5.目覚めた場所
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意識が、ゆっくりと浮かび上がる。
肌触りがいい柔らかな寝具。
包み込まれるような温度。
ーー久しぶりの感覚だ。
睡眠薬特有の気だるさを感じながらも、アネリエは重たい瞼を開く。
(……ここは)
ゆっくりと身体を起こし、辺りを見回した。
やはり知らない場所だ。
調度品を見る限り、貴族の屋敷であるのは分かる。
腕を伸ばし、自身の着ている服を見る。
誰かが薄手の寝衣を貸してくれたのだろう。
(……そういえば、川に飛び込んだわね)
誤って睡眠薬を飲み、意識を失ったことを思い出す。
上質な石鹸の香り。
眠っている間に、かなりお世話になったようだ。
外周区の川の匂いは、それはもう酷いものである。
アネリエは、洗ってくれたであろう誰かに感謝しつつも、少し申し訳なくなった。
扉を叩く音がする。
アネリエが返事をすると、長身の男が入ってきた。
「目を覚まされましたか」
耳触りの良い声。
黒髪に眼鏡。隙のない身なり。
控えめな装飾の懐中時計が、胸元で静かに揺れている。
「分かりますか?」
男は温かなミルクティーを差出しながら問いかける。
アネリエは一瞬その姿を観察し、
「品の良い眼鏡に、控えめなデザインだけれど装飾が美しい懐中時計。どこからどう見ても上流貴族の執事にしか見えないわ」
と、小さく笑いながら言った。
一瞬だけ。
その男、執事ディルクの動きが止まる。
「……ありがとうございます。過分なお言葉です」
何事もなかったかのように、執事は頭を下げた。
ほっと一息ついたので、状況整理を始める。
「ここはどこなの?」
「アルヴェイン伯爵家の屋敷でございます」
「……そう」
アルヴェインはライオネルの家名だ。
両親は数年前に既に他界しており、家名を名乗るのは彼一人しかいない。
アネリエはこの屋敷で2時間ほど眠っていたそうで、窓を見ると、外は暗くなっていた。
「ねぇ」
「はい」
「迷惑ついでに、もう一度お風呂を借りてもいいかしら」
アネリエは、髪の一束を鼻先に近付けた。
わずかに眉を寄せる。
「川の匂い、どうしても気になるの」
申し訳なさそうに笑うアネリエを見て、ディルクもつられて静かに微笑む。
「承知いたしました。すぐにご用意いたします」
…
入浴の準備が出来たので、ディルクはアネリエを案内する。
彼女は一人がいいと言うので、侍女の代わりに、そのまま浴室の前まで見送った。
すると、直前でアネリエが振り返る。
「そういえば…」
「はい」
「貴方の主人って、男性を好むの?」
「…………え」
空気が固まった。
ディルクの思考も、完全に停止する。
「…………」
彼女は今、ライオネル・アルヴェインが男色なのかと聞いたのだ。
彼に仕えて5年余り。
騎士団という業務柄、女性よりも男性に囲まれることが多い主人だが、そんな様子は見たことがない。
「……そのような事実はございません」
「ふぅん?」
アネリエはそれ以上追及せず、そのまま風呂場へ向かった。
…
湯に身を沈める。
じわりと広がる熱が、冷えた身体を解いていく。
(……長い一日だったわね)
朝から今に至るまでを振り返る。
だが、すぐに別の思考が浮かんだ。
(……んー?)
一度目の人生。
ライオネル・ヴァルド・ブラッドレッドは、国王でありながらも正妃も側妃も迎えなかった。
政治的な婚姻すら、すべて拒絶した。
その結果――
(……女性ではなく、男性を好むと噂されたのよね)
ライオネル自身も、特に噂を否定しなかったと、そう伝え聞いている。
湯の中で、わずかに首を傾げる。
王の婚姻は、いわば政務だ。
特に、ブラッドレッドやリカージョンのような国は、子を成すことが最重要業務とも言える。
「……まあ、いいわ」
いくら考えたところで答えは出ない。
アネリエは頭まで浸かり、深く考えることをやめた。
…
その頃。
ディルクは廊下を進み、屋敷の奥へと向かっていた。
重厚な扉の前で足を止め、ノックする。
「入れ」
室内にはライオネルがいた。
一人でいるところから、連れていた部下は宿舎に帰したらしい。
広い机の上には、小袋や瓶、ナイフ等の細かな道具が並べられている。
すべて、あの女性の持ち物だ。
「……どう思う?」
「どう、とは?」
ライオネルは並べられた物の一つを顎で指した。
鮮やかな赤い宝石の付いた首飾り。
一見、ただのアクセサリーにも見えるが、違う。
「プレーンズ商会の顧客証ですね。それにこの色は…」
「ああ、相当なお気に入りらしい」
プレーンズ商会はブラッドレッドで最も大きな商会の一つだ。
相当手広く、知らない者はいないほどに。
この商会には特別なルールがある。
それがこの【顧客証】だ。
宝石の色が赤に近ければ近いほど、顧客ランクが高くなる。
顧客証は貴族のステータスにもなっている。
つまり、鮮やかな赤色ということは、身元が保証されていると言っても過言ではない。
遅れて、ディルクは報告する。
「先ほどの女性、目を覚まされました」
「……ほう」
続けて、今は再度入浴していることを伝えた。
ライオネルは、小袋を手に取りながら呟く。
「……薬師、か」
期待と興味。
そして、言いようのない苛立ち。
ディルクは空気を変えようと声をかけた。
「一点、ご相談がございます」
「なんだ」
「着替えが必要かと存じます。奥様のドレスをお借りしても?」
奥様というのはライオネルの母君のことだ。
既に他界しており、ドレスの袖を通す者はいない。
「……勝手にしろ」
ライオネルは興味なさげに返した。
しかし、すぐに考え直す。
「おい……そんなことを気にする奴だったか?」
「何のことでしょう?」
ディルクは普段から“女性に厳しい”と言われている。
本人曰く、男性も女性も平等に接しているだけだそうだが。
貴族社会、執事という立場で女性をエスコートしないというのはそれだけで違和感がある。
何かトラウマのようなものがあるのだろう。
本人も語らないし、誰も言及したことはない。
ディルクは素知らぬ顔で答えた。
「伯爵家の執事長として客人をもてなすのは当然かと」
そして彼は一礼し、部屋を後にした。
(……どうやら、短い間でうちの執事を手懐けたらしい)
ライオネルはまた一人になり、あの女を思い出す。
翡翠の瞳。
亜麻色の長い髪。
ーー肝が座った態度と行動力。
心当たりがなくはないが、流石にこれは信じ難い。
「……まさかな」
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