68.鬼の気(2)
朱炎は、屋敷のすぐ近くの洞窟へと降り立っていた。
振り返れば岩壁の奥に、妖術によって繋がれた空間が見える。あちらの岩屋と繋がる空間。
それは少しずつ閉じるが、滲んだ妖力の名残から呉葉の術が一度きりのものではないと知れた。
媒介となる耳飾りに、朱炎は短く想念を送った。
洞窟を抜け、屋敷へと姿を移動した瞬間、空気が一変する。
偶然近くに居た鬼が目を丸くして叫んだ。
「朱炎様だ! 朱炎様がお帰りになったぞ!!」
鬼たちが息を呑み、次いで、慌ただしく動き出す。
朱炎の前に駆け寄り、跪く男鬼たち。宴の支度をしていた女鬼たちは、悲鳴にも似た声を上げ、慌てて手を止め、場を整え始めた。
けれど朱炎にとって、それらは大きな問題ではなかった。
急ぐべき事は一つ。耀の部屋へ。
***
耀は、己の内側へと神経を集中していた。体調を整えるため、気を張り、何とか均衡を保とうと。
しかし、どたどたと屋敷全体が揺れるような音を体感した。
はっとして耀は戸を開けた。
鬼たちが大慌てで駆けていた。
(なんだ? 何かあったのか?)
そう思って振り返ると、目の前に立っていたのは、憤怒の形相の朱炎だった。
耀の胸がひくりと引き攣る。
この場所に至るまで、朱炎の気配を――まったく感じ取れなかった。
それどころか今、周囲で鬼たちが上げている声も、先ほどまで耀の耳には届いていなかった音量だ。
(……気づけなかった)
理解した瞬間、身体が震え出す。
これは失態だ。取り返しのつかない、致命的な。
耀は反射的に膝をつき、頭を下げた。
「申し訳ございません!」
声が掠れる。
出迎えられなかったこと。何も察知できなかったこと。すべてを必死に詫びた。
恐怖は耀の喉を締め付ける。だがそれは、殺されるかもしれないという恐怖ではない。
――捨てられるかもしれない。
耀の心を容赦なく揺さぶっていたのは、切り捨てられる恐怖だった。
朱炎は沈黙したまま、耀の部屋の奥へと視線を向ける。
バチバチバチッ――――
炎が走った。
朱炎の眼光に呼応するように、部屋が一気に燃え上がる。
耀は思わず目を見開いた。
「――ッ!」
息が詰まる。
これは罰。いや、それ以上の――
(もう……居場所がない……)
部屋を焼かれたのは、「お前は不要だ」と言われたのと同じこと。
耀はゆっくりと頭を下げた。
もう、顔を上げることができない。
炎の中、白い花は音もなく燃え尽きた。
***
蓮次は夢の中で走り回っている。
色のついた、ふわふわと浮かぶもの。掴めそうで掴めないそれを必死に追いかけている。
やがて、その中に――色のない気配があることに気づいてからは、そればかりを追うようになった。
それは次第に小さな青い光として見え始める。淡く弱々しいが、確かにそこにある光。輪郭が少しずつ浮かび上がってくる。
けれど。
突如として大きな黒い円が現れた。
それは青い光を覆うように飲み込むように広がっていく。
黒と赤が渦を巻き、やがて重々しい赤い炎へと変わった。
炎は青い光を包み込み、焼き尽くそうとするかのようだった。
青い光は小さな青い炎となって、かろうじて形を保つ。だが今にも消えてしまいそうに弱い。
(だめだ)
蓮次はそう思った時、別の真っ赤な何かが勢いよく飛び込んできた。
赤い光が弾け、炎となって青い炎を支えるように重なる。
蓮次は夢の中でそれを見つめた。
これは夢だ。けれど、ちがう?
でも。
夢だとしても――
(つかまなきゃ)
理由は分からないが、掴まなければならないと強く思った。
寝ぼけた蓮次は布団の上で、何かを掴もうと必死に手を動かしていた。
***
燃え盛る部屋の前で、耀は土下座したまま動けずにいた。
俯いた視界の端で揺れる炎。
熱が背を焼く。
朱炎はこの場から動かない。凄まじい圧を放つまま見下ろす視線は険しく鋭い。
周囲の鬼たちはこの光景が異常であると悟り、息を潜めるように距離を取った。隠れ、身を引く。
だが、この緊迫した状況にも関わらず――
「何やってんだ! 朱炎!」
怒号とともに飛び込んできた烈炎。
燃える部屋。土下座する耀。その前に立つ朱炎。烈炎の目には、いつものごとく朱炎が非道なことをしているようにしか見えなかった。
ドンッ――――
「まって!」
ここでさらにもう一人、飛び出してくる影があった。
「父上! まって! 耀は――!」
蓮次だった。
寝ぼけ眼ではなく、はっきりとした意思を宿し、耀を庇おうと走り出てきた。
だが次の瞬間、朱炎の念が容赦なく放たれた。
凄まじい圧に蓮次の身体が宙を舞う。
「うわぁぁああっ!」
「って、おい!」
烈炎は反射的にそれを受け止めた。
捕まえられた蓮次はバタバタと手足を動かして抵抗している。
だが烈炎が見ていたのは蓮次ではなく、朱炎の表情だった。
凄まじい剣幕で蓮次を飛ばした。
あの表情は――
烈炎が動けずにいると「連れて行け」と地を這うように低く命じる声があった。
烈炎は瞬時に理解した。
あれは、蓮次に向けた怒りではない。
――朱炎の恐怖だ。
蓮次が耀に近づくことを酷く恐れたという事。
耀の体調に違和感があったことは、烈炎も知っている。
どこかで、蓮次を近づけてはいけないと感じていた。その理由が今はっきりと形を持った。
耀のことは心配だったが、今は蓮次をこの場から離すことが最優先と考えた。
「しゃあねぇな。行くぞ」
「どうして! なんで! 耀はわるくない!」
蓮次は暴れ、叫んだ。だが烈炎はその身体を抱え直し、速やかに場を離れた。
残されたのは炎と沈黙。耀は俯いたままである。
かたかたと細かく震える耀の肩。
それをねっとりと包むように、朱炎の声が重く這い上がる。
「……何があった」
「そ………れは……あの……」
耀は、震える唇を必死に動かした。息が詰まり、言葉が途切れそうになるのを堪えながら。
「……紅葉様の、ご兄弟が……こちらへ、訪ねて来られました……」
その声は炎の音にかき消されそうなほど、小さかった。




