君が死んだ後も
「君が死んだあとも、僕たちの家族は続いていくんだ」
白石美月、私は今、病室のベッドの上で夫の顔を愕然と見つめていた。
「亮介、あなた、自分が何を言っているのかわかってるの?」
けれど、目の前に座る夫は、私の動揺など気にも留めていないようだった。
「もちろん、わかっているよ」
亮介は穏やかな口調で答え、テーブルの上に置かれた写真を指先で叩いた。
「この子を養子に迎えようと言っているんだ」
写真には、可愛らしいクマの耳がついたベビーウェアを着た男の子が写っていた。
一歳くらいだろうか。黒目がちな大きな瞳に、白桃のようなふっくらとした頬。ベビーラックにつかまり立ちをする姿は、いかにも元気いっぱいだった。
誰が見ても愛らしい子供だろう。
それなのに、私にはその写真が、何か恐ろしいもののように見えた。
「……どうして、急にそんな話になるの?」
「急じゃないよ。ずっと考えていたことなんだ」
「ずっとって……私、何も聞いていないわ」
「だから、今日、話しに来たんじゃないか」
亮介は微笑んだ。
その笑顔は、かつて私が好きだったものだ。
結婚したばかりの頃、私の作った料理をおいしいと笑ってくれたときも、休日の予定を二人で立てていたときも、彼はこんな顔をしていた。
けれど今、その笑顔はひどく遠いものに感じられた。
私は一年間、病院のベッドの上で過ごしてきた。
難病だと告げられたとき、医師からは厳しい説明を受けた。治療には長い時間がかかり、必ずしも元の生活に戻れるとは限らないという。
「私、治るよね?」
不安に耐えきれず尋ねた私の手を、亮介は握ってくれた。
「大丈夫だよ。僕がついているから。一緒に乗り越えよう」
その言葉を信じて、私は治療に耐えてきた。
けれど、入院生活が始まると、夫の見舞いは次第に減っていった。
最初の頃こそ仕事帰りに顔を見せてくれたが、やがて「仕事が忙しい」「取引先との付き合いがある」といった理由で、病室に来ることはほとんどなくなった。
一年の入院中、見舞いに来たのは数えるほどしかない。
寂しくなかったと言えば嘘になる。それでも、毎月の入院費を払い、必要なものを用意してくれる夫に感謝しなければと思っていた。
そして、ようやく病状が落ち着き、自宅療養に移れることになった。
明日からは家に帰れる。
自分のベッドで眠り、好きなときにお茶を淹れ、窓を開けて外の空気を吸う。
体調が戻れば、夫と近くの公園を散歩することだってできる。
そんな当たり前の生活を、私は心待ちにしていた。
亮介も喜んでくれると思っていたのに。
「美月、君もそろそろ母親になってみないか」
夫の言葉が、頭の中で繰り返された。
「……私が、母親?」
「ああ。この子を迎えれば、僕たちは本当の家族になれるんだ」
その言葉に、背筋が冷たくなった。
私たち夫婦には、子供がいなかった。
結婚して七年。
いつか子供が欲しいと話したことはあるものの、具体的な計画を立てる前に私が病気になった。
今も治療が終わったわけではない。
これからも通院が必要で、体力だって十分に戻っていない。
「私、まだ病気が治ったわけじゃないのよ。子供を育てるなんて、今すぐには……」
「だからこそ、いいんじゃないか」
亮介は私の言葉を遮った。
「君はこれから家にいる時間が長くなるだろう? 仕事に復帰するのだって、すぐには難しい。だったら、子供を育てることに時間を使えばいい」
私は耳を疑った。
「……私の療養生活を、子育てに使えっていうの?」
「そういう言い方をしなくてもいいだろう」
亮介は少し眉をひそめた。
「僕は君のためを思って言っているんだ。家に一人でいたら気が滅入ることもあるだろう? 子供がいれば毎日が楽しくなる。生きがいだってできるじゃないか」
生きがい。
私は生きがいが欲しくて、病気と闘ってきたのだろうか。
違う。
私はもう一度、自分の人生を生きたかった。
ただ、それだけのことを望んでいた。
「……どうして、この子なの?」
私は写真を持ち上げた。
「養子を迎えるなら、時間をかけて考えることもできるでしょう? それなのに、どうしてこの子の写真を持ってきたの?」
「知り合いから紹介されたんだ。事情があって、子供を育てられなくなった人がいるらしい」
「事情って?」
「詳しいことは、これから話を聞けばいい。ただ、早いほうがいいんだ。この子にも新しい家族が必要だし、僕たちにも家族が必要だろう?」
僕たちにも家族が必要。
その言葉が胸に突き刺さった。
私たちは七年間、夫婦として暮らしてきた。
病気になってからも、夫婦であることだけは変わらないと信じていた。
なのに、亮介はまるで、今までの私たちには家族と呼べるものがなかったかのように言う。
「亮介……あなた、本当に私と一緒にこの子を育てたいの?」
「ああ。二人で大切に育てていこう」
彼は私の手を握ろうとした。
私は思わず手を引いた。
夫の指先が空を切る。
「どうしたんだ、美月?」
「……あなた、私が退院したら、何をするつもりだったの?」
「何って?」
「二人でゆっくり過ごそうって話していたでしょう? 私の体調が落ち着いたら、近くの公園を散歩して、少しずつ外出にも慣れていこうって」
「そうだったね」
「覚えているの?」
「もちろん。でも、人生は予定どおりにはいかないものだろう?」
私は言葉を失った。
彼は覚えているのだ。
私がどんな思いで退院を待っていたのかも、これからどんな生活を取り戻したいと願っていたのかも。
それなのに、私には何の相談もなく、子供を迎える話を進めようとしている。
「……いつから考えていたの?」
「何を?」
「養子のことよ」
亮介は、ほんの一瞬だけ視線をそらした。
「ここ数か月かな」
「数か月……?」
私がまだ退院できるかどうかもわからず、治療に耐えていた頃だ。
夫はその間、何を考えていたのだろう。
「美月、そんな顔をしないでくれよ。僕だって、いろいろ考えたんだ。君が病気になってから、僕たちの生活は変わってしまった。夫婦二人でいるだけでは、これから先、寂しいこともあると思うんだ」
「……私が病気になったから?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味?」
亮介は口をつぐんだ。
私は膝の上の写真を見下ろした。
この子には何の罪もない。
もし本当に新しい家族を必要としているのなら、幸せになってほしいと思う。
けれど、私自身の気持ちはどうなるのだろう。
体を回復させることさえ、これから始めなければならない。
そんな私に、何の相談もなく子供を迎えようとする夫。
それは本当に、私を思いやってのことなのだろうか。
「……この子を迎えることについて、あなたはもう決めているの?」
「いや、君の意見も聞きたいと思っているよ」
「本当に? じゃあ、私が嫌だと言ったら?」
亮介の顔から笑みが消えた。
「……どうして嫌なんだ?」
「そういう問題じゃないわ」
「じゃあ、何が問題なんだ?」
彼の声に、かすかな苛立ちが混じった。
子供を育てるための費用はどうするのか。
私が体調を崩したら誰が面倒を見るのか。
そもそも、私はこの子を迎えることを望んでいるのか。
何一つ話し合っていないのに、夫の中ではすでに答えが決まっているようだった。
「……少し、考えさせて」
「考えるって、何を?」
「大事なことだからよ。すぐには返事できないわ」
「でも、そんなに時間はかけられないんだ」
「どうして?」
亮介は口を閉ざした。
その反応が、私の不安を大きくした。
「亮介。お願いだから、ちゃんと説明して。この子のことも、紹介してくれた人のことも。どうして急いでいるのかも、全部聞かせてほしいの」
夫はしばらく黙っていた。
やがて諦めたように息を吐くと、上着の内ポケットからスマートフォンを取り出した。
「……わかった。これを見てくれ」
画面には、見知らぬ女性とのメッセージのやり取りが表示されていた。
『あの子のこと、よろしくお願いします』
女性からのメッセージ。
その下に、亮介の返信があった。
『心配しないで。美月もきっと喜んでくれる。これで、僕たちの願いが叶うよ』
息が止まった。
僕たち。
私の知らないところで、夫とこの女性は何を話していたのだろう。
「……この人、誰?」
亮介はすぐには答えなかった。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
やがて彼は、私の目を見ずに言った。
「この子の母親だよ」
「……母親?」
「そう。事情があって、今は一緒に暮らせないんだ」
「あなたの知り合いなの?」
「……ああ」
「どういう関係?」
亮介は答えなかった。
私はスマートフォンの画面を見つめた。
一年間、私は夫を信じていた。
見舞いが少なくても、仕事が忙しいのだと思っていた。
けれど、今、目の前にいる夫は、私の知らない顔をしている。
この養子縁組の話は、単に子供を迎えるというだけの話ではない。
夫には、私に隠している何かがある。
写真の中で無邪気に笑う男の子を見つめながら、私は震える声で尋ねた。
「亮介……その子は誰の子なの?」
夫の顔から、血の気が引いた。




