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離婚して下さい カッコウの巣の中で 托卵家族  作者: 雫石しま


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2/6

ハウスキーパー

五年前。


まだ私が健康だった頃、私たち夫婦は子供を望んでいた。


結婚して二年が過ぎても、なかなか授からなかった。


周囲から悪気のない言葉をかけられるたび、私は笑顔で受け流しながら、心のどこかで焦りを感じていた。


「一度、検査を受けてみようか」


そう提案したのは亮介だった。


私たちは二人そろって不妊治療を行うクリニックを訪れた。


検査の結果、私には特に問題が見つからなかった。


けれど、亮介には異常があった。


精子の運動率が低く、数も極端に少ない。


医師は、自然妊娠が難しい可能性があると説明した。


治療によって妊娠できる可能性は残されているものの、簡単な道のりではないという。


診察室を出た亮介は、いつになく無口だった。


「亮介……」


声をかけても、彼は「大丈夫だよ」と答えるだけだった。


私は何か言わなければと思った。


けれど、どんな言葉を選べばいいのかわからなかった。


その日の夜、私は検査結果の書類をチェストの引き出しにしまった。


亮介の自尊心を傷つけたくなかった。


子供ができない原因が彼にあったとしても、それで彼を責めるつもりなどなかった。


二人で治療に取り組めばいい。そう思っていた。


けれど、亮介はその後、不妊治療の話を自分からすることはなかった。


私もまた、彼が傷つくことを恐れて、検査結果について深く話し合えずにいた。


今思えば、あのとき、きちんと向き合っておくべきだったのかもしれない。


けれど、五年前の私は知らなかった。


夫がその結果を、どれほど深く心に刻みつけていたのかを。


そして、その記憶が、私たち夫婦の未来を大きく変えることになるとは。


*


「おかえりなさい、美月」


退院した翌日、私は久しぶりに自宅の玄関をくぐった。


一年ぶりの我が家。


玄関に漂う懐かしい匂いを吸い込み、私はほっと息をついた。


ようやく帰ってこられた。


これからは少しずつ体を慣らして、元の生活を取り戻していこう。


そう思いながらリビングへ向かった私は、足を止めた。


「……何、これ?」


見慣れない家具が目に飛び込んできた。


リビングの隣にある部屋には、白いベビーベッドが置かれていた。


隣には小さなチェスト。


棚には動物のぬいぐるみが整然と並び、床には柔らかな色合いのプレイマットまで敷かれている。


まるで、いつ赤ん坊がやってきてもいいように準備された部屋だった。


私はゆっくりとチェストに近づいた。


引き出しを開けると、水色のベビー服が丁寧に畳まれて入っていた。


肌着も靴下も、サイズごとにきちんと分けられている。


「亮介、これは何?」


背後から夫の声がした。


「何って、子供部屋だよ」


私は振り返った。


「子供部屋って……どういうこと?」


「見ればわかるだろう。あの子を迎える準備をしているんだ」


「でも、私、まだ返事をしていないわ」


「わかっているよ」


亮介は悪びれもせずに答えた。


「ただ、子供を迎えるなら準備が必要だろう? 何もない部屋に連れてくるわけにはいかないからね」


「だからって、どうして勝手に……」


言いかけたときだった。


リビングのほうから、女性の声が聞こえた。


「あなた、ミルクの時間です」


私は顔を上げた。


現れたのは、若い女性だった。


その腕には、病室で見せられた写真の男の子が抱かれていた。


クマの耳がついたベビーウェア。黒目がちな大きな瞳。ふっくらとした頬。


間違いない。


あの写真の子だ。


「……あなた、誰?」


思わず尋ねると、女性は柔らかな笑みを浮かべた。


「ハウスキーパーの桐島莉子です。奥様、よろしくお願いいたします」


ハウスキーパー?


私は亮介を見た。


「ハウスキーパーって、どういうこと?」


「君は退院したばかりだろう? まだ体力も戻っていないし、家事をするのも大変だと思ってね。莉子さんに来てもらうことにしたんだ」


「聞いていないわ」


「今、話しているじゃないか」


亮介は当然のことのように言った。


私は言葉を失った。


ハウスキーパーを雇うことも、子供を迎える準備をすることも、何一つ相談されていない。


しかも、この女性はいつから家に出入りしているのだろう。


私は改めて莉子を見た。


若く、健康そうな女性だった。


化粧は控えめだが、肌には張りがあり、長い髪もきれいに整えられている。


私とは違う。


一年間の闘病生活で、私はすっかり痩せてしまった。


頬はこけ、腕も細くなり、長い距離を歩くだけで疲れてしまう。


鏡を見るたび、以前の自分とは別人のようだと思うことがあった。


そんな私の目の前で、莉子は男の子を抱き直した。


「坊ちゃん、お腹が空きましたね」


その呼び方に、胸がざわついた。


坊ちゃん。


まるで、ずっと前からこの家の一員であるかのようだった。


「……その子を、どうしてあなたが抱いているの?」


私が尋ねると、莉子は亮介に視線を向けた。


亮介は何でもないことのように答えた。


「莉子さんには、子供の世話も手伝ってもらうんだ」


「子供の世話?」


「そうだよ。君一人では大変だろう? 僕は仕事があるし、君も療養中なんだから」


「それは……そうかもしれないけれど」


「だったら、いいじゃないか」


亮介は話を打ち切るように言った。


その態度に、私は違和感を覚えた。


まるで、私が反対することなど最初から想定していないかのようだった。


莉子は男の子を抱いたまま、私の隣に立った。


そして、にこやかに言った。


「奥様、どうぞ抱いてあげてください。この子も、これからお母様になる方に抱っこしていただけたら、きっと喜びますよ」


そう言って、彼女は男の子を私に差し出した。


「え……?」


反射的に両腕を伸ばした。


けれど、長い入院生活のせいで筋力が落ちている。


小さな子供を抱くことに慣れていない私は、どう腕を回せばいいのかさえ戸惑った。


莉子がそっと子供の体を支えてくれた。


男の子の体温が腕に伝わる。


思ったよりも重かった。


子供は私を見上げ、大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。


「……こんにちは」


私はぎこちなく声をかけた。


男の子は何も言わず、私の胸元に小さな手を伸ばした。


その仕草は愛らしかった。


この子は何も知らない。


大人たちが何を決め、何を隠しているのかも。


ただ、抱き上げられたから、目の前にいる人に手を伸ばしただけなのだ。


そう思うと、胸が痛んだ。


けれど同時に、私の中には説明のつかない恐怖が広がっていた。


この子を抱いている私の隣で、莉子が亮介に微笑みかけている。


その距離が、妙に近かった。


「あなた、ミルクはもう作ってあります」


「ああ、ありがとう」


亮介は、ごく自然に答えた。


二人のやり取りには、初対面のハウスキーパーと雇い主という以上の親しさが感じられた。


私は二人を交互に見た。


「……二人は、前から知り合いなの?」


問いかけた瞬間、莉子の笑顔がわずかに止まった。


ほんの一瞬だった。


けれど、亮介はすぐに口を開いた。


「ハウスキーパーを紹介してもらったんだ。それだけだよ」


「誰に?」


「知り合いだよ」


また、その答えだった。


私は子供を抱く腕に力を込めた。


「亮介、私に隠していることがあるんじゃないの?」


「何を言っているんだ。退院したばかりで疲れているんだろう。今日はもう休んだらどうだ?」


心配しているような口調だった。


けれど、私の質問には答えていない。


莉子はそっと私から男の子を受け取った。


「奥様、お疲れでしょうから、お部屋でお休みください。お食事も私が用意いたします」


その手際のよさに、私はますます戸惑った。


この家の間取りも、台所の場所も、どこに何があるのかも、彼女は知っているようだった。


まるで、ここで暮らしているかのように。


私はふと、子供部屋のチェストを振り返った。


水色のベビー服。


白いベビーベッド。


整然と並んだぬいぐるみ。


これらは、いつ用意されたのだろう。


私が病院で治療に耐えていた間に?


夫がほとんど見舞いに来なかった、その時間に?


「……亮介」


私は夫を見た。


「あなた、この子をいつから家に迎えるつもりだったの?」


亮介は一瞬だけ黙った。


「もう来ているじゃないか」


「そうじゃなくて、いつから準備していたのかって聞いているの」


「必要なものを揃えただけだよ。そんなに気にすることじゃない」


「私には大事なことよ!」


思わず声が大きくなった。


男の子が驚いて身をよじった。


莉子はすぐに子供をあやしながら、私を見た。


「奥様、坊ちゃんが驚いてしまいます」


その言葉に、私は口を閉ざした。


ここは私の家のはずだった。


七年間、亮介と一緒に暮らしてきた家。


それなのに、今の私は、まるで招かれざる客のように扱われている。


夫は何も説明してくれない。


若いハウスキーパーは当然のように家を取り仕切り、男の子を抱いている。


そして私は、退院したばかりの体で、何が起きているのかもわからず立ち尽くしていた。


腕の中に残った子供の温もりが、まだ消えない。


この子を幸せにしてあげたい。


そう思う気持ちがないわけではない。


けれど、私の知らないところで何かが進められている。


そのことが、何よりも恐ろしかった。


私は亮介を見つめた。


「……ねえ。どうして私に相談してくれなかったの?」


夫は困ったように笑った。


「美月、もう決まったことなんだ。これからは家族四人で暮らしていけばいい」


「家族四人……?」


私は息をのんだ。


私と亮介。


そして、この男の子。


ハウスキーパーの桐島莉子。


亮介は、何のためらいもなく彼女を家族の数に含めたのだろうか。


それとも、私が知らない何かがあるのだろうか。


莉子は子供を抱きながら、静かに微笑んでいた。


その表情を見た瞬間、私はふと、五年前の検査結果を思い出した。


亮介の精子は、数が極端に少なく、運動率も低かった。


あのとき、私は彼を傷つけまいとして、検査結果をチェストの奥にしまい込んだ。


夫は、あの事実を今も覚えているのだろうか。


もし覚えているのなら。


この子は、いったい誰の子なのだろう。


私は莉子の腕の中で笑う男の子を見つめた。


そして、胸の奥で膨らみ始めた疑念を、どうしても打ち消すことができなかった。

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