71.弱さと強さ(3)
耀の着物が静かに床へ滑り落ちた。
顕になった上半身。耀は気まずそうに目を伏せている。肩は強張り、息は浅く、胸元だけが忙しく上下している。
朱炎は近づき、耀の肌に視線を落とした。
妙な違和感は呪詛の類ではないかと疑ったのだ。もしそうであれば目に見えるものとして身体に印が出現している可能性がある。
だが、見たところ、変色も痣もない。呪詛の痕跡は何一つ見当たらない。
それでも気配が乱れているのは何故か。
「横になれ」
朱炎は短く命じた。
耀は反射的に肩を震わせ、目を伏せたみ畏まって床に身を横たえた。
朱炎が膝をつき、ゆっくりと手を翳す。
胸の中心――心の座に人差し指を添え、つう、と一筋の線を描いた。
耀の身体がぴく、と跳ねる。
その反応。あまりに敏感で、朱炎は思わず口元を緩めそうになった。
しかし、朱炎は余計な思考を切り捨て、集中する。
耀の身体から流れ出る気の歪みを読み取ろうと。
(やはり、な……)
流れは途中で途切れたり、何かに押し返されて逆流するような、入口と出口が合わない迷宮のように歪んでいた。
(これは、何だ……)
呪詛の気配のあった部屋を焼き払ったはずなのに、耀の身体には異変が残っている。
(少し、手荒になるが……)
さらに意識を深く沈め、気を整えるために集中した。
***
屋敷の外では、烈炎と蓮次がまだぶつかり合っていた。
蓮次は息を切らしながら、何度目かの突進をする。
烈炎は舌打ちして、軽く弾き返す。身軽な蓮次の身体は再び宙を舞った。
「しぶてぇなぁ」
「烈炎、どけッ!!」
軽妙な烈炎の声に対して、蓮次が強く言い返す。
怒りと焦りと恐怖――すべてが混ざって、蓮次の目つきが鋭くなった。
攻撃ではなく、突破することに集中しよう。乱れた動きでも構わない。
蓮次がまた突撃する。
「そればっかだなぁ」
烈炎がとうとう本気で腕を振るった。
「うわぁぁああ!」
小さな身体が弧を描き、さらに遠くへ飛ばされ――
結界の境目を踏み越えた。
「やべ!」
烈炎が目を見開く。
蓮次の足が結界を出た瞬間、ぴん、と。
空気を切り割く音が走った。
――一条の光。
「……っ!」
破魔の矢が蓮次の肩を貫いた。
蓮次の身体が地に落ちる。
烈炎は叫び声を上げ、慌てて駆け寄った。
「蓮次!」
矢は深く刺さり、傷口を歪ませている。
烈炎は蓮次を抱え、即座に結界の内側へと戻った。
蓮次は震える声で呟く。
「……耀、が……」
「喋んな、馬鹿!」
烈炎は蓮次の身体を強く抱え込んだ。
***
一方その頃。
朱炎の指は耀の胸をなぞったまま、深く沈むように意識を集中していた。そのせいで、自身が張った結界の内と外で何が起ころうと読み取れなくなるが。
今は目の前の耀を整えるのが先だった。
耀が顔を歪め、喉を詰まらせる。
「……はっ……ぅ……」
朱炎は耀の異変を見逃さなかった。少し整えるだけでこれほど苦しむものだろうか。
朱炎は耀の背を抱き起こし、支えた。
耐えろと。
その姿は、他人の目には抱擁にしか見えないだろう。
***
「朱炎! すまねぇ! 俺がやらかした!」
烈炎の声が屋敷中に響き、戸が乱暴に開け放たれた。
そこで視界が揺れる蓮次が目にしたのは、
父と、父に密着するようにして支えられている耀の姿。
朱炎は耀を大切なものを扱うように支えていた。
それを見て、蓮次の胸が焼けるように熱くなった。
初めて覚える、形のない渇き。
耀が慌てて朱炎から離れる。
束の間の沈黙のあと、烈炎は耀から朱炎へと視線を戻し、改めて口を開く。
「すまねぇ……こいつを結界の外まで吹っ飛ばした……俺が悪い」
烈炎が蓮次を抱えたまま状況を説明し、謝罪した。怪我をさせたのは俺だと。
蓮次の肩からは血が滴り、表情は青ざめている。
だが、朱炎は烈炎を責めなかった。
冷たい目で蓮次を見下ろし、一言。
「烈炎の失でない。蓮次の弱さゆえだ」
朱炎は続ける。
「強ければ、結界外の矢ごときに貫かれることはない。烈炎を咎める理由はない」
ただ、朱炎の考える事実だけを告げた。
「蓮次。すべて、お前の弱さが招いたことだ」
そう言い捨て、朱炎は背を向ける。
蓮次は歯を食いしばった。
肩が痛い。だがそれよりも、胸の奥の方がずっと痛い。どうしようもなく苦しくなった。
噛み締めた唇がぶちりと破れる。口の中に鉄の味が広がった。
蓮次はようやく理解した。
父は耀や烈炎を叱る事はないのだと。
自分だけが叱られる。自分だけが認められない。自分だけが厳しく扱われる。
再生するはずの傷は心の闇が広がり始めたせいで治りが悪くなる。
蓮次は烈炎の腕の中から飛び出し、最後の力を振り絞って自室へと駆け込んだ。
「……父上なんて、大嫌いだ」




