78.気づき、疼き
ゴツッ!!
鈍い音がして、蓮次の頭に衝撃が走った。
「いつまで寝てんだ!! 起きろっ!!」
黒訝の怒声が響き、それと同時に痛みが蓮次の意識を引き戻す。
蓮次は頭を押さえながら、ぼんやりと目を開けた。寒さと疲労で凍てついていた思考がゆっくりと回転し始める。
自分は――そうだ、黒訝に助けられ、氷水に放り込まれた。そして限界がきて、いつの間にか眠ってしまった。
状況を整理しようとする蓮次の横で、黒訝の苛立った声が響く。
「いい加減にしろよ! お前のせいで!! お前のせいで帰れないんだ!」
蓮次は静かに黒訝を見つめた。すぐに言葉を返そうとしたが、そのまま口をつぐむ。寒さのせいではない。
黒訝の目に浮かぶ感情は、単なる怒りだけではなさそうだった。
蓮次は小さく息を吐き、低く呟く。
「……放っていけばいいだろ」
黒訝の眉がピクリと動く。
「は? お前……このままここに居てどうするんだよ! 死ぬのか!? 死なないくせに! ! ずっと苦しむんだぞ! 馬鹿なのか!!」
怒りが滲んだ黒訝の言葉が、蓮次に突き刺さる。
「……俺がどうなろうと、お前には関係ないだろ」
そう返した蓮次の声は、微かに震えていた。
関係ない。
それなのに黒訝は、どうしてここまで苛立ちをぶつけてくるのか――
「関係あるに決まってんだろ!!」
黒訝が声を荒げる。
「お前のせいで全部滅茶苦茶だ! お前が急に現れて、父上が……!!」
蓮次は黙って黒訝の言葉を受け止めている。
黒訝は声を荒げて続けていた。
朱炎が蓮次ばかりを気にかけて、黒訝の方には目もくれなくなった、と。
蓮次が全てを奪っていった、お前ばかり特別扱いされている、と。
(……そうなのか?)
蓮次は静かに黒訝を見つめた。
確かに、黒訝の言う通り、朱炎は蓮次に力を与え、黒訝の任務にも同行させている。
集会の日の席では、黒訝と並んで座るように指示された。
だが、それが本当に黒訝の言うような「優遇」なのか?
蓮次は思い返す。
朱炎という鬼のことを。
朱炎は、言葉が少なく、何を考えているのか分からない。
いきなり試練を与え、助けるかと思えば突き放し、視線ひとつで圧をかけてくる鬼だった。
戦い方を教わったことはあった。
だが、それは教えられたというより、半ば強制的に戦わされ、身につけざるを得なかったというほうが正しい。
黒訝もまた、朱炎のもとで同じように鍛えられてきたのだろう。
きっと、幼い頃から朱炎の期待を背負い、朱炎の跡を継ぐことを求められてきた。
その立場からすれば、突如現れた「人間」に朱炎が目を向けたことが、許せないのも当然かもしれない。
だが——
「お前は……期待されてる」
黒訝の顔がさらに険しくなる。
「お前の着物だって、父上が特別に与えたものなんだ! 俺はそんなの貰えなかった!! お前は何も分かってない!!」
(……特別な着物?)
蓮次はわずかに眉をひそめた。
自分が着ている着物に、何か意味があるとは思っていなかった。ただ、朱炎に用意されたものを受け取っただけ。
しかし、黒訝の口から「父上」という言葉が出るたびに、胸の奥が疼くような感覚がする。
「……俺は父上に認められるために……こんなに……」
黒訝の声が震える。それは、怒りだけではなかった。
焦りと、悲しみ。
蓮次は慎重に言葉を選んで返す。
「……お前は強いよ」
黒訝の肩が微かに震える。目を掻くような仕草をして蓮次に背中を向けた。
「…………」
遠くからその様子を見ていた耀が、静かに体を起こす。
「黒訝様も、まだ子供だ。仕方ない」
烈炎が腕を組みながら低く笑った。
「餓鬼だな……」
黒訝は青年の身体つきをしているが、その実、まだ幼い鬼だ。
鬼の成長は人間とは比べものにならないほど早い。
生まれて一年も経てば、すでに人間の十歳以上の姿になり、数年もすれば青年のような体躯へと成長する。
だが、見た目がどれほど成長しても、精神の成熟はまた別の話だ。
黒訝はまだ数年しか生きていない。
その心が幼さを残しているのは、当然のことだった。
蓮次もまた、鬼の力を与えられたことで急激に成長した。
だが、それは身体だけの話であって、心まで完全に追いついたわけではない。
黒訝も蓮次も——どちらもまだ未熟だった。
沈黙が降りる。
その間にも冷たい陰の気は流れ続け、体力と気力を削っていく。
蓮次は静かに息を吐いた。
黒訝の「父上に認められたかった」という言葉が、頭の奥で響く。
認められたかった。
その感情は、分からなくもない。
けれどもっと何か――。
黒訝の言葉を聞いてから、ゆっくりと何かが浮き上がってきた。
蓮次は顔をしかめ、胸の奥を押さえつけるように拳を握る。
黒訝の言葉に、心が妙にざわつくのはなぜだろうか。
ふと、意識の奥に光景が滲む。
振り返ることのない大きな背中。
ずっと、気づかないふりをしていたが――
蓮次もまた、求めていた。
朱炎と過ごすうちに、あの目に映るのが自分であってほしいと思った。
過去の「蓮次」ではなく今の自分を映してほしい。
朱炎に認められたくて、何度も何度も、それを求めるように動いてしまっていた。
まるで、前世の自分が囁くように。
朱炎は父ではない。だが、それでも求めてしまった。
魂が震える。
蓮次のこめかみが痛みはじめた。
気づかないふりをしていたのか――。
なぜ、今になってこんなにも、胸の奥が疼くのだろう。
蓮次は頭を押さえ、息を詰めた。
心臓の鼓動が妙に強く響く。
だが、一度浮かび上がった感覚は簡単に消えてはくれなかった。
黒訝を見つめた。
俯いたまま、何かを振り払うように動かない背中。
蓮次の中で疼いているものと、黒訝が抱えているものはきっと、同じではないだろう。
だが、理解できてしまう。
「……苦しいな……」
息が詰まり、呼吸が浅くなっていく。
胸の奥が、締めつけられるように痛む。
蓮次はふと、周囲の景色に意識を戻した。
青白く霞んだ世界。冷たい陰の気がゆっくりと漂い、どこまでも広がっている。
このままではいけない。
「なぁ、黒訝……早くここを出よう」
声が少し掠れた。
黒訝は黙ったまま、じっとしている。
蓮次はもう一度、声をかけた。
しかし、反応はなかった。
まるで、この場に縛られたかのように、黒訝は動かない。
それを見た瞬間、蓮次の胸の奥で何かが軋んだ。
苦しみを超えて、哀しみが湧き上がる。
心の内側から溢れ出し、抑えが利かなくなる。
これは怒りでも、憎しみでもない。もっと深い――もっと暗い、別の感情。
悲しい。
どうしようもなく、悲しい。
蓮次は、それに耐えられなかった。
次の瞬間、空気が変わった。
ひどく重く、濃密な気が、ゆっくりと広がっていく。
蓮次を囲むように、ひたひたとまとわりつき、待ち構えていたかのように絡みつく。
烈炎が、鋭く息を呑んだ。
烈炎の僅かな動きと共に、耀もすぐさま動いていた。
二人は、瞬時に蓮次と黒訝の間に距離をとる。
警戒するように蓮次を見据え、戦闘の構えを取る。
耀の指先にはすでに術が宿り、烈炎の気も研ぎ澄まされている。
二人とも、感じ取っていた。
蓮次の内側から溢れ出す、異質なものを。




