66.焦り
烈炎は、蓮次が完全に力尽きるまで稽古に付き合った。
蓮次の息が荒くなり、受け身も取れなくなったところでようやく切り上げ、汗に濡れた小さな身体を抱え上げる。抵抗する力も残っていないと見えた。やはりまだまだ子供。
布団に転がすと、蓮次は何事もなかったかのように眠りに落ちた。
烈炎は部屋を出て、耀の部屋へ足を向けた。
朝方から続く違和感が、胸の奥に引っかかったままだ。
部屋に入ろうとした直前、内側から声が飛んできた。
「すまない、烈炎」
扉越しでも分かる。無理に整えた響きだ。
「耀、平気か」
問いかけに返事はない。
代わりに、わずかな間を置いて、拒む気配が滲んだ。
――来るな。
烈炎は舌打ちを飲み込む。
声に張りはある。息も乱れていない。今すぐどうこうなる様子ではなさそうだ。
「……なんかあったら言えよ」
それだけ残し、背を向ける。深追いしても、耀は口を割らない。
足音が遠ざかるのを、耀は目を伏せて聞いていた。
胸の奥がじくりと疼く。それでも呼吸は崩さず、喉を鳴らして飲み込む。
この程度で音を上げるわけにはいかない。ましてや、烈炎や蓮次の前でなど。
情けない姿を晒すくらいなら、独りで耐える。
耀はひとつ大きく息を吐き、寝返りを打った。
呪いの花が生き生きと咲くこの部屋で、空気が静かに穢れていく。
呼吸のたびに身の内が気枯れ始めている事に、耀はまだ気づいていない。
***
木々の間をすり抜け、紅葉を抱えたまま朱炎が跳ぶ。
東の空気の重さを、肌で捉えた。
屋敷からはかなり距離を置いているはずなのに、何か不穏な出来事が起きている──そう確信せずにはいられない。
朱炎は風の癖を熟知している。
森は異変を隠さない。風はいつも裏切らない。
ひと筋の濁りが、遠くの山から運ばれてきた。
濁った気配が森の中を通ると、ざわざわと木の葉が騒ぎ、地に落ちていく。
季節外れの枯れ葉は、森の涙だ。
急がねばならない──
眉間に皺を寄せ、朱炎の足取りは自然と速まった。
胸の底でざわつく焦りを押し込みながら進んでいると、腕の中の紅葉がふっと笑ったのが分かった。
「どうした」
問いかけると、紅葉は胸元で少しだけ顔を上げる。
「思い出していました。こうして連れて行かれた日のことを」
「……そうか」
こんな時に笑っていられるものか、と一瞬思う。だがすぐに、それが彼女なりの気遣いだと気づいた。
紅葉も決して愚かではない。
彼女の表情から“鬼の妻”の気丈さがすっと抜け、少女の面影が浮かび上がる。木漏れ日が揺れるような、柔らかな表情に、焦りで荒んだ朱炎の心が、わずかにほぐれた。
「私、あの日、生贄だったんですよ?」
「……」
「すぐに食べてしまえばよかったのに。朱炎様なら、一口でしょう?」
朱炎は眉をひそめる。
「品がなかった。蹴りを入れようとした女を食う趣味はない」
紅葉はまた小さく笑った。
指を朱炎の髪先に絡ませて懐かしむように撫でる。
今も昔も、空気を読まない女だと思う。
品のなさも、これまで見てきた中で群を抜いている。そんな女を喰う気にはならない。
だが──
朱炎が彼女を食わなかった理由は、それだけではなかった。
紅葉は当時、貴族の姫の身代わりとして差し出された。見た目だけ姫に似せ、身体には呪毒が仕込まれていた。
──食えば鬼が死ぬように。
朱炎は紅葉を見た瞬間、その気配を嗅ぎ取った。
「食えば死ぬ」
直感で理解した。食えぬ女だと。
だが、その呪毒の強さゆえ、放置すれば人間の手で処分されるだろうとも判断できた。
ならば、殺そう。
せめてもの情けとして、苦しませずにあの世へ渡してやろう──
そう思った、その時。
事もあろうに、紅葉は股間を蹴ろうとした。
朱炎は面食らった。
もちろん、その蹴りは即座に手で押さえつけたが、呆気に取られ、殺す気が失せた。
やはり、食えぬ女だった。
怯えぬまま睨み返す少女を前に、朱炎は思った。
──なんだ、この女は。
鬼は、食った相手の「質」を取り込む。
弱い人間を食うなど愚の骨頂で、朱炎は人間を好んで食わなかった。
しかし耀の助言により、愚かな人間を避け、貴族の姫ばかりを狙えば、質の良い「食材」が得られると知った。
雅な文化、洗練された知識──
朱炎が若い頃に求めた「知」を、人から得るという選択だった。
だからこそ、選んで食していたというのに、差し出された目の前の女は、とんだお転婆娘ときた。
紅葉のような荒っぽい娘を取り込めば、どんな愚かさが混ざるか分かったものではない。
──この娘をどうすべきか。
結局、食うことも、殺すことも、捨て置くこともできず、衝動的に連れ帰ってしまった。
しかしその道中、紅葉は大声で暴れた。
──あまりにも喧しい。
癇に障り、空へ高く飛んで脅かそうとしたところ──
予想外の事が起きる。
紅葉は、逆に目を輝かせた。
「綺麗……もっと高く!」
呆れを通り越し、朱炎は言葉を失った。
再び思う。なんだ、この女は、と。
「お前は笑っているが、私は呆れた記憶しかないがな」
「そうですか? 私は全て覚えていますよ。今みたいに、高く飛んで、たくさんの景色を見せてもらったこと。いい思い出です」
「……そうか」
紅葉は自然を見下すのが好きだった。
山脈の影、川霧の帯、夜の灯を数えては嬉しそうに声をあげていた。
そして今も、その頃の記憶に、ひとり微笑んでいる。
いつからか、この無邪気な笑みに柔らかな時間を感じ、胸の中で転がしていたのだと、ふと気づく。
だが、妻との会話に心が緩むのも束の間、やはり今は急がねばならない。
朱炎がさらに足を速めて跳躍すると、紅葉のまなざしが変わった。妻として、朱炎の横顔に張りつく緊張を、見逃す事はない。
夫の表情が変わった時は、誰よりも先に気づく。
「……朱炎様」
森の音が遠ざかり、紅葉は顔を上げる。
「何か、起きていますね」
朱炎は答えるでもなく、真っ直ぐ前だけを射貫き、気配の揺らぎを追い続けている。
紅葉は静かに朱炎へ身を預けた。
蓮次に何かあったのかもしれない。
屋敷で留守を守る鬼たちに、異変が起きたのかもしれない。
朱炎の顔色から、紅葉はすべてを悟った。
「……急いでください」
鬼の妻としての願いだった。
朱炎はわずかに顎を引く。返事の代わりに、跳躍が鋭くなる。
風が裂け、木々が後方へと流れていく。
別邸は目前。
紅葉を預けたら、屋敷へ戻る。




