67.鬼の気
耀はゆっくりと上体を起こした。しばらく体を休ませたはずだが、息を吸うたびに、未だ胸の奥にじりりとした地味な違和感がある。
視界に入るのは、白い花。花弁は張りを失っておらず、生き生きと咲いている。
この重い空気の中、呼吸しづらいのは花も同じだろうと考え、耀は部屋の空気を入れ替えた。
外の冷ややかな空気が肺に染みる。
振り返り、「お前は平気か?」と、思わず花に話しかけそうになって──やめた。
ふと目に入る。
花を生けたばかりの器の、わずかに濁った水。
「……腐っている?」
独り言のように呟き、耀は慎重に確かめる。
(今朝生けたばかりなのに、こんなに早く腐るだろうか……)
体調がまだ整い切っていないため足取りは覚束ないが、水を替える程度なら問題ない。
屋敷の裏のすぐ近く、湧き水が伝う岩壁へ向かい、新鮮な水と入れ替えた。
「これで良し」
部屋に戻る途中、烈炎の暑苦しい気配どころか、誰の気配を感じられない。
「やけに静かだな……」
耀は遠くを見つめた。
この間、手元では──こぽり、こぽりと。
鼓膜を揺らすことなく花の水が音を立てていた。
屋敷の裏側から入り、自室へ戻る。
耀は元の場所へ花を飾った。
しばらくして喉が詰まり、再び咳が込み上げる。
「……っ」
手で口を押さえると、ざらりとした感触が零れた。掌に残ったのは、細かな砂利。
耀は、それを見つめたまま、言葉を失う。
気を抜いてはならない──そう、改めて己に言い聞かせる。
神経を研ぎ澄ませ、体調を整えることに集中した。
この時、相も変わらず一族の皆は今日も宴だと騒がしく準備をしていた。日常は何も変わっていなかったのだ。
ただ、耀の耳に届かなかっただけ。ただ、耀が皆の気配を捉えられなかっただけである。
耀の「鬼の気」は、本人の知らぬところで乱れ切ってしまっていた。
***
烈炎との稽古で力尽きた蓮次は、深く眠っていた。
布団の中。身体は浮かぶようで、沈むようでもあり、意識の奥では、もわもわとしたものが幾つも漂っている。
これは何だろう。
それに、なぜ身体が思うように動かないのだろう。
けれど、母の匂いが残る温もりに包まれ、このまま漂っていたいという気持ちが勝った。
夢の中に浮かぶもわもわは、屋敷にいる鬼たちの数とぴたりと重なっていた。
赤や黒がほとんどで、ひとつだけ、異なる色が混じっていた。だが、蓮次には、まだそれが何色か分からない。
寝言で母の名を呼びながら、それらの正体を追いかけるように夢の中で駆け回っている。
***
妻の紅葉を抱えた朱炎は、別邸近くで紅葉を下ろした。
耀が視界の共有で見せた道順通りに朱炎が進み、紅葉があとを付いていく。
「朱炎様、あのお屋敷です?」
綺麗に整えられた門をくぐり、奥へ向かった。
ほどなくして気配を察したと思われる鬼女紅葉、紅土、火土丸が姿を現した。
鬼女紅葉は朱炎を見るなり、口角をつり上げた。
「随分と時間がかかったのお?」
含みを帯びた声音に、妻の紅葉が不安げに朱炎を見上げる。
その視線の動きを見逃さず、鬼女紅葉はくつくつと笑った。
「心配するな。こんな狂った男に、妾は興味などないわ」
そう言って、今度は紅葉に詰め寄る。
「それよりも……おお、肌艶が良いのお?」
からかうように、可愛がるように顔を覗き込んだ。
紅葉は戸惑い、朱炎の方をちらと見る。
朱炎は、ふっと鼻で笑い、顔を背けた。
「あの……」と、紅土が小さく呟き、首を傾げる。
「紅葉様が、二人?」
紅土の問いに、鬼女紅葉が愉快そうに答える。
「ふふ、そうじゃ。我が名は紅葉」
そして、少しだけ声を落とし、朱炎の妻である紅葉を見る。
「だが、同じ名では呼びにくかろう?」
指で自分を指し示しながら続ける。
「呉葉と呼べ。人間だった頃の名よ。鬼として蘇ったが、妾は今世、人のように生きようと思う」
朗らかに笑い、「鬼の人生、というものよ」と得意げに朱炎へ視線を投げた。
朱炎は表情を変えず、背を向け歩き出そうとする。
その背に、呉葉が声を掛ける。
「待て、朱炎。急ぐのだろう? 案内しよう」
朱炎が振り返る。
妻の紅葉はさらに不安そうな顔をしていた。
「安心しろ。お前もついてくるが良い」と呉葉はそう言って、二人を案内する。
そこは岩屋だった。
「以前、いくつかの岩屋を使っておった。ここも、まだ妖力が残る」
呉葉は周囲を見回しながら続ける。
「朱炎よ、急ぐならば使うといい。ここを繋げてやろう。お前の屋敷の近くに洞窟はあるか?」
呉葉は、朱炎から譲り受けた例の耳飾りを、とん、と指で叩いて見せた。
朱炎は目を閉じ、屋敷近くの洞窟を思い浮かべる。その像の想念を呉葉の耳飾りへ送り込んだ。
「……わかった」
呉葉は頷き、岩屋の奥へ進む。古い縄を引き裂き、奥の岩壁に手を当てた。
闇が、ゆっくりと広がった。どこかと繋がる、裂け目のように。
「どうだ、便利であろう?」
呉葉得意げに口角を上げた。
「ああ、礼を言う」
「礼には及ばん。仮は返しておきたいのでな」
「……そうか」
「朱炎様!」
背後で、紅葉が声を掛ける。
「お気をつけて……」
朱炎はただ振り返ったのみ。頷く事もなく闇の中へと進んでいった。
「朱炎様……」
夫の後ろ姿の名残を、心配そうに見つめる紅葉。
しかし対照的に、呉葉は大きく笑った。
「案ずるな。ほれ、美味い茶菓子も用意しておるぞ」
紅葉は「え?」と驚いた顔をしたが、呉葉は気にした様子もなくその手を引いた。
朱炎の姿は、すでに向こうの屋敷へと移動していた。




