80.横よりも縦に
蓮次と黒訝は氷獄から離れ、炎が燃え盛る谷へ向かうのを避けながら、その間に広がる土地を歩き続けていた。
湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつく。
遠くには、燃え上がる業火の名残のような熱気。
それがかすかに流れてくるのがわかる。
左手の奥には、赤黒い湖が広がっていた。
湖面には絶えず湯気が立ちのぼり、熱湯に近いと思われた。決して触れてはいけないと分かる。
一方、右手の奥には鬱蒼とした林が広がっている。その木々の間から、時折赤いものが飛び散るのが見えた。
風に乗って流れてくるのは、鉄のような濃い血の匂い。林の奥から流れ出た血の川が、地を這うように続いている。
さらに進むと、血が飛沫を上げて流れ落ちる小さな滝となっていた。
赤黒く濁った水が激しく弾け、そのたびに地獄のような光景が目の前に広がる。
――いや、ここはもうすでに地獄そのものなのかもしれない。
蓮次は最初こそ周囲を警戒しながら歩いていたが、次第に気分が悪くなり、今は足元しか見られなくなっていた。
どこまでも続く、終わりの見えない景色。
足元の黒ずんだ大地。
ずっと進んでいるのに。
「……おかしい」
思わず、蓮次は口にした。
その言葉に、黒訝が反応を示す。
答えはなかったが、黒訝も眉をひそめていた。
おそらく、彼も同じように感じているのだろう。
「なぁ、黒訝」
蓮次は思い切って声をかけた。しかし、黒訝は無視した。蓮次は続ける。
「俺を谷で助けてくれた時、空中で飛び上がっただろ? あれは?どうやって飛んだんだ?」
唐突な問いに、黒訝は少し警戒するような目を向けた。
「……空気を蹴って飛んだ」
簡潔な答えだったが、蓮次にとっては十分な情報だった。
「なら、どこでも飛んでいけるんだな」
蓮次がそう言うと、黒訝の表情が一瞬にして険しくなった。
「んなわけあるか! 馬鹿かお前!」
黒訝は苛立ちを隠さずに怒鳴る。蓮次はぽかんと黒訝を見つめた。
「……どういうことだ?」
「いいか、空気を蹴って飛ぶことはできる。だけど、集中力が必要なんだ! 当たり前だろ」
黒訝の言うことは理解できた。
瞬間移動を使う際にも、集中しなければ目的とする場所に移動できない。酷ければ発動もしない。
「だから、集中力が切れたら、空気を蹴れない。そうなったらどうなるか分かるか? 飛んでても落ちるんだよ!」
黒訝の語気は強まる。
「高いところから落ちたら、普通に怪我をする。まあ、体は再生するけど……痛い思いはしたくないだろ」
言葉の最後を吐き捨てるように言うと、黒訝は蓮次を睨んだ。
「で、なんでそんなこと聞くんだよ」
蓮次は少し迷ったが、思ったことをそのまま口にした。
「横に進んでダメなら、縦ならいいんじゃないかって思って」
黒訝は一瞬、呆気にとられたように固まった。そして、
「はぁ?」
と、まるで理解不能なものを見るような顔をした。
蓮次はそれ以上何も言わなかった。
黒訝が飛べるのなら、自分にもできるかもしれないと思った。けれど、それには集中力がいるらしい。
今の蓮次に、それを維持し続けるだけの精神力があるかと問われれば……無理だろう。
空気は重たく、どこまでも沈み込むような感覚がある。
この場にいるだけで気分が悪くなる。
そんな状況で、研ぎ澄まされた集中力を維持したまま、出口があるのか分からないところを高く高く飛び続けるなんて、自分には到底できそうにない。
……それは黒訝も同じだろう。
蓮次は口を噤んだまま、足元を見つめる。
歩くたびに、重く沈む感覚。
どこまでも続く道。終わりの見えない景色。
まるで、出口など初めから存在しないような――。
しかし、ふと横を見ると、黒訝がじっと上を見つめていた。動かない。
まるで――そこに、何かがあるかのように。
「……?」
蓮次もつられるように見上げた。
暗い天蓋。黒ずんだ雲が厚く覆いかぶさり、その隙間から微かに覗くのは、異様なほど赤く染まった空。
――ここは、本当に抜け出せる場所なのか?
胸の奥に、とてつもない不安がこみ上げる。
どんなに進んでも、この異様な景色が続く。終わらない。出口がない。
――まるで、この世界に囚われたようだ。
蓮次は、目を細めた。
黒訝は、何を考えているのだろうか。
やはり、地上に道がないなら、空へ行くしかない、ということか。
だが、それを試みるには、あまりにも状況が悪すぎる。
熱気と湿り気に満ちた空間だ。
見通しの悪い世界。
どうやって出ればいい?
蓮次は小さくため息をついた。
隣の黒訝は上を見上げたままだ。




