65.異変
空が白みかける直前、疲労の影がぼんやりと滲む足取りで、耀は静かに帰ってきた。
奥の部屋で烈炎と遊んでいた蓮次が、ふいにぴくりと反応する。
「……耀?」
戸を押し開け、蓮次が勢いよく飛び出す。
烈炎は腕を組み、耀の気配のわずかな揺らぎと、蓮次の反応の鋭さに目を細めた。駆けだそうとした蓮次の腕を、ひょいとつかんで引き留める。
廊下の先で耀がゆるく振り返った。
薄明の光が横顔をなぞり、雪の下に埋もれた氷のように青白い。
「耀! だいじょうぶ?」
烈炎より早く、蓮次の声が弾むように響いた。
耀は一瞬、不思議そうに二人を見つめ、それからかすかに微笑む。
「はい、大丈夫ですよ。蓮次様、何かありましたか?」
平然を装っているが、声の端にわずかな翳りが落ちていたのを、烈炎は聞き逃さない。
蓮次が耀へ歩み寄ろうとした、その瞬間。
烈炎が蓮次の身体を軽々と抱え上げた。
「わぁっ! って、れつえん! なんで!」
小さな体が宙に浮き、蓮次はばたつきながら烈炎を睨む。しかし烈炎はそれを相手にせず、耀へ問いかけた。
「どうした、耀。なにかあったろ」
(また、耀ばっかり!)
蓮次は胸の内で烈炎へ文句を投げつけた。
耀はそんな蓮次に優しく微笑み、「少し休みます、蓮次様。また後ほど」と告げ、自室へ戻っていった。
その手には、白い花。
蓮次の目は耀の顔を追っていたが、どこかで本能がざわついたのかもしれない。白い花に潜む負の気配を、まだ誰も知らない。
蓮次は烈炎に抱えられたまま、部屋へ戻される。
「れつえんのばか!」
「うるせぇ」
「だって……だって……!」
蓮次は唇を噛む。烈炎はというと、どこか遠くの気配を探るように眉を寄せている。その顔を見て、蓮次は烈炎もまた耀の異変に気づいているのだと悟った。
烈炎は蓮次の頭をぽんと叩き、片眉をあげる。
「よし、わかった。そんなに耀のとこ行きてぇなら……俺に勝て」
その言葉に、蓮次の瞳がぎらりと光を宿す。
「ふん! まけない!」
烈炎は、蓮次の戦闘訓練にちょうどいいと判断した。
二人は庭へ出て構え合う。
いつもの訓練とは違う。蓮次の目は燃えるように真剣だった。
***
自室へ戻る前、耀は屋敷の離れ──「厨屋の間」へ立ち寄った。
煮炊きを担う女鬼たちが行き交うこの場所には、日常に必要な道具がすべて揃っている。
「すまない、器をひとつ借りられるか?」
「はい、耀様。何にお使いで?」
「この花を、生けたい」
女鬼はぱっと振り返り、棚の奥から灰釉の深鉢を取り出した。
「こちらでいかがでしょう?」
「ああ、助かる」
女鬼が器に水を張り、それを耀へ手渡す。
自室に戻ると、耀は淡い光が射し込む場所に花を置いた。
花弁がわずかに揺れ、冷えた空気の中へ“何も香らない香り”がしずかに広がる。
耀は不思議に思い、そっと鼻を寄せた。やはり香りはない。
わずかに肩が震える。息を吐いた瞬間、糸が切れたように横になった。
(……やはり、人間とは深く関わるべきではない)
とりわけ道摩──あの男の力は、朱炎とは別種の恐ろしさを帯びていた。
(少し、休もう……)
そう、ほんの少し。
目を閉じて心を落ち着けるだけのこと。
まさか気絶したように深い眠りに落ちてしまうなど、思いもしないまま。
***
森は雨の匂いを孕んでいた。
葉裏の雫が光り、梢のすき間から薄青い空が覗く。揺れる枝が、荒ぶる獣の喉のように低く唸る。
朱炎は歩調を速めた。目的地まで、一気に抜けたいという焦りが足取りに滲む。
紅葉はその横顔を仰ぎ見て、ふわりと微笑んだ。
焦りを包むような、静かな笑み。
朱炎はその意味を読み取り、「すまない、少し急ぐ」と短く告げる。
紅葉の体を抱き上げた朱炎は、一息で高く跳んだ。
地面がすっと遠ざかり、森の緑が奔流のように下へ流れていく。
枝から枝へ、風を裂くたびに衣が翻り、雨の気配が濃くなる。
紅葉は朱炎の胸元にしがみつき、そっと目を細めた。
焦る心を、少しでも軽くしたい──
その思いが、風よりもやわらかく朱炎へ届いていた。
***
かぁ、かぁと鴉が鳴く。夜明け前だというのに、まるで鳴き時を間違えたかのように騒ぎ立てている。
本来なら朝日を迎えるはずの白みの空は、重たい雲に覆われ、灰を溶かしたような色に沈んでいた。
やがて雲は東へと押し流される。山の稜線をなぞり、雨を降らした。
同時に冷ややかな風が吹き、山奥の屋敷へ、針のような隙間風となって忍び込む。
「……はっ?」
耀は目を覚まし、身を刺す冷気に気づいた。
自らを抱き寄せるように腕をまわし、失われた体温を呼び戻す。
どれほど深く眠っていたのかと思うほど、肌の熱を失っていた。
外は昼か、夜なのか?
「……っ!」
刺すような頭痛に耀は額を押さえて俯いた。
胸の奥、何かがつかえ、呼吸が浅くなる。
肺が軋み、喉が焼けるように痛む。
(なんだ……?)
鬼は人とは異なり、病に伏すことなどほとんどない。それなのに、けほけほと咳がこぼれる。
じゃり、と。
口内に、砂を噛んだような気味の悪い感覚が広がった。
不快な舌触りを指先で確かめる。
「……砂?」
驚きでも恐怖でもないが、心当たりのない現象に一瞬思考が止まってしまった。
そして体調を崩したかもしれないという恥ずべき事態に、昨夜の酒の記憶がちらついた。
(私としたことが……)
判断を誤った。知を欠いた。
そう結論づけて、自らを静かに責める。
(朱炎様が戻るまでに……整えなければ)




