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  作者: Yonohitomi
二章
171/180

66.焦り



 烈炎は、蓮次が完全に力尽きるまで稽古に付き合った。

 蓮次の息が荒くなり、受け身も取れなくなったところでようやく切り上げ、汗に濡れた小さな身体を抱え上げる。抵抗する力も残っていないと見えた。やはりまだまだ子供。

 布団に転がすと、蓮次は何事もなかったかのように眠りに落ちた。


 烈炎は部屋を出て、耀の部屋へ足を向けた。

 朝方から続く違和感が、胸の奥に引っかかったままだ。


 部屋に入ろうとした直前、内側から声が飛んできた。


「すまない、烈炎」


 扉越しでも分かる。無理に整えた響きだ。


「耀、平気か」


 問いかけに返事はない。

 代わりに、わずかな間を置いて、拒む気配が滲んだ。


 ――来るな。


 烈炎は舌打ちを飲み込む。


 声に張りはある。息も乱れていない。今すぐどうこうなる様子ではなさそうだ。


「……なんかあったら言えよ」


 それだけ残し、背を向ける。深追いしても、耀は口を割らない。




 足音が遠ざかるのを、耀は目を伏せて聞いていた。

 胸の奥がじくりと疼く。それでも呼吸は崩さず、喉を鳴らして飲み込む。

 

 この程度で音を上げるわけにはいかない。ましてや、烈炎や蓮次の前でなど。

 情けない姿を晒すくらいなら、独りで耐える。


 耀はひとつ大きく息を吐き、寝返りを打った。




 呪いの花が生き生きと咲くこの部屋で、空気が静かに穢れていく。

 呼吸のたびに身の内が気枯れ始めている事に、耀はまだ気づいていない。



***



 木々の間をすり抜け、紅葉を抱えたまま朱炎が跳ぶ。

 東の空気の重さを、肌で捉えた。

 屋敷からはかなり距離を置いているはずなのに、何か不穏な出来事が起きている──そう確信せずにはいられない。


 朱炎は風の癖を熟知している。

 森は異変を隠さない。風はいつも裏切らない。

 ひと筋の濁りが、遠くの山から運ばれてきた。

 濁った気配が森の中を通ると、ざわざわと木の葉が騒ぎ、地に落ちていく。

 季節外れの枯れ葉は、森の涙だ。


 急がねばならない──

 眉間に皺を寄せ、朱炎の足取りは自然と速まった。


 胸の底でざわつく焦りを押し込みながら進んでいると、腕の中の紅葉がふっと笑ったのが分かった。


「どうした」


 問いかけると、紅葉は胸元で少しだけ顔を上げる。


「思い出していました。こうして連れて行かれた日のことを」


「……そうか」


 こんな時に笑っていられるものか、と一瞬思う。だがすぐに、それが彼女なりの気遣いだと気づいた。


 紅葉も決して愚かではない。

 彼女の表情から“鬼の妻”の気丈さがすっと抜け、少女の面影が浮かび上がる。木漏れ日が揺れるような、柔らかな表情に、焦りで荒んだ朱炎の心が、わずかにほぐれた。


「私、あの日、生贄だったんですよ?」


「……」


「すぐに食べてしまえばよかったのに。朱炎様なら、一口でしょう?」


 朱炎は眉をひそめる。


「品がなかった。蹴りを入れようとした女を食う趣味はない」


 紅葉はまた小さく笑った。

 指を朱炎の髪先に絡ませて懐かしむように撫でる。


 今も昔も、空気を読まない女だと思う。

 品のなさも、これまで見てきた中で群を抜いている。そんな女を喰う気にはならない。


 だが──


 朱炎が彼女を食わなかった理由は、それだけではなかった。


 紅葉は当時、貴族の姫の身代わりとして差し出された。見た目だけ姫に似せ、身体には呪毒が仕込まれていた。


 ──食えば鬼が死ぬように。


 朱炎は紅葉を見た瞬間、その気配を嗅ぎ取った。


「食えば死ぬ」


 直感で理解した。食えぬ女だと。


 だが、その呪毒の強さゆえ、放置すれば人間の手で処分されるだろうとも判断できた。


 ならば、殺そう。

 せめてもの情けとして、苦しませずにあの世へ渡してやろう──


 そう思った、その時。

 事もあろうに、紅葉は股間を蹴ろうとした。


 朱炎は面食らった。

 もちろん、その蹴りは即座に手で押さえつけたが、呆気に取られ、殺す気が失せた。


 やはり、食えぬ女だった。

 怯えぬまま睨み返す少女を前に、朱炎は思った。


 ──なんだ、この女は。


 鬼は、食った相手の「質」を取り込む。

 弱い人間を食うなど愚の骨頂で、朱炎は人間を好んで食わなかった。

 しかし耀の助言により、愚かな人間を避け、貴族の姫ばかりを狙えば、質の良い「食材」が得られると知った。

 雅な文化、洗練された知識──

 朱炎が若い頃に求めた「知」を、人から得るという選択だった。


 だからこそ、選んで食していたというのに、差し出された目の前の女は、とんだお転婆娘ときた。


 紅葉のような荒っぽい娘を取り込めば、どんな愚かさが混ざるか分かったものではない。


 ──この娘をどうすべきか。


 結局、食うことも、殺すことも、捨て置くこともできず、衝動的に連れ帰ってしまった。

 

 しかしその道中、紅葉は大声で暴れた。


 ──あまりにも喧しい。


 癇に障り、空へ高く飛んで脅かそうとしたところ──


 予想外の事が起きる。

 紅葉は、逆に目を輝かせた。


「綺麗……もっと高く!」


 呆れを通り越し、朱炎は言葉を失った。

 再び思う。なんだ、この女は、と。


「お前は笑っているが、私は呆れた記憶しかないがな」


「そうですか? 私は全て覚えていますよ。今みたいに、高く飛んで、たくさんの景色を見せてもらったこと。いい思い出です」


「……そうか」


 紅葉は自然を見下すのが好きだった。

 山脈の影、川霧の帯、夜の灯を数えては嬉しそうに声をあげていた。

 そして今も、その頃の記憶に、ひとり微笑んでいる。


 いつからか、この無邪気な笑みに柔らかな時間を感じ、胸の中で転がしていたのだと、ふと気づく。

 

 だが、妻との会話に心が緩むのも束の間、やはり今は急がねばならない。


 朱炎がさらに足を速めて跳躍すると、紅葉のまなざしが変わった。妻として、朱炎の横顔に張りつく緊張を、見逃す事はない。

 夫の表情が変わった時は、誰よりも先に気づく。


「……朱炎様」


 森の音が遠ざかり、紅葉は顔を上げる。


「何か、起きていますね」


 朱炎は答えるでもなく、真っ直ぐ前だけを射貫き、気配の揺らぎを追い続けている。


 紅葉は静かに朱炎へ身を預けた。

 蓮次に何かあったのかもしれない。

 屋敷で留守を守る鬼たちに、異変が起きたのかもしれない。

 朱炎の顔色から、紅葉はすべてを悟った。


「……急いでください」


 鬼の妻としての願いだった。


 朱炎はわずかに顎を引く。返事の代わりに、跳躍が鋭くなる。


 風が裂け、木々が後方へと流れていく。


 別邸は目前。

 紅葉を預けたら、屋敷へ戻る。


 

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― 新着の感想 ―
今日も蓮次くんお疲れ様。 烈炎が心配してますね、耀もひとりでなんとかしようとしてる。 もうちょっとで魔法使いが来るよ、シンデレラ。 ……じゃなかった← 失礼しました笑 気づいた朱炎様、紅葉さん抱え…
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