85.鬼の目覚まし
耀は黒訝の様子をしばらく見ていた。よく眠ってはいるものの、寝返りを打つたびに顔をしかめるのが気にかかる。
「……少しでも楽に」
寝具を整え、耀は黒訝の部屋を出た。そのまま蓮次の部屋へ向かう。
「蓮次様、これを」
薬湯を差し出したが、蓮次は反応を返さない。
(まだ怠さが抜けない、か……)
耀は息を吐いた。
地獄谷――あの場所は、長居するものではないと改めて思う。単に過酷な環境というだけではない。谷の底には、長い年月をかけて澱み続けたものが瘴気となって溜まり、訪れた者の身体へ少しずつ染み込んでくるようだった。
耀ですら、まだ身体の内側に鈍い違和感が残っている。蓮次や黒訝のような若い鬼なら、なおさら影響が大きいのも無理はなかった。
「……蓮次様、薬湯を」
少しでも口に含んでほしいと背中を揺すると、蓮次はしぶしぶ身を起こし、薬湯を受け取った。
(蓮次様に外傷はない。が、これは少々厄介だな)
耀はその顔を覗き込む。
「…………」
薬湯を飲み終えると、蓮次は再び布団へ沈み込んだ。身体が重いというより、目に見えぬ何かを背負わされているような顔をしている。
「少しでも休めますように」
耀は蓮次の目元へ手を当て、少し強めの術をかけた。深い眠りへ誘う術だ。これで、ほんのわずかでも休めるはずだった。
(……蓮次様はまだ完全ではない。体調不良が長引くのも仕方ない)
本来、鬼は過酷な環境にも耐える。だが、二人はまだ未熟だった。とくに蓮次は鬼になりきれておらず、黒訝もまた、完成された鬼と呼ぶにはあまりに若い。
それでも、二人には強い鬼であることが求められている。朱炎から向けられる期待も、決して軽いものではない。
(お二人とも、どうか乗り越えてください)
心の内でそう願い、耀は部屋を後にした。
ところが、廊下へ出て間もなく、背後からドンドンと大きな足音が響いてきた。
荒々しい気配に、耀は足を止める。振り返るまでもなく、その人物が誰で、どこへ向かっているのか分かった。
(黒訝様……)
ほどなくして、背後で襖が勢いよく開く。
「起きろ! いつまで寝てる!」
怒声が廊下まで響いた。
「寝過ぎなんだよ!」
何かを乱暴に引き剥がす音がする。おそらく布団を奪ったのだろう。
「はぁ?」
やる気のない蓮次の声が返ってきて、耀は思わず口元を緩めた。
(さすがは黒訝様……)
耀がどれだけ手を尽くしても、蓮次の心はどこか遠くへ沈んだままだった。
だが、黒訝にはそんなことは関係ないらしい。蓮次の体調不良などお構いなしに、容赦なく現実へ引き戻していく。
「ほら、さっさと支度しろ! いつまで寝てるつもりだ!」
怒鳴り声が続く。
耀はその声を背に、廊下を歩き始めた。
黒訝が蓮次を起こしているのは、心配してのことなのか。ただ寝ているのが気に入らないだけなのか。それは耀にも分からない。
(問題なさそうだ……)
「聞いてるか! おい! 蓮次!」
さらに大きな声が響く。
「いい加減に!起きろ!」
ドカッ!!
耀は歩みを止めることなく、その音を聞いた。
(……私の出る幕は無さそうか……)




