溶けてゆく日常
朝の光が、厚いカーテンの隙間から差し込んでいた。
細い光の筋の中で、埃がきらきらと舞っている。
私はベッドに横たわったまま、その様子をぼんやりと眺めていた。
頭が痛い。
まるで二日酔いのように、頭の芯がずきずきと痛んでいた。
口の中も乾いている。
昨夜、そんなに疲れていたのだろうか。それとも、久しぶりに自宅で過ごしたせいだろうか。
私はゆっくりと上半身を起こした。
昨夜の記憶が、途切れ途切れによみがえる。
莉子の声。
亮介の声。
隣の部屋から聞こえた、規則的な軋み。
そして、体が鉛のように重くなり、どうしても眠気に抗えなかったこと。
私は唇をかみしめた。
「……やっぱり、睡眠薬?」
声に出した瞬間、自分でもぞっとした。
そんなことを考えるなんて、どうかしている。
けれど、あの不自然な眠気と、今も残る頭痛を思い返すと、ただの疲労だと片づけることができなかった。
背中を冷たいものが這い上がってくる。
もし、本当にそうだったとしたら。
私は夫に眠らされたのだろうか。
何のために?
考えたくない。
けれど、考えずにはいられなかった。
ふらつく足でベッドを降り、ガウンを羽織る。
壁に手をつきながら部屋を出て、階段の手すりをつかんだ。
そのとき、階下から明るい笑い声が聞こえてきた。
「まあ、ほんとにおいしいわね!」
義母の淑子の声だった。
私は足を止めた。
「莉子ちゃん、お料理が上手なのねえ」
「ありがとうございます。お口に合ってよかったです」
莉子の弾んだ声が返ってくる。
続いて、亮介の笑い声。
そして、子供の楽しそうな声も聞こえた。
まるで、何事もなかったかのような朝だった。
私は手すりを握り直し、一段ずつ階段を下りた。
ダイニングルームをのぞいた瞬間、足が止まった。
テーブルを囲んでいたのは、亮介と莉子、あの男の子。
それに、義父の達郎と義母の淑子だった。
淑子は大きな口を開けてフレンチトーストを頬張っている。
皿の上には、焼き色のついたフレンチトーストに粉砂糖が振られ、色鮮やかな果物が添えられていた。
その隣では、莉子が慣れた手つきで子供の口元を拭いている。
「……おはようございます」
私が声をかけると、淑子がこちらを振り向いた。
「あっらー! 美月さん! まだそんな格好で、だらしないわね!」
その言葉に、私は思わず自分のガウンを見下ろした。
確かに、きちんと身支度を整えてはいない。
けれど、まだ病み上がりなのだ。
昨夜のこともあって、体調だって万全ではない。
「いいじゃないか。まだ病み上がりなんだし」
義父の達郎が、フレンチトーストを切り分けながらたしなめた。
「そうは言ってもねえ。朝はきちんと起きて、身なりを整えるものよ」
淑子はそう言って、再び皿に視線を落とした。
そして、満面の笑みで莉子を見た。
「それにしても、莉子ちゃんのお料理は華やかでいいわねえ! 美月さんの料理は茶色くて地味だったけど、莉子ちゃんのは見た目からして違うもの!」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
入院する前、私は毎日のように食事を作っていた。
栄養のバランスを考え、季節の野菜を取り入れ、亮介の好みに合わせて味付けを工夫した。
仕事で疲れて帰ってくる夫に、少しでもおいしいものを食べてもらいたかったからだ。
確かに、私の料理は華やかではなかったかもしれない。
見栄えよりも、栄養や食べやすさを優先していた。
毎日食べるものだからこそ、体に負担の少ない献立を考えていたのだ。
それを、茶色くて地味。
たった一言で片づけられてしまう。
「……そうですか」
私は、かろうじて笑顔を作った。
淑子は私の反応など気にも留めず、莉子に話しかけている。
「ねえ、莉子ちゃん。このジャムも手作りなの?」
「はい。昨日、少し時間があったので作ってみました」
「まあ、すごい! 気が利くのねえ。亮介、いい人に来てもらったじゃないの」
「そうだね。助かっているよ」
亮介は何のためらいもなく答えた。
莉子は照れたように笑い、亮介の皿にフレンチトーストを一切れ置いた。
「あなたも、もう一枚いかがですか?」
「ありがとう」
二人のやり取りは、あまりにも自然だった。
ハウスキーパーと雇い主。
そんな関係には、とても見えない。
それに、淑子は彼女を「莉子ちゃん」と呼んでいた。
昨日今日、雇われたばかりの女性に向ける親しさではない。
私はテーブルを見渡した。
誰もがくつろいでいた。
達郎は新聞を脇に置き、フレンチトーストを味わっている。
淑子は莉子の料理を褒め続け、亮介は子供の様子を気にかけていた。
その光景の中に、私の居場所はなかった。
まるで私が入院していた一年間、この家ではずっとこうした朝が繰り返されていたかのようだった。
私だけが、何も知らない。
「美月さん、どうしたの? ぼんやり立っていないで、座ったら?」
淑子に促され、私はようやくテーブルへ近づいた。
「ええ。私もいただこうかしら」
「かしこまりました、奥様」
莉子はすぐに立ち上がった。
フライパンを火にかけ、バターを落とす。
じゅわり、と小さな音がした。
甘く香ばしい匂いが、ダイニングルームいっぱいに広がっていく。
私は椅子に腰を下ろし、その様子を見つめた。
溶けていくバター。
焼き色がついていくパン。
莉子の手際のよさを、家族は当たり前のように受け入れている。
私がいなくても、何も困らなかったのだろう。
むしろ、私がいないほうが、この家はうまく回っていたのかもしれない。
そう思った途端、胸が苦しくなった。
私はこの家に帰ってきたかった。
病気を治して、もう一度、夫と暮らしたかった。
けれど、戻ってきた家で待っていたのは、私の知らない女性と子供、そして、すでに彼女を受け入れている家族だった。
昨夜の眠気も、頭痛も、すべて気のせいならいい。
けれど、もしそうでなかったら。
私は顔を上げ、フライパンの前に立つ莉子を見た。
彼女は私の視線に気づくと、にこりと微笑んだ。
その笑顔には、何の後ろめたさも感じられなかった。
バターが溶け、甘い香りが広がっていく。
まるで、それまでの私の日常まで、少しずつ溶かされていくようだった。




