10.暴かれた名
遅刻!すみません!
アルヴェイン伯爵邸の門前に、見慣れぬ馬車が止まった。
御者が扉を開くよりも早く、内側からそれは押し開けられる。
降り立ったのは、髭を生やした壮年の男。
整えられた上等の衣服。無駄のない所作。
そして、その目だけが、異様に鋭かった。
トルロ・サンキスト侯爵。
彼は門を一瞥しただけで、足を進める。
門番が止めようとしたが、すぐに見て見ぬ振りをした。
誰も止める者はいない。
ーー止められないのだ。
ブラッドレッド国の宰相であり、王の側近。
そして、当主の後見役であることを、誰もが知っているから。
玄関ホールに入った瞬間、空気が張り詰めた。
近くにいた侍女が、びくりと肩を震わせる。
「……女性は、どちらに」
低い声だった。
怒鳴ってはいない。
だが、逆らうという選択肢を奪うには十分だった。
「しょ、書斎に……」
か細い声で答えた瞬間には、もう彼は動いていた。
廊下を進む足取りに、迷いはない。
…
一方、その頃。
王宮の騎士団専用の執務室。
いつものように、騎士の一人が業務連絡を行っている。
そこに、息を切らした部下が飛び込んできた。
「サンキスト侯爵が……屋敷へ……!」
一瞬の静止。
理由は明白だ。
次の瞬間には、舌打ちが落ちた。
「すぐ戻る」
落ち着いた声色。
だが反対に、椅子が音を立てて倒れる。
「馬を出せ」
部下はまた急いで走っていく。
ライオネルも上着を羽織り、執務室を出た。
残された騎士は、ぽかんとその背を見送るしかなかった。
…
高い棚に手を伸ばし、アネリエは梯子の上で背伸びをしていた。
(あと少し……)
貴族の令嬢ならば、執事を呼んでくる場面だろう。
しかし、アネリエは危機管理能力が人より低い。
これはその弊害だ。
……指先が本に触れた、その時。
扉が音を立てて開いた。
(……え?)
視線を向ける。
そこにいたのは見知らぬ男性。
ーーいや、見知った男性だ。
「……っ、サンキスト侯……!」
思わず声が漏れる。
その瞬間、足場が滑り、体勢が崩れた。
「……あ」
手が、梯子から離れる。
(落ちる……!!)
アネリエは咄嗟に身体を丸めようとするが、いかんせんこの高さ。
怪我では済まない。
「おい!!」
その時、影が飛び込んできた。
ーー衝撃
だが、床に叩きつけられるはずだった身体は、何かに受け止められた。
次いで、ばさばさと本が落ちてくる。
頭を抱え込むが、さらに大きな腕がアネリエを守る。
(…………な、何が……?)
音が止み、状況を伺うように目を開ける。
鍛え上げられた大きな身体。
上から、焦った呼吸が降ってくる。
「……え?」
ライオネルが、下敷きになっていた。
片腕でアネリエの背を支え、もう片方の手で、その頭を庇うように抱き寄せている。
数秒。
目と目が合う。
「……っ、大丈夫!?」
先に我に返ったのはアネリエだった。
慌てて身体を起こし、彼の顔を覗き込む。
「ごめんなさい……! ありがとう、本当に……怪我は……」
言葉がうまくまとまらない。
ただ、必死に確認する。
ライオネルは、ゆっくりと息を吐いた。
「……問題ない」
短く答える。
だが、その視線はアネリエから外れていない。
怪我をしていないか、確認してくれているのだ。
アネリエは心配させないように、立ち上がる。
そして、ライオネルに手を差し出した。
彼は安心したように笑い、手を掴む。
「……大丈夫そうだな」
アネリエは全身で手を引き、彼の身体を起こす。
安心したのか、お互いに表情が柔らかくなってしまう。
「……ゴホンッ」
わざとらしい咳。
アネリエは侯爵の存在を思い出し、冷や汗とともに固まってしまう。
近付いてくる足音。
最後の抵抗として視線を逸らす。
サンキスト侯爵はアネリエの前に静かに立った。
「驚かせてしまいましたな」
(……!!)
侯爵、さらには宰相ともあろう方が謝罪をした。
そんな彼に、視線すら合わせないなど、あるまじき行為だ。
逃げ場はない。
自身の恥はどうでもいい。
しかし、相手に恥をかかせることはできない。
アネリエは裾を掴み、挨拶儀礼をとった。
「お見苦しいところをお見せいたしました」
侯爵がアネリエを見下ろす。
ついでに、呆れたようなため息も降ってきた。
「……無事で何よりです」
一拍。
瞳を閉じて、続きを待つ。
「アネリエ・モトレー侯爵令嬢」
ついにーー
落とされた。
「ーー“聖女”様」
視線が、アネリエへと向けられた。
理解がゆっくりと形を成す。
そしてーー
誰も、言葉を発さなかった。
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