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離婚して下さい カッコウの巣の中で 托卵家族  作者: 雫石しま


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3/6

甘いスープ

ぎこちない夕食が終わる頃には、私はすっかり疲れ果てていた。


テーブルには、莉子が用意した料理が並んでいた。


温め直されたスープに、柔らかく煮込まれた肉料理。


どれも丁寧に作られていて、味も悪くなかった。


けれど、食事の間、私はほとんど味を感じられなかった。


「美月さん、スープも召し上がってくださいね。体力をつけるには、温かいものがいいそうですよ」


莉子はそう言って、私の器に視線を落とした。


「ええ、ありがとう」


私はスプーンを口に運んだ。


ほんのり甘いような、いつもとは少し違う味がした。


けれど、何が違うのかはわからない。


病院食に慣れてしまったせいかもしれないし、久しぶりに自宅で食事をしたからかもしれなかった。


「どうしたんだ? 口に合わないのか?」


亮介に尋ねられ、私は首を横に振った。


「そんなことないわ。おいしいわよ」


「そうか。せっかく莉子さんが君のために作ってくれたんだから、ちゃんと食べたほうがいい」


夫に促され、私は残っていたスープを飲み干した。


そのとき、莉子と亮介の視線が一瞬だけ交わったように見えた。


けれど、二人はすぐに何事もなかったかのように会話を続けた。


気のせいだろう。


私はスプーンを置いた。


「坊ちゃんは夜中に一度、ミルクを欲しがることがあるんです」


莉子が説明すると、亮介はうなずいた。


「そうか。じゃあ、その時間は僕も起きるようにするよ」


「ありがとうございます、あなた」


私はスプーンを持つ手を止めた。


あなた?


今、莉子は亮介を何と呼んだのだろう。


けれど、彼女はすぐに何事もなかったかのように微笑み、子供用の食器を片づけ始めた。


亮介も特に反応しなかった。


私の聞き間違いだったのだろうか。


そう思おうとしたが、耳に残った呼び方が消えてくれない。


「美月、どうしたんだ?」


「……少し疲れただけよ」


「退院したばかりなんだから、無理をしないほうがいい。今日はもう休んだらどうだ?」


亮介に言われ、私はうなずいた。


立ち上がろうとした瞬間、頭の奥がふっと揺れた。


「あ……」


思わずテーブルに手をつく。


「大丈夫か?」


「ええ。ちょっと、立ちくらみがしただけ」


一年間の入院生活で、体力はすっかり落ちていた。


食事をしただけで疲れることもある。


今日だって、久しぶりに自宅へ戻り、慣れないことばかりで気を張っていたのだ。


不思議なことではない。


そう自分に言い聞かせた。


「お部屋まで付き添いましょうか?」


莉子が尋ねた。


「大丈夫よ。一人で歩けるから」


断ると、彼女は少しだけ残念そうな顔をした。


「そうですか。では、ゆっくりお休みくださいね」


その声を背に、私は寝室へ向かった。


*


ベッドに横になると、全身から力が抜けた。


疲れた。


もう何も考えたくない。


亮介のことも、莉子のことも、あの子のことも。


考えようとするたび、頭の中で疑問が増えていく。


なぜ、夫は私に相談もせず子供を迎える準備を進めていたのか。


なぜ、莉子はあんなにも自然にこの家を取り仕切っているのか。


そして、なぜ彼女は亮介を「あなた」と呼んだのか。


考えはまとまらず、迷路の中をさまようばかりだった。


私は目を閉じた。


少し眠れば、頭もすっきりするだろう。


そう思ったのに、まぶたを閉じると、意識がゆっくりと沈んでいくような感覚があった。


眠い。


それも、いつもの疲れとは少し違う気がした。


頭がぼんやりして、考えを一つにまとめることさえ難しい。


私は枕元に手を伸ばし、時計を確認しようとした。


けれど、数字に焦点が合わない。


「……疲れているだけよ」


小さくつぶやいた。


病気から回復したばかりなのだから、体が休息を求めているのだろう。


そう思うことにした。


そのとき、廊下からかすかな足音が聞こえた。


誰かが歩いている。


私は重いまぶたを持ち上げたが、体を起こす気力はなかった。


やがて、隣の部屋の扉が開く音がした。


亮介の寝室だ。


退院した今日、亮介は私に客間を使うよう勧めていた。


「まだ体力が戻っていないだろう。ゆっくり眠れる部屋のほうがいい」


そう説明された。


私はその言葉に従った。


けれど今になって、別の意味があったのではないかと考えてしまう。


「……もう、やめよう」


私は小さくつぶやいた。


これ以上、疑いたくなかった。


そのときだった。


「あなた」


隣の部屋から、女性の声が聞こえた。


私は息を止めた。


聞き覚えのある声だった。


桐島莉子。


「……莉子?」


思わず名前を口にしたが、声は喉の奥で消えた。


続いて、亮介の低い声が聞こえた。


「大丈夫だ。もう寝ているよ」


誰が?


私は目を見開いた。


私のことだろうか。


「でも、起きたらどうするんですか?」


莉子の声には、昼間のハウスキーパーらしい丁寧さがなかった。


どこか甘えるような、親しい響きがあった。


「心配しなくていい。あれだけ疲れていたんだ。朝まで起きないさ」


その言葉が、妙に引っかかった。


確かに私は疲れている。


けれど、夕食の後から急に強くなった眠気は、本当に疲労のせいなのだろうか。


私は、夕食のスープを思い出した。


ほんのり甘いような、いつもとは少し違う味。


莉子が、残さず飲むように勧めたこと。


そして、飲み終えたあと、二人の視線が交わったように見えたこと。


一つ一つは、何でもないことだ。


味付けが違っただけかもしれない。私の体調が悪かっただけかもしれない。


それでも、ばらばらだった記憶が、頭の中でつながりかけていた。


まさか。


そんなことをするはずがない。


亮介は私の夫なのだから。


私は目を閉じ、疑念を振り払おうとした。


その間にも、隣の部屋から低い話し声が続いていた。


やがて、ぎし、と小さな音が聞こえた。


一度。


そして、少し間を置いて、もう一度。


規則的な軋みが、静かな夜の中に響いた。


私は天井を見つめたまま、動けずにいた。


何の音だろう。


ベッドが軋んでいるのだろうか。


まさか。


そんなはずはない。


亮介は私の夫だ。


莉子は、ハウスキーパーだ。


二人が同じ部屋にいるのは、子供の世話について話しているからかもしれない。


そう考えようとした。


けれど、耳に届いた莉子の声が、私の希望を打ち砕いた。


「……好きよ、亮介さん」


「僕もだよ」


亮介が答えた。


その声は、私が知っている夫の声だった。


優しく、甘く、かつて私だけに向けられていると信じていた声。


私は理解してしまった。


なぜ莉子がこの家にいるのか。


なぜ夫が、私の退院を待つ間に子供部屋を整え、ハウスキーパーを雇い、何もかもを勝手に決めていたのか。


二人は、私に隠れて関係を続けていたのだ。


涙が出そうだった。


けれど、泣くことさえできなかった。


一年間、病気と闘ってきた。


もう一度、夫と笑い合える日が来ると信じていた。


そのために、つらい治療にも耐えた。


なのに、私が病室で一人、明日を迎えられるかどうかさえ不安に思っていた頃、夫は別の女性と何をしていたのだろう。


遠くで、子供の泣き声がした。


「あら、起きちゃった」


莉子の声がする。


「僕が見てくるよ」


亮介が答え、足音が遠ざかっていった。


私は必死に意識をつなぎ止めようとした。


子供が泣いている。


あの子が。


私が迎えることになるかもしれない、あの男の子が。


けれど、私は起き上がれなかった。


まぶたが重い。


頭が働かない。


眠ってはいけない。


なぜそう思ったのか、自分でもわからなかった。


ただ、このまま眠ってしまえば、何か大切なことを見逃してしまう気がした。


私は枕元に手を伸ばした。


水を飲もうと思った。


けれど、指先は空をさまよい、何もつかめなかった。


もし、あのスープに何かが入っていたとしたら。


そんな考えが頭をよぎった。


けれど、確かな証拠は何もない。


疑うには早すぎる。


そう思いたいのに、意識はますます遠のいていく。


やがて、寝室へ戻ってきた亮介の声が聞こえた。


「もう大丈夫だよ。眠ったみたいだ」


続いて、莉子の小さな笑い声。


「これで、邪魔されずに済みますね」


私は息をのんだ。


邪魔?


私が?


問いただしたかった。


今すぐ起き上がって、隣の部屋の扉を開け、二人の顔を見てやりたかった。


けれど、体は鉛のように重かった。


意識が遠ざかっていく。


最後に、私は胸の中でつぶやいた。


お願いだから、夢であって。


明日の朝、目が覚めたら、すべてが元どおりになっていますように。


そう願いながら、私は意識を手放した。

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