ハウスキーパー
五年前。
まだ私が健康だった頃、私たち夫婦は子供を望んでいた。
結婚して二年が過ぎても、なかなか授からなかった。
周囲から悪気のない言葉をかけられるたび、私は笑顔で受け流しながら、心のどこかで焦りを感じていた。
「一度、検査を受けてみようか」
そう提案したのは亮介だった。
私たちは二人そろって不妊治療を行うクリニックを訪れた。
検査の結果、私には特に問題が見つからなかった。
けれど、亮介には異常があった。
精子の運動率が低く、数も極端に少ない。
医師は、自然妊娠が難しい可能性があると説明した。
治療によって妊娠できる可能性は残されているものの、簡単な道のりではないという。
診察室を出た亮介は、いつになく無口だった。
「亮介……」
声をかけても、彼は「大丈夫だよ」と答えるだけだった。
私は何か言わなければと思った。
けれど、どんな言葉を選べばいいのかわからなかった。
その日の夜、私は検査結果の書類をチェストの引き出しにしまった。
亮介の自尊心を傷つけたくなかった。
子供ができない原因が彼にあったとしても、それで彼を責めるつもりなどなかった。
二人で治療に取り組めばいい。そう思っていた。
けれど、亮介はその後、不妊治療の話を自分からすることはなかった。
私もまた、彼が傷つくことを恐れて、検査結果について深く話し合えずにいた。
今思えば、あのとき、きちんと向き合っておくべきだったのかもしれない。
けれど、五年前の私は知らなかった。
夫がその結果を、どれほど深く心に刻みつけていたのかを。
そして、その記憶が、私たち夫婦の未来を大きく変えることになるとは。
*
「おかえりなさい、美月」
退院した翌日、私は久しぶりに自宅の玄関をくぐった。
一年ぶりの我が家。
玄関に漂う懐かしい匂いを吸い込み、私はほっと息をついた。
ようやく帰ってこられた。
これからは少しずつ体を慣らして、元の生活を取り戻していこう。
そう思いながらリビングへ向かった私は、足を止めた。
「……何、これ?」
見慣れない家具が目に飛び込んできた。
リビングの隣にある部屋には、白いベビーベッドが置かれていた。
隣には小さなチェスト。
棚には動物のぬいぐるみが整然と並び、床には柔らかな色合いのプレイマットまで敷かれている。
まるで、いつ赤ん坊がやってきてもいいように準備された部屋だった。
私はゆっくりとチェストに近づいた。
引き出しを開けると、水色のベビー服が丁寧に畳まれて入っていた。
肌着も靴下も、サイズごとにきちんと分けられている。
「亮介、これは何?」
背後から夫の声がした。
「何って、子供部屋だよ」
私は振り返った。
「子供部屋って……どういうこと?」
「見ればわかるだろう。あの子を迎える準備をしているんだ」
「でも、私、まだ返事をしていないわ」
「わかっているよ」
亮介は悪びれもせずに答えた。
「ただ、子供を迎えるなら準備が必要だろう? 何もない部屋に連れてくるわけにはいかないからね」
「だからって、どうして勝手に……」
言いかけたときだった。
リビングのほうから、女性の声が聞こえた。
「あなた、ミルクの時間です」
私は顔を上げた。
現れたのは、若い女性だった。
その腕には、病室で見せられた写真の男の子が抱かれていた。
クマの耳がついたベビーウェア。黒目がちな大きな瞳。ふっくらとした頬。
間違いない。
あの写真の子だ。
「……あなた、誰?」
思わず尋ねると、女性は柔らかな笑みを浮かべた。
「ハウスキーパーの桐島莉子です。奥様、よろしくお願いいたします」
ハウスキーパー?
私は亮介を見た。
「ハウスキーパーって、どういうこと?」
「君は退院したばかりだろう? まだ体力も戻っていないし、家事をするのも大変だと思ってね。莉子さんに来てもらうことにしたんだ」
「聞いていないわ」
「今、話しているじゃないか」
亮介は当然のことのように言った。
私は言葉を失った。
ハウスキーパーを雇うことも、子供を迎える準備をすることも、何一つ相談されていない。
しかも、この女性はいつから家に出入りしているのだろう。
私は改めて莉子を見た。
若く、健康そうな女性だった。
化粧は控えめだが、肌には張りがあり、長い髪もきれいに整えられている。
私とは違う。
一年間の闘病生活で、私はすっかり痩せてしまった。
頬はこけ、腕も細くなり、長い距離を歩くだけで疲れてしまう。
鏡を見るたび、以前の自分とは別人のようだと思うことがあった。
そんな私の目の前で、莉子は男の子を抱き直した。
「坊ちゃん、お腹が空きましたね」
その呼び方に、胸がざわついた。
坊ちゃん。
まるで、ずっと前からこの家の一員であるかのようだった。
「……その子を、どうしてあなたが抱いているの?」
私が尋ねると、莉子は亮介に視線を向けた。
亮介は何でもないことのように答えた。
「莉子さんには、子供の世話も手伝ってもらうんだ」
「子供の世話?」
「そうだよ。君一人では大変だろう? 僕は仕事があるし、君も療養中なんだから」
「それは……そうかもしれないけれど」
「だったら、いいじゃないか」
亮介は話を打ち切るように言った。
その態度に、私は違和感を覚えた。
まるで、私が反対することなど最初から想定していないかのようだった。
莉子は男の子を抱いたまま、私の隣に立った。
そして、にこやかに言った。
「奥様、どうぞ抱いてあげてください。この子も、これからお母様になる方に抱っこしていただけたら、きっと喜びますよ」
そう言って、彼女は男の子を私に差し出した。
「え……?」
反射的に両腕を伸ばした。
けれど、長い入院生活のせいで筋力が落ちている。
小さな子供を抱くことに慣れていない私は、どう腕を回せばいいのかさえ戸惑った。
莉子がそっと子供の体を支えてくれた。
男の子の体温が腕に伝わる。
思ったよりも重かった。
子供は私を見上げ、大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「……こんにちは」
私はぎこちなく声をかけた。
男の子は何も言わず、私の胸元に小さな手を伸ばした。
その仕草は愛らしかった。
この子は何も知らない。
大人たちが何を決め、何を隠しているのかも。
ただ、抱き上げられたから、目の前にいる人に手を伸ばしただけなのだ。
そう思うと、胸が痛んだ。
けれど同時に、私の中には説明のつかない恐怖が広がっていた。
この子を抱いている私の隣で、莉子が亮介に微笑みかけている。
その距離が、妙に近かった。
「あなた、ミルクはもう作ってあります」
「ああ、ありがとう」
亮介は、ごく自然に答えた。
二人のやり取りには、初対面のハウスキーパーと雇い主という以上の親しさが感じられた。
私は二人を交互に見た。
「……二人は、前から知り合いなの?」
問いかけた瞬間、莉子の笑顔がわずかに止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、亮介はすぐに口を開いた。
「ハウスキーパーを紹介してもらったんだ。それだけだよ」
「誰に?」
「知り合いだよ」
また、その答えだった。
私は子供を抱く腕に力を込めた。
「亮介、私に隠していることがあるんじゃないの?」
「何を言っているんだ。退院したばかりで疲れているんだろう。今日はもう休んだらどうだ?」
心配しているような口調だった。
けれど、私の質問には答えていない。
莉子はそっと私から男の子を受け取った。
「奥様、お疲れでしょうから、お部屋でお休みください。お食事も私が用意いたします」
その手際のよさに、私はますます戸惑った。
この家の間取りも、台所の場所も、どこに何があるのかも、彼女は知っているようだった。
まるで、ここで暮らしているかのように。
私はふと、子供部屋のチェストを振り返った。
水色のベビー服。
白いベビーベッド。
整然と並んだぬいぐるみ。
これらは、いつ用意されたのだろう。
私が病院で治療に耐えていた間に?
夫がほとんど見舞いに来なかった、その時間に?
「……亮介」
私は夫を見た。
「あなた、この子をいつから家に迎えるつもりだったの?」
亮介は一瞬だけ黙った。
「もう来ているじゃないか」
「そうじゃなくて、いつから準備していたのかって聞いているの」
「必要なものを揃えただけだよ。そんなに気にすることじゃない」
「私には大事なことよ!」
思わず声が大きくなった。
男の子が驚いて身をよじった。
莉子はすぐに子供をあやしながら、私を見た。
「奥様、坊ちゃんが驚いてしまいます」
その言葉に、私は口を閉ざした。
ここは私の家のはずだった。
七年間、亮介と一緒に暮らしてきた家。
それなのに、今の私は、まるで招かれざる客のように扱われている。
夫は何も説明してくれない。
若いハウスキーパーは当然のように家を取り仕切り、男の子を抱いている。
そして私は、退院したばかりの体で、何が起きているのかもわからず立ち尽くしていた。
腕の中に残った子供の温もりが、まだ消えない。
この子を幸せにしてあげたい。
そう思う気持ちがないわけではない。
けれど、私の知らないところで何かが進められている。
そのことが、何よりも恐ろしかった。
私は亮介を見つめた。
「……ねえ。どうして私に相談してくれなかったの?」
夫は困ったように笑った。
「美月、もう決まったことなんだ。これからは家族四人で暮らしていけばいい」
「家族四人……?」
私は息をのんだ。
私と亮介。
そして、この男の子。
ハウスキーパーの桐島莉子。
亮介は、何のためらいもなく彼女を家族の数に含めたのだろうか。
それとも、私が知らない何かがあるのだろうか。
莉子は子供を抱きながら、静かに微笑んでいた。
その表情を見た瞬間、私はふと、五年前の検査結果を思い出した。
亮介の精子は、数が極端に少なく、運動率も低かった。
あのとき、私は彼を傷つけまいとして、検査結果をチェストの奥にしまい込んだ。
夫は、あの事実を今も覚えているのだろうか。
もし覚えているのなら。
この子は、いったい誰の子なのだろう。
私は莉子の腕の中で笑う男の子を見つめた。
そして、胸の奥で膨らみ始めた疑念を、どうしても打ち消すことができなかった。




