死亡保険金
「それにしても、美月さん、よく治ったわねぇ」
フレンチトーストを頬張っていた淑子が、思い出したように口を開いた。
私は手にしたフォークを止めた。
「え?」
「だって、あんなに重い病気だったんでしょう? もう家に帰ってこられないかもしれないって、亮介から聞いていたものだから」
淑子は悪びれる様子もなく、紅茶のカップを持ち上げた。
「それなのに、ちゃんと退院できたんですもの。よかったわねえ」
「……はい。おかげさまで」
私は曖昧に微笑んだ。
病気がわかったとき、医師からは厳しい説明を受けた。
治療が長期に及ぶことも、以前の生活に戻れる保証がないことも告げられた。
だからこそ、私は一年間、必死に治療を続けてきた。
もう一度、自分の家で暮らしたかった。
当たり前の日常を取り戻したかった。
それなのに、淑子は何かを思い出したように、ぱんと手を打った。
「でも、せっかく保険を掛けたのに、掛け損だわ」
「……え?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
淑子はフレンチトーストを切り分けながら、平然と続けた。
「ほら、私、保険の外交員をしているでしょう? 美月さんが入院したって聞いたとき、いろいろ手続きしておいたのよ。死亡保険金も、まとまった額が出るようにしてね」
手からフォークが滑り落ちそうになった。
死亡保険金。
私が知らないうちに、そんな保険が掛けられていたというのだろうか。
「……私、そんな話は聞いていませんけど」
「そうだったかしら?」
淑子は首を傾げた。
「手続きはこっちでやっておいたから、細かいことは亮介に話してあると思ったんだけど」
私は思わず夫を見た。
亮介はフレンチトーストを口に運んでいたが、私の視線に気づくと、わずかに眉を動かした。
「母さん、今そんな話をしなくてもいいだろう」
「何よ。別に隠すようなことじゃないでしょう? 保険は万が一のためのものなんだから」
淑子はあっけらかんと言った。
「それに、せっかく保険料を払ったのに、こうして元気になっちゃったんだもの。掛け損だわ」
私は息を呑んだ。
ヒュッ、と喉の奥が狭まったような音がした。
自分でも、呼吸がうまくできていないことに気づいた。
「……すみません」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
淑子はきょとんとしたあと、軽く手を振った。
「いいのよ、仕方ないわ。病気なんて、本人の意思でどうにかできるものじゃないんだから」
仕方ない。
その言葉が、胸の奥に冷たく沈んでいく。
私は、なぜ謝ったのだろう。
難病が完治し、自宅療養に移れることになった。
これから少しずつ体力を取り戻して、また自分の人生を生きようとしている。
それなのに、なぜ私は、生きて帰ってきたことを詫びなければならないのだろう。
フレンチトーストを切り分けようとしていた手が止まった。
甘い香りが漂っているのに、口の中はひどく苦かった。
「母さん、もうその話はいいだろう」
亮介が、少し不機嫌そうに言った。
けれど、私を気遣っているようには見えなかった。
話題を変えたいだけなのかもしれない。
義父の達郎が、広げていた新聞から顔をのぞかせた。
「それで、美月さん。仕事はどうするんだい?」
「仕事、ですか?」
「ああ。漫画の仕事だよ。病気で休んでいたんだろう? これからどうするつもりなんだ?」
私はフォークを置いた。
「それは……体調を見ながら、ゆっくり再開しようと思っています」
「そうだな。無理しないほうがいい」
達郎は納得したようにうなずいた。
「印税は黙っていても入ってくるんだろう? しばらくは、それで暮らせるんじゃないか」
「……はい」
私は小さく答えた。
漫画を描くことは、私の仕事であり、生きがいだった。
デビューしてから少しずつ読者が増え、連載作品のコミックスも、ありがたいことにそこそこ売れた。
やがてアニメ化が決まり、関連グッズの販売も好調だった。
もちろん、最初から順風満帆だったわけではない。
締め切りに追われ、何日も机に向かい続けたこともある。
思うように描けず、原稿を何度もやり直したこともあった。
それでも、自分の描いた物語を誰かが読んでくれる。
その喜びが、私を支えてくれた。
そして、漫画の仕事で得た収入は、私たち夫婦の生活を支える大きな柱になっていた。
一方で、亮介は自分の給与を家計に入れようとしなかった。
結婚した当初は、いずれ家計を一緒に管理するつもりなのだと思っていた。
けれど、何年たっても状況は変わらなかった。
住宅費や光熱費、食費、日々の生活に必要なお金。
そうした支出の多くは、私の収入から出していた。
亮介は「自分の給料は自分で管理したい」と言うだけで、具体的に何に使っているのかは教えてくれなかった。
そこが、ずっと悩みの種だった。
ギャンブルをするわけでもない。タバコも吸わないし、酒を飲んで帰ってくることもなかった。
高価な時計や車を買い替えるようなこともない。
それなのに、給与は一切、家に入れない。
いったい、どこで何に使っているのだろう。
不思議には思っていた。
けれど、仕事が忙しいのだろうと自分に言い聞かせ、深く追及することは避けてきた。
少なくとも、莉子が現れるまでは、女性の影もなかったのだから。
私はちらりと亮介を見た。
彼は何事もなかったように、子供の口元についたパンくずを拭っていた。
その姿を見ていると、胸の中に新しい疑問が浮かんでくる。
もしかして、彼が家計に入れなかったお金は、ずっと別のところに流れていたのだろうか。
莉子との生活に。
あの子を育てるために。
あるいは、私の知らない何かのために。
考えがそこまで及んだとき、玄関のインターフォンが鳴った。
ピンポーン。
全員の視線がそちらへ向いた。
「誰だ、こんな朝っぱらから」
亮介が椅子を引き、立ち上がろうとした。
すると、莉子がすっと席を立った。
「私が行きます」
そう言うと、彼女はエプロンを外し、手際よく椅子の背に掛けた。
まるで、この家の主人は自分だとでもいうように、迷いのない足取りで玄関へ向かっていく。
私はその後ろ姿を見つめた。
この家のどこに何があるのか。
誰が何を必要としているのか。
いつ食事を用意し、どの部屋を整え、誰にどう接すればいいのか。
莉子は、すでにすべてを把握しているようだった。
ただのハウスキーパーとは思えない。
やがて、玄関先で短いやり取りが聞こえた。
「……はい。少々お待ちくださいませ」
足音が戻ってくる。
莉子はダイニングルームの入口に立つと、私に向かって丁寧に頭を下げた。
「奥様にお客様です」
「私に?」
思わず聞き返した。
退院したばかりの私を訪ねてくる人など、ほとんどいないはずだった。
出版社の人たちには、まだ自宅療養中だと伝えてある。
担当編集者にも、退院の日程を詳しく知らせてはいなかった。
「はい。久世透様という男性の方です」
その名前を聞いた瞬間、私は目を見開いた。
久世透。
私の担当編集者だ。
連載が始まった頃から、ずっと私の作品を担当してくれている。
原稿の締め切りには厳しいけれど、私が体調を崩したときには仕事の調整をしてくれた。
入院中も、必要以上に負担をかけないよう気遣ってくれていた人だった。
どうして、ここに?
「久世さんが……?」
私が呟くと、莉子はうなずいた。
「玄関でお待ちいただいています。お通ししてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろん」
答えながら、私は少しだけ背筋を伸ばした。
久世さんが来てくれた。
それだけで、張り詰めていた気持ちがほんの少し緩んだ。
この家に戻ってから、私はずっと、自分の居場所がなくなってしまったような感覚を抱えていた。
夫も、義両親も、莉子も、私の知らないところで何かを決めている。
誰も私に本当のことを話してくれない。
けれど、久世さんなら。
私の仕事を知っている。
私がどんな思いで漫画を描いてきたのかも、病気になってからどれほど仕事に戻りたいと思っていたのかも知っている。
少なくとも、彼は私を「病み上がりの妻」でも「家計を支える人間」でもなく、一人の漫画家として見てくれるはずだ。
「……久世さん、どうしたのかしら」
期待と不安が入り混じった気持ちで玄関のほうを見つめた。
そのとき、亮介が口を挟んだ。
「仕事の話なら、まだ早いんじゃないか? 美月は退院したばかりなんだから」
「でも、久世さんは私の担当編集者よ。何か用事があるのかもしれないわ」
「だからといって、朝からわざわざ来ることもないだろう」
亮介の口調には、わずかな苛立ちがにじんでいた。
私は夫を見た。
なぜ、そんなに嫌そうな顔をするのだろう。
久世さんが訪ねてくることに、何か都合の悪いことでもあるのだろうか。
「お通ししますね」
莉子は私たちのやり取りを気にする様子もなく、玄関へ戻っていった。
私はナプキンを膝に置き、ゆっくりと息を吸った。
久世さんに会ったら、まずは退院の報告をしよう。
仕事に戻る時期についても相談したい。
そして、できれば少しだけ、この家で起きていることから離れたい。
そう思ったとき、玄関の扉が開く音がした。
久世透。
私の担当編集者が、今、この家にやってきた。
その訪問が、私の日常をさらに大きく変えることになるとは、このときの私はまだ知らなかった。




