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離婚して下さい カッコウの巣の中で 托卵家族  作者: 雫石しま


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1/6

君が死んだ後も

「君が死んだあとも、僕たちの家族は続いていくんだ」


白石美月、私は今、病室のベッドの上で夫の顔を愕然と見つめていた。


「亮介、あなた、自分が何を言っているのかわかってるの?」


けれど、目の前に座る夫は、私の動揺など気にも留めていないようだった。


「もちろん、わかっているよ」


亮介は穏やかな口調で答え、テーブルの上に置かれた写真を指先で叩いた。


「この子を養子に迎えようと言っているんだ」


写真には、可愛らしいクマの耳がついたベビーウェアを着た男の子が写っていた。


一歳くらいだろうか。黒目がちな大きな瞳に、白桃のようなふっくらとした頬。ベビーラックにつかまり立ちをする姿は、いかにも元気いっぱいだった。


誰が見ても愛らしい子供だろう。


それなのに、私にはその写真が、何か恐ろしいもののように見えた。


「……どうして、急にそんな話になるの?」


「急じゃないよ。ずっと考えていたことなんだ」


「ずっとって……私、何も聞いていないわ」


「だから、今日、話しに来たんじゃないか」


亮介は微笑んだ。


その笑顔は、かつて私が好きだったものだ。


結婚したばかりの頃、私の作った料理をおいしいと笑ってくれたときも、休日の予定を二人で立てていたときも、彼はこんな顔をしていた。


けれど今、その笑顔はひどく遠いものに感じられた。


私は一年間、病院のベッドの上で過ごしてきた。


難病だと告げられたとき、医師からは厳しい説明を受けた。治療には長い時間がかかり、必ずしも元の生活に戻れるとは限らないという。


「私、治るよね?」


不安に耐えきれず尋ねた私の手を、亮介は握ってくれた。


「大丈夫だよ。僕がついているから。一緒に乗り越えよう」


その言葉を信じて、私は治療に耐えてきた。


けれど、入院生活が始まると、夫の見舞いは次第に減っていった。


最初の頃こそ仕事帰りに顔を見せてくれたが、やがて「仕事が忙しい」「取引先との付き合いがある」といった理由で、病室に来ることはほとんどなくなった。


一年の入院中、見舞いに来たのは数えるほどしかない。


寂しくなかったと言えば嘘になる。それでも、毎月の入院費を払い、必要なものを用意してくれる夫に感謝しなければと思っていた。


そして、ようやく病状が落ち着き、自宅療養に移れることになった。


明日からは家に帰れる。


自分のベッドで眠り、好きなときにお茶を淹れ、窓を開けて外の空気を吸う。


体調が戻れば、夫と近くの公園を散歩することだってできる。


そんな当たり前の生活を、私は心待ちにしていた。


亮介も喜んでくれると思っていたのに。


「美月、君もそろそろ母親になってみないか」


夫の言葉が、頭の中で繰り返された。


「……私が、母親?」


「ああ。この子を迎えれば、僕たちは本当の家族になれるんだ」


その言葉に、背筋が冷たくなった。


私たち夫婦には、子供がいなかった。


結婚して七年。


いつか子供が欲しいと話したことはあるものの、具体的な計画を立てる前に私が病気になった。


今も治療が終わったわけではない。


これからも通院が必要で、体力だって十分に戻っていない。


「私、まだ病気が治ったわけじゃないのよ。子供を育てるなんて、今すぐには……」


「だからこそ、いいんじゃないか」


亮介は私の言葉を遮った。


「君はこれから家にいる時間が長くなるだろう? 仕事に復帰するのだって、すぐには難しい。だったら、子供を育てることに時間を使えばいい」


私は耳を疑った。


「……私の療養生活を、子育てに使えっていうの?」


「そういう言い方をしなくてもいいだろう」


亮介は少し眉をひそめた。


「僕は君のためを思って言っているんだ。家に一人でいたら気が滅入ることもあるだろう? 子供がいれば毎日が楽しくなる。生きがいだってできるじゃないか」


生きがい。


私は生きがいが欲しくて、病気と闘ってきたのだろうか。


違う。


私はもう一度、自分の人生を生きたかった。


ただ、それだけのことを望んでいた。


「……どうして、この子なの?」


私は写真を持ち上げた。


「養子を迎えるなら、時間をかけて考えることもできるでしょう? それなのに、どうしてこの子の写真を持ってきたの?」


「知り合いから紹介されたんだ。事情があって、子供を育てられなくなった人がいるらしい」


「事情って?」


「詳しいことは、これから話を聞けばいい。ただ、早いほうがいいんだ。この子にも新しい家族が必要だし、僕たちにも家族が必要だろう?」


僕たちにも家族が必要。


その言葉が胸に突き刺さった。


私たちは七年間、夫婦として暮らしてきた。


病気になってからも、夫婦であることだけは変わらないと信じていた。


なのに、亮介はまるで、今までの私たちには家族と呼べるものがなかったかのように言う。


「亮介……あなた、本当に私と一緒にこの子を育てたいの?」


「ああ。二人で大切に育てていこう」


彼は私の手を握ろうとした。


私は思わず手を引いた。


夫の指先が空を切る。


「どうしたんだ、美月?」


「……あなた、私が退院したら、何をするつもりだったの?」


「何って?」


「二人でゆっくり過ごそうって話していたでしょう? 私の体調が落ち着いたら、近くの公園を散歩して、少しずつ外出にも慣れていこうって」


「そうだったね」


「覚えているの?」


「もちろん。でも、人生は予定どおりにはいかないものだろう?」


私は言葉を失った。


彼は覚えているのだ。


私がどんな思いで退院を待っていたのかも、これからどんな生活を取り戻したいと願っていたのかも。


それなのに、私には何の相談もなく、子供を迎える話を進めようとしている。


「……いつから考えていたの?」


「何を?」


「養子のことよ」


亮介は、ほんの一瞬だけ視線をそらした。


「ここ数か月かな」


「数か月……?」


私がまだ退院できるかどうかもわからず、治療に耐えていた頃だ。


夫はその間、何を考えていたのだろう。


「美月、そんな顔をしないでくれよ。僕だって、いろいろ考えたんだ。君が病気になってから、僕たちの生活は変わってしまった。夫婦二人でいるだけでは、これから先、寂しいこともあると思うんだ」


「……私が病気になったから?」


「そういう意味じゃない」


「じゃあ、どういう意味?」


亮介は口をつぐんだ。


私は膝の上の写真を見下ろした。


この子には何の罪もない。


もし本当に新しい家族を必要としているのなら、幸せになってほしいと思う。


けれど、私自身の気持ちはどうなるのだろう。


体を回復させることさえ、これから始めなければならない。


そんな私に、何の相談もなく子供を迎えようとする夫。


それは本当に、私を思いやってのことなのだろうか。


「……この子を迎えることについて、あなたはもう決めているの?」


「いや、君の意見も聞きたいと思っているよ」


「本当に? じゃあ、私が嫌だと言ったら?」


亮介の顔から笑みが消えた。


「……どうして嫌なんだ?」


「そういう問題じゃないわ」


「じゃあ、何が問題なんだ?」


彼の声に、かすかな苛立ちが混じった。


子供を育てるための費用はどうするのか。


私が体調を崩したら誰が面倒を見るのか。


そもそも、私はこの子を迎えることを望んでいるのか。


何一つ話し合っていないのに、夫の中ではすでに答えが決まっているようだった。


「……少し、考えさせて」


「考えるって、何を?」


「大事なことだからよ。すぐには返事できないわ」


「でも、そんなに時間はかけられないんだ」


「どうして?」


亮介は口を閉ざした。


その反応が、私の不安を大きくした。


「亮介。お願いだから、ちゃんと説明して。この子のことも、紹介してくれた人のことも。どうして急いでいるのかも、全部聞かせてほしいの」


夫はしばらく黙っていた。


やがて諦めたように息を吐くと、上着の内ポケットからスマートフォンを取り出した。


「……わかった。これを見てくれ」


画面には、見知らぬ女性とのメッセージのやり取りが表示されていた。


『あの子のこと、よろしくお願いします』


女性からのメッセージ。


その下に、亮介の返信があった。


『心配しないで。美月もきっと喜んでくれる。これで、僕たちの願いが叶うよ』


息が止まった。


僕たち。


私の知らないところで、夫とこの女性は何を話していたのだろう。


「……この人、誰?」


亮介はすぐには答えなかった。


その沈黙が、何よりも雄弁だった。


やがて彼は、私の目を見ずに言った。


「この子の母親だよ」


「……母親?」


「そう。事情があって、今は一緒に暮らせないんだ」


「あなたの知り合いなの?」


「……ああ」


「どういう関係?」


亮介は答えなかった。


私はスマートフォンの画面を見つめた。


一年間、私は夫を信じていた。


見舞いが少なくても、仕事が忙しいのだと思っていた。


けれど、今、目の前にいる夫は、私の知らない顔をしている。


この養子縁組の話は、単に子供を迎えるというだけの話ではない。


夫には、私に隠している何かがある。


写真の中で無邪気に笑う男の子を見つめながら、私は震える声で尋ねた。


「亮介……その子は誰の子なの?」


夫の顔から、血の気が引いた。

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