72.弱さと強さ(4)
「で? お前ら……何やってんだよ」
張りつめていた緊張は、烈炎の乱暴な声によって唐突に破られた。
烈炎は朱炎を見据えた。だが視界の端で、急いで着物を整える耀の姿が映り込む。思わずそこへ視線が流れ、理由も分からぬ苛立ちが喉元までせり上がった。
すぐに視線を切り、感情を押し殺すように表情を整える。直後、先ほどよりも鋭さを増した眼差しで朱炎を睨んだ
だが朱炎は、その挑むような態度を意にも介さず、わずかに口元を緩めた。
得意気な表情というよりも自身の領域に踏み込んだ部下へ向ける、静かな支配の笑みだった。
「察しろ」と言葉にせずに告げるような。
空気は一瞬にして細く、鋭く張り詰める。
耀は胸元の合わせをそそくさと正しながら顔を背けていた。主の視線にも、烈炎のそれにも、今は正面から向き合えないと言うように。
烈炎は耀を見下ろす。伏せられた横顔とわずかに露わになった頸元には、消えきらぬ熱の残滓が漂っている。それを悟った烈炎は小さく舌打ちした。
だが、朱炎がふいに場の空気を切り替える。
先ほどまで耀へ向けていた意識を断ち切り、わずかに顔を上げる。
その所作ひとつで、烈炎も耀もまるで糸で引かれたかのように姿勢を正した。二人は同時に膝をつく。朱炎が張り巡らせた緊張の糸を、肌で感じ取ったからだ。
朱炎は耀へと視線を向ける。
焔の底を覗き込むような瞳が逃げ場なく耀を捉えた。
「紅葉の兄弟が訪ねてきた件――改めて話せ」
耀は喉を鳴らし、静かに息を整える。
そして、言葉を選びながら話した。兄弟が訪れた時の様子と、紅葉の父が病に伏せていることを。
「そして、兄の道摩は、蓮次様を狙っていたようですが……今は殺すつもりはないと。手を取り合うべきではないか、と……そう、申し出てきました」
朱炎の瞳が細められる。思考が深く沈み、静かな熱が室内に満ちていく。
続いて、その視線は烈炎へ向けられた。
「結界の外では?」
「ああ、外に出た瞬間狙われた……まだ他にもいる」
朱炎の眉がわずかに動いた。
そこで耀が控えめに口を挟む。
「道摩の手下の間で……仲間割れが起きていたようです。蓮次様を巡って」
朱炎は黙考する。呼吸の音すら邪魔と思えるほどの気配が静かに広がった。
やがて、決断は迷いなく下された。
「大広間に、皆を集める。急ぎだ。外の者も全て呼べ」
耀と烈炎は同時に立ち上がり、命令を受けてすぐ迷いなく退出しようとする――その背に、朱炎の声がかかる。
「耀。身体の具合は?」
わずかに落とされた声。そこにはほんの一滴の慈悲が滲んでいた。
耀の張り詰めていた肩から力が抜ける。
「……問題、ございません」
どこか羞恥を押し隠すような細い声だった。
烈炎は横目でそのやり取りを見つめ、微妙な距離感と声色に再び小さく舌打ちした。
***
蓮次は自室でうずくまり、痛む肩を押さえつけていた。
父の言葉が耳の奥で何度も反響する。
――すべて、お前の弱さが招いたことだ。
言葉は刃だ。抜かれぬまま、心臓の奥に突き立っている。
耐えきれず、蓮次は着ていた着物の袖を乱暴に引き裂いた。
びり、と乾いた音。
だが裂かれた布はまるで意思を持つかのように蠢き、音もなく元の形へ戻る。裂けて端切れとなった布は肩の傷へと這い寄り、止血のために巻き付いた。
朱炎の血を織り込まれたこの着物は生き物のように主の感情を読み取る。
流れ落ちた蓮次の血は布に吸われ、濃い蜜のように馴染んでいった。
悔しさが、胸を焦がす。
「蓮次様!」
外から声がかかる。
「大広間へ。急ぎ、とのことです」
蓮次は顔を伏せたまま、返事もしない。
やがて立ち上がり、肩を庇いながら足を引きずるように廊下へ出た。
***
大広間にはすでに多くの鬼が集まっていた。
屋敷に住まう者たちのほか、山に根を張る土鬼、森に溶ける木鬼――屋敷の外で暮らす一族の鬼たちも姿を見せている。
総勢がひしめく広間は巨大な洞穴のように圧迫感を帯びていた。
ざわめきの奥で、誰かが蓮次に声をかける。
「こっちだ。座ってな」
「ほら、端のほう」
烈炎のもとで、いつも稽古をつけている二人組だった。
蓮次は小さく頷き、示された場所へ向かう。
そこは広間の片隅。視線を上げれば遠く前方に、一段高く設えられた壇上が見える。
――父が座る場所。
血の止まりきらぬ肩を押さえながら、蓮次はその空席をじっと見つめた。
胸の奥がじくりと痛む。
傷の疼きとは違う。呼吸のたびに内側から滲み出てくる、鈍く逃げ場のない痛みだ。
広間を満たす視線が時折、刺すようにこちらへ向けられる。
一族の長の息子――そう呼ばれる立場を、否応なく背負わされていることを今さらのように思い知らされる。
この場で初めて蓮次を見る者もいる。特に屋敷に上がらず自然の中で暮らすその者達は
「あれが蓮次様だ、朱炎様の……」
「朱炎様に似ているか?」などと囁き合った。
(みんな父上のことばかり……)
蓮次は広間の奥を見つめる。
壇上は高く、遠い場所だ。そこに立つ父は炎のように強く揺るがず、誰もが畏れ、従う存在なのだ。
それに比べて自分はどうだ。
広間の端に座らされ、怪我を押さえ、声を上げることも許されない。
同じ血を引いているはずなのに、並び立つことすら許されていない。
――弱いからだ。
そう言われた言葉が頭の中で反響する。
「……うるさい」
吐き出すように呟いた声は、広間のざわめきにすぐ溶けて消えた。
(……父上は、俺のことなんて、どうでもいいんだ)
けれど本当にそう思い切れたなら、こんなにも苦しくならないはずだ。
壇上を見上げる視線にわずかでも縋るような色が混じってしまうのは、期待されないことに慣れたふりをしてなお期待してしまう自分がいるからだ。
蓮次は拳を握りしめた。
父がこちらを見る瞬間を、どこかで待っている。
それが何よりも悔しい。




