82.背に傷と、重みと
黒訝の背から漆黒の翼が広がった。
蓮次は驚き、思わず目を見開いたが、それよりも早く腕を引かれ、強引に抱えられる。
「……なにそれ」
呆然としながら問いかけると、黒訝は淡々と答えた。
「鴉が好きだから」
「は?」
「小さい頃、鴉を食べすぎたんだ」
「……???」
言葉の意味がわからず、蓮次は混乱する。
黒訝は鴉が好きで、幼少期に食べ過ぎた結果、その能力を取り込んだ……ということなのか?そんなことがあるのか、と蓮次は考え込む。
しかし、黒訝はそれ以上説明しようとはせず、低く呟いた。
「これは、あまり使いたくない。仕方なく出しただけだ」
その声音には僅かに不快感が滲んでいた。
蓮次はその言葉の裏に何か事情があることを察し、とくに何も返さなかった。
もうすでに黒訝と共に空を舞い上がっている。
眼下に広がるのは、これまで見たことのない景色。
高く高く、風が勢いよく吹き抜ける。
蓮次はふと足元を見下ろし、ほんの少しだけ胸の奥に楽しさを感じた。
――だが、次の瞬間。
何かに吸い込まれるような感覚に襲われる。
「っ……!?」
黒訝の翼が強く揺らぎ、二人の身体が急激に落下し始めた。まるで重力が突然牙を剥いたかのように、勢いを増していく。
蓮次は咄嗟に体勢を整えようとしたが、すでに遅かった。
地面が、目の前に迫っていた。
ドンッ!
激しい衝撃音が響き、二人は岩の上に叩きつけられた。
しばらくの静寂。
蓮次は目を開き、朦朧とした意識の中で自分の身体を確かめる。痛みはあるが、意識はある。
隣を見ると、黒訝が地面に伏したまま動かない。
「……黒訝?」
声をかけても返事はない。彼の頭部からはじんわりと血が滲んでいた。
強く打ったのか――気絶している。
黒訝の背中に目をやる。先ほど生えていた翼は消えていた。代わりに、背中には抉れたような傷が二つ。
蓮次は傷を見ていたが、再生する気配がない。
焦りが広がる。
「……黒訝!」
そんな二人の様子を、遠くの岩場からじっと見つめる影があった。
二人は少し離れた岩の裏に身を隠していた。無言のまま状況を見守る。
烈炎の表情からはいつもの軽薄さが消え、耀の瞳は冷静に蓮次と黒訝の状態を見つめている。
蓮次は荒い息をつきながら、気絶した黒訝を揺さぶっている。
「おい、起きろ……黒訝!」
だが、彼は応えない。
(また、助けられた……なのに、俺は……)
蓮次は悔しさのあまり、地面に爪を立てた。
すると、指先に伝わる感触が、先ほどまでとは明らかに違っていた。
荒くざらついた地面に、確かな熱。
ここに「存在している」ことを感じさせる。
さっきまでのどこまでも底がなく、現実味のない虚ろな足場とは、異なる確かな質量。
景色はさほど変わっていない――だが、そこに漂う空気は、まるで別物だった。
蓮次は息を呑む。
ここは現実だ。
あの空間は何だったのか、それは分からない。
だが、確かなのは、今、彼がここに「戻ってきた」ということ。
気を集中する。辺りには無数の気配が渦巻いていた。
ただの霧や風のようなものではない。
それは、明確な「生き物」の気配。
そして、その中に馴染み深い気配を見つける。
耀と烈炎がいる。二人の気配が、近くで脈動していた。
「……戻れる」
蓮次は小さく呟いた。
屋敷に帰れる――。
しかし、そこに横たわる黒訝は依然として目を覚まさない。
蓮次は焦る。
なぜなら、この場所は先ほどと同じであって、同じではなかった。
空気が、異様に重い。一息吸うだけで、体の中に鉛のようなものが流れ込んでくる。
胃がひっくり返るような感覚。肺が押しつぶされ、息が詰まりそうになる。
視界がぐにゃりと歪み、足元が不安定に揺れる。
気を抜いたら、意識が遠のいてしまいそうだった。
蓮次は歯を食いしばる。
この場を、一刻も早く離れなければならない。
彼は黒訝を背負い、目を閉じた。
感覚を研ぎ澄まし、気配を探る。
――荒々しい気配。
炎のように激しく燃え、そして燃え尽きて消えていく。しかし、いくつかは蘇る熱があった。燃え尽きたはずが、また再び燃え始めていた。
――静止した気配。
まるで時間が止まったように、冷たく固まっているいくつかの存在。そこにいる者たちは、生きているのか、死んでいるのかすら分からない。
――苦しみの気配。
呻き、もがき続ける生き物の気配があちこちに散らばっている。血の匂いが濃く漂い、まるで大地そのものが血を啜っているようだった。
――あれは、きっと
血の川が流れている場所だ。どの道を進んでも地獄だ。それでも、進むしかない。
ここに留まれば、意識を奪われ、このまま沈んでしまうだろう。
蓮次は一歩、踏み出した。
足元の大地が、呼吸するように脈打つ。不快な感触が、爪先から這い上がってくる。
背中には黒訝の重み。
道を間違えてはいけない。けれど、早く戻らなければ。
蓮次は慎重に歩みを進めた。
意識を研ぎ澄ませ、地獄の気配を避けながら――。




