69.弱さと強さ
朱炎は、部屋が完全に燃え尽きるのを確かめると、何も言わずに踵を返した。
土下座したままの耀は、その場に取り残される。
足音が遠ざかっていくのを感じ取り、耀は恐る恐る顔を上げた。判断を下した者の背中が、視界の奥で小さくなっていく。
ふと、横を見る。
そこにあったはずの部屋は完全に焼け落ちて灰となっていた。壁は崩れ、床は黒く焦げ、原型を失っている。
この部屋だけを巧みに燃やした炎は鬼の炎であれど、温もりだけを与える幻術の鬼火ではない。
これは現実の、物理的な炎であった。
耀の視線は、自然と一点に吸い寄せられる。
あの白い花を置いていた場所。
(……ああ)
胸の奥に、言葉にならないものが沈み込む。喪失とも、諦めとも、罪悪感とも異なる、ぽっかりと空いた穴のような感覚。
(これから……どうすれば……)
耀は、立ち上がることすらできずにいた。この罰を受け止め、この屋敷から姿を消さねばならないと。
胸が苦しい。
どこで何を間違えたのか。
主の帰りに気づかず、出迎えることが出来なかった。それは気配を捉えられなかったからであり、その原因は体調を崩していたせいだ。
――あの時、羽目を外してしまったから。
烈炎の誘いに乗ってしまった。烈炎が悪いわけではない。全ては自身の気の緩み。
朱炎が最も嫌う「弱さ」のせいだ。
耀はぎゅっと拳を握りしめる。
――もう、ここには居られない。
「――何をしている」
低く、強い声にはっとして見上げる。立ち去ったと思っていた朱炎が振り返り、威厳を保ったまま見つめていた。
「早く来い」
拒否を許さぬ命令だった。それが救いなのか鎖なのか、判断する余裕はない。
耀は反射的に身体を強張らせ、深く頭を下げる。そして慌てて立ち上がり、朱炎のもとへ駆け寄った。
***
「ばか! おろせー!」
烈炎の腕の中で、蓮次は必死にもがいていた。拳を振り、足をばたつかせ、喉が潰れそうなほど叫ぶ。
「耀がなにをしたっていうんだ!」
「暴れるなっての」
軽く言いながら烈炎は腕を緩めない。屋敷から少し離れた森の中、岩場まで来て、ようやく蓮次を下ろした。
自身も程よい高さの岩に腰掛けながら、蓮次と目線を合わせる。
「よく聞け」
そう言うより早く、蓮次が叫ぶ。
「どうして! 父上は耀にあんなことを! 烈炎だって耀をいじめる! よわいものいじめをするな!!」
烈炎は思わず眉をひそめた。
「そうじゃねぇ。耀は今……おかしいんだよ」
「ちがう!」
間髪入れずに返される。
「おかしいのはおまえたちだ! 耀はつかれてただけ! なにもわるくない!」
「だから聞けって――」
「烈炎は耀がきらいなのか! あのときだって、耀のくびでもしめていたんだろ! どうしてあんなひどいことができるんだ!」
「あ、いや、それはちと違って……」
「さっきだって! なぜたすけない! 父上も、耀におこってばかり……!」
烈炎が言葉を挟もうとした、その時。
「父上がわるいんだ!」
蓮次の声が、森に鋭く響いた。
「いつもひどいことばかりする! かどにぃも、べにねぇも、父上のせいでいなくなった! 母上だって泣いてた! 父上は、みんなを傷つけてばかりだ!」
握りしめた拳が震えている。
「おれは……俺は……父上が、許せない!」
(……へぇ)
烈炎は黙って見つめていた。その目はとても面白いものを眺めるかのように細められている。
蓮次が怒鳴るたび、髪がわずかに伸びるのだ。
背丈も少しずつ高くなる。目つきまでもが、徐々に鋭さを増していく。
(……おもしれぇ)
烈炎は頬杖をつきながら、口角を上げた。
怒り――激しく強く、抑えきれない感情。
それは鬼の子を――「鬼」へと急激に成長させる。
蓮次が言い終えた時、まだ子供の姿ではあるが、そこには一人の鬼がいた。
少年は言う。
「俺が、耀を助ける」
「だったらよ。強くなるしかねぇなぁ」
そう軽々しく言う烈炎を、蓮次は睨み続けていた。
少年の目は、ぎらりと光る。
その眼差しの奥ではまだ怒りが燻っていることを、烈炎はひしひしと感じ取っていた。
そして、わずかに声の調子を落とし、
「あいつを越えるくらいにな」と付け加えた。
――あいつ、朱炎は全て分かった上でやっている。
あの炎はおそらく浄化だ。
耀の異変には気づいていた。単なる体調不良ではなさそうだった。何かが内側へと入り込んだような……つまり呪詛だ。それも厄介な類の。
ならば朱炎が蓮次を近づけなかった理由も察しはつく。
呪詛に侵された者のそばに未熟な鬼の子を置くのはあまりに危うい。油断すれば、その呪詛は容易く子を喰らうだろう。
だから、守るために吹き飛ばした。
乱暴で容赦がなく、何ひとつ説明もない――いつもの朱炎のやり方で。
だがもし蓮次が今よりも強ければ。
呪詛に呑まれることも影響を受けることもなく、あるいは朱炎のように、耀を守る側に立つことさえできただろう。
結局、選べる道はひとつしかない。
朱炎のやり方が気に入らないなら――
納得できないのなら――
朱炎より強くなるしかない。
蓮次はふと、はっとしたように目を見開き、何も言わず背を向けた。
その背中を見て、烈炎は小さく笑う。
(やっぱりな)
苦笑とも諦観ともつかない笑みが、烈炎の口元に浮かんだ。
一番大切なことほど言葉にしない父。
決意を宣言しない子。
親子そろって、驚くほど似ている。
(さて……どうなるかね)
強くなりたいと思うのは鬼の本能だ。
烈炎自身も強さを求める。また、その強さで朱炎を超えたいとも思っている。だがそれはただの個人的な欲だ。蓮次のそれとはまったく異なる。
烈炎はこの時、見てみたいと思った。
最強の鬼の元に生まれた最弱の鬼の子が、どのように強さを手に入れていくのかを。
蓮次の背の影は、まだほんの少しだけ伸び続けていた。




