元がわずかに歪んだ。
(……ああなんか……)
湧き上がる感情を言葉にできない。けれど。
――いいかもしれない。
蓮次の体が、自分の何かに反応している。
試しに、黒訝は意識的に強めてみた。
――俺の力。
気でもない、念でもない。
(父上が……蓮次にしていたように……)
力を流し込んでやろうと思う。
すると――
「っ……!」
蓮次が息を詰まらせ、小さく喘いだ。
黒訝はその様子をじっと見つめた。
――これは
蓮次は明らかに黒訝の力の影響を受けている。
(……俺の力が……蓮次を……)
そう思った瞬間、またさらに胸の奥に何か得体の知れないものが込み上げてきた。
(……だから何だってんだ)
妙な気分だった。
気に食わない、はずなのに……。
黒訝の目が細まる。
黒訝にとって蓮次とは目障りな相手だった。
朱炎からの特別扱い。
黒訝とは比べ物にならないほどの「何か」を持っている特異な存在。
そんな蓮次が、今。
――俺の手のひら一つで揺らいでいる。
黒訝は無意識にもう一度、指先に力を込めた。
蓮次の肩が震える。
「ぁぁっ……」
「……なぁ、蓮次……」
黒訝は、胸の内に湧き上がる感覚の正体を掴めずにいた。




