70.弱さと強さ(2)
烈炎に背を向けていた蓮次は、風向きが変わるのを感じると、少し伸びた白髪を靡かせながら振り返った。その姿にはわずかに朱炎の面影があった。
屋敷の方角を見つめたまま、口を噤んでいる。
怒りも焦りも渦巻いているはずが、込み上げてくる感情は喉元で冷え、すん、と静まった。
――耀は悪くない。
彼はいつも自分を気遣ってくれる存在だ。堅苦しい態度は面白いものではないが、常に誠実で真っ直ぐだ。
父がもし何かを間違えているのなら、伝えなければならない。
耀に不当な罰が下されるのなら、止めなければならない。
「俺は帰る」
「行かせねぇよ」
正面から、やけに楽しげな声が返ってくる。
真っ直ぐ前を見据えたまま、蓮次は足元の土をぎりりと削った。
「烈炎、邪魔」
短く言い切って、巨体の男の股下を潜ろうと身を低くする。小さな身体を武器にした動きだった。
だが、一瞬で腕を掴まれた。
少年の身体は容易く宙に浮いてしまう。
視界は反転し、何が起きたのか理解するより先に背中から地面へ叩きつけられた。
衝撃と同時に土と湿った苔の匂いが鼻腔を満たす。
少し離れた位置では烈炎が嘲るように笑っていた。
「それじゃ、無理だな」
「くっ……うるさいな」
蓮次は起き上がりながら言葉を投げた。
声は低く発せられるも小動物の唸り声のようで、迫力には欠けていた。
けれど、小さな鬼は怒りを顕にして立っている。
「俺は帰る! 邪魔するな!」
「邪魔ねぇ?」
ため息交じりに答えながら肩をすくめた烈炎が、再び距離を詰めた。
刹那、蓮次の腹部に衝撃が走った。
蓮次は声を上げる間もなく、吹き飛ばされる。
地面を転がり、岩にぶつかった。
痛みを認識した時には、腕も脚も思うように動かなかった。なんとか意識を集中し、動け動けと念じてみる。
「いっ……いてて……」
間抜けな声が出てしまい、決意を決めたはずなのに、なんとも滑稽で悔しさが募った。
「邪魔だ……って……言ってるだろ!」
地に這いつくばったまま叫ぶ蓮次。それを見て烈炎は指をコキコキと鳴らして笑みを浮かべた。
「へっ。悔しいなら、俺に勝てばいいだろ?」
「なぜ!」
「なぜって? おもしれぇから、だな」
あまりにも愉快そうな声に、蓮次は言葉を失った。なぜ邪魔をするのか、本当に理解できなかった。
「父上がおかしいから、話がしたいだけだ! 邪魔される理由はない!」
「あ? 今戻っても、またぶっ飛ばされるだけだぜ?」
「は?」
「お前が、なんも分かってねぇからだよ!」
言葉と同時に地面を蹴る音が響く。烈炎の姿が跳ね上がったと思った瞬間、蓮次は再び掴まれ、地面へと叩きつけられた。
あまりに速い。何もできない。立ち上がるたび、同じことが繰り返される。肺から空気が抜け、視界が白く揺れた。
それでも蓮次は前へ出る。
「邪魔するな!」
同じ言葉を何度もぶつけた。
烈炎は楽しそうに目を細める。
「遊んでやってんだぞ? 邪魔だなんて言うなよな!」
直後、肩を掴まれ、再び放り投げられた。
だが今度は空中で自然と身体を捻った。背中から落ちる衝撃を避け、痛みを分散させていた。
無意識に身体が動いたのだ。これ以上、身体を傷めてはならないと本能が働いた。
地面を転がりながら、荒い呼吸を整える。
烈炎がまた口の端を吊り上げて「へぇ……いいんじゃね?」と言っている。
蓮次は歯を食いしばった。
(……くそっ!)
***
朱炎の部屋は、音を失ったかのように静まり返っていた。
朱炎は座椅子に腰掛けたまま、耀を見据えている。
「全て話せ」
拒否を許さぬ言葉に耀の息が詰まった。まるで喉元で何かを押し殺しているかのようだ。
紅葉の兄弟が訪ねてきた件は気にかかる事ではあった。だが朱炎の意識は、別の違和感に向いていた。
外部からの何かが関与していることは把握できていた。だからこそ屋敷に戻るなり、その原因を絶った。
しかし、完全に消えたという感触が得られないままだ。
屋敷の中、とりわけ耀の部屋に漂っていた気配。それが外から持ち込まれた呪詛であれば、燃やした時点で抹消できているはずだった。
(おかしい……)
朱炎は思案する。
(気の流れが、狂っている……)
耀の態度はそれを確信に変える程に、違和感があった。
だが朱炎は思う。この男に限って裏切りなど、考えられない。ましてや責任を抱え込み、口を閉ざすことのほうが十分にあり得ると。
朱炎は耀を案じた。
「様子がおかしいな」
声音に刺すような鋭さはなかった。気遣いが滲む穏やかさがあるくらいだ。
けれど耀の肩が揺れている。
朱炎は顎を引き、俯く顔に視線を合わせた。
「私に隠し通せるとでも?」
「いえ、そんな事!」
耀は反射的に顔を上げた。
近くの灯明皿に勝手に火がつく。その灯りは柔らかいが、耀には怒りの炎と感じられた。
(……まさか)
耀の胸中で荒れているものは、朱炎の推測とはまるで異なっていた。
酒を飲んだ夜のことだ。烈炎と羽目を外したこと。敵の侵入を許したこと。体調を崩したことも、先ほどの主の帰還に気づけなかったことも。
なかでも烈炎との関係だけは、決して知られてはならないこと。
(朱炎様は……気づかれているのか……いや、さすがにそれは……)
耀の胸は締め付けられた。
呼吸が浅くなり、息を吸おうとするほど、肺は言うことをきかず、空気が喉で止まった。
朱炎が眉をひそめる。
「顔を上げろ」
命令に従い視線を上げる耀だが、その焦点は合っていなかった。朱炎を見ているようで、実際には宙を彷徨っていた。
朱炎は片眉を上げる。
「脱げ」
「――っ!?」
耀の思考が凍りつく。
「……は、はい」
指先が震えている。布を解く動作はぎこちない。
喉が鳴り、息がさらに途切れ途切れになっている。
耀は諦めと恐怖を孕んだ手を、ゆっくりと帯に置いた。




