64.術師の帰還
屋敷の長い回廊には、香木と薬草の混じった匂いが薄く漂う。灯籠の火が揺れ、影も揺れる。そこへ、ぱたぱたと軽い足音が響いた。
「姐様、おかえりなさいませ」
小袖を揺らしながら飛び出したのは、道摩に仕えてまだ日が浅い少女──鈴芽だ。
彼女は深く頭を垂れ、姐様と呼んでいる女を見上げて嬉しそうに笑う。
女は少女の頭をぽんと撫でると、艶のある佇まいで扇を口元に寄せた。
「よくやったわ、鈴芽。あの鬼、あなたが幻影だと気づかなかったわよ。今ごろ、本当に死んだと思っているかもしれないわね」
鈴芽はくす、と喉を鳴らし、得意げに自分の影を裂いた。
影は二つに分かれ、瞬きの間に「もう一人の鈴芽」を形づくる。
「鈴芽、こら」
紫苑は指で軽くその額をつついた。
「術は十分見せたでしょう。力を無駄づかいしないで」
「だって、私ってすごいでしょう? あの青鬼様にも気づかれないのよ」
「ああ、見事な術と芝居であった」
低い声が、広間の奥からゆるりと届いた。
現れたのは、凛とした佇まいで空気を制する男──道摩。姉の紫苑と妹の鈴芽を、他家から見出し、己の配下に置いた人物である。
「お役に立てて、嬉しゅうございます、道摩様!」
鈴芽が明るく頭を下げると、道摩はゆるく片眉を上げた。
「──とはいえ、あの鬼よ。人の子でないと気づいたであろうな」
「え?」
「それでも成ったのは──」
そう言いながら、道摩は視線を広間の奥へ滑らせた。
「お前たちの芝居が巧みに鬼の思考の余裕を奪い続けたゆえだ」
そこには、父方の術師たちが沈んだ顔で控え、兵を束ねる男──雅成が腕を組んで座していた。
「雅成よ、お前たちの、あからさまな矢の雨。鬼の考える間ごと封じたゆえ、見事とは言っておこう」
褒め言葉でありながら、棘を含んだ道摩の声音に兵たちはざわりと揺れた。
「だが──」
道摩の唇が、愉しげに歪む。
「青鬼を討てと言った覚えはないがな」
雅成は鼻を鳴らして顔を背けた。ぴんと空気に緊張感が走る。
しかし紫苑が扇を鳴らて空気を割った。
「さぁ、あの鬼。花を持ち帰るかしらね?」
「姐様、それが……」
鈴芽が口をつぐむと、道摩と紫苑の視線が同時に向けられた。
「花に仕込んだ術は、どうなった?」
道摩の問う声は静かであった。だが、鈴芽は少しばかり肩をすくめる。
「申し訳ございません、道摩様。最後……青鬼様が拾われて。触れた途端、術がとけてしまいました。だからもう、何も視れなくて……」
「何だと?」
「見破られたのか……?」
「いや、気づいたのでは……?」
ざわめく中、道摩だけは眉ひとつ動かさなかった。
しばし思案し、やがて低く呟く。
「……そうか」
焦りも落胆もない声色だ。
鈴芽の不安げな瞳を見て、道摩は穏やかに微笑む。
「構わぬ。天が視させぬなら、別の道を使えばよい」
「道摩様……」
「お前と紫苑の術は、よく働いた。案ずるな」
その言葉に鈴芽の肩がほっと落ちる。
紫苑もかすかに微笑み、妹の背をそっと押した。
雅成が咳払いをし、問う。
「では、この先はどう動くのだ! 今すぐに仕掛けなければ!」
隙あらば八つ当たりしようとする雅成だが、道摩は彼を相手にせず、紫苑へ指示を飛ばす。
「紫苑。準備を」
「はい、道摩様」
阿吽の呼吸で進むそれは、高度な術師たちの間でしか通じない。
紫苑は袖の中から桐箱を取り出し開けた。
中には五つの壺。その壺に封じられているのは自然の欠片である。
木の屑、水の滴、火の灰、土の砂、金の鉱片。
そして紫苑独自の術式で、壺にはそれぞれ異なる呪符が貼られている。
雅成が低く呟く。
「紫苑の五象巡りか……」
「ふふ、お任せくださいな」
紫苑は壺を円の形に並べ、白絹の上に指を滑らせた。絹に描かれた符が淡く光り始める。
「占うは、あの鬼の行く末」
紫苑は掌を合わせる。
すると壺の中の象がふわりと浮き、光を帯びて巡り始めた。
やがて紫苑は脳内に浮かぶ占術の結果を、声に出して読む。
「腐水は血を濁し、巡りを止め、金は水を求めて軋み、土は鉱を呑み込み、重く沈む。
木は土の腐りに侵され、干からび、根を失い、葉を落とす。
五行、巡らず。巡らぬゆえに、力は枯れ、
鬼は呪い、病に伏す」
紫苑はそっと目を開けた。
「未来は定まりきってはおりませぬが、巡りを失う者ありと、五行は示しております」
静まり返る屋敷の中で、道摩は静かに頷き、わずかに笑んだ。
「上々だ」
道摩がふと遠くを見つめた。
「鬼が病む。焦ることはない。天は我らに味方しておる」
威厳のある佇まいに鈴芽が息を呑む。雅成もわずかに目を細めた。
白い花の結末を道摩は知らない。だが鬼の心に残る情が病の芽と変わる事を確信していた。
(鬼は、呪う事しかできぬ……)
「なんとも、哀れな……」
ぼそりと呟かれた道摩の言葉に、皆が一斉に首を傾げた。




