白い薔薇の花束
玄関に立っていた久世透さんは、両手で抱えるほどの白い薔薇の花束を持って微笑んでいた。
「先生、退院おめでとうございます」
「久世さん!」
思わず声が弾んだ。
真っ白な薔薇は、私が一番好きな花だった。
以前、連載百回記念のお祝いにいただいたことがある。
そのとき何気なく「白い薔薇が好きなんです」と話したのを、覚えていてくれたのだろう。
「お久しぶりです。入院中はご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」
「何をおっしゃるんですか。先生のお身体のほうが大切ですよ。それより、調子はいかがですか?」
「おかげさまで、少しずつ元気になっています」
そう答えながら、私は久しぶりに心から笑った気がした。
「立ち話もなんですから、どうぞお上がりください」
横から莉子が口を挟んだ。
いつの間にか来客用のスリッパを揃え、久世さんの靴を置く場所まで空けている。
「ありがとうございます」
久世さんが丁寧に頭を下げた。
悔しいけれど、確かによく気がつく。
莉子は、ハウスキーパーとしては申し分のない女性だった。
ただし、雇い主の夫を「あなた」と呼ばなければ、の話だけれど。
私たちはリビングへ移動し、向かい合ってソファに腰を下ろした。
久世さんは花束をテーブルに置き、私の顔をじっと見つめた。
「少しお痩せになりましたね」
「病院食ばかりでしたから」
「でも、顔色は思っていたよりいい。安心しました」
その言葉が嬉しかった。
入院していた一年間、久世さんは何度も連絡をくれた。
仕事の話は必要最低限にとどめ、季節の便りや読者から届いた手紙を転送してくれたこともあった。
私が漫画家であることを忘れずにいられたのは、彼のおかげでもあった。
「お待たせいたしました」
莉子が銀色のトレーを持って現れた。
白いティーポットと、花柄のティーカップが二客。
小皿には焼き菓子まで添えられている。
「ダージリンでございます。お砂糖とミルクはこちらに」
「ありがとうございます」
久世さんが礼を言った。
私はティーカップに手を伸ばしかけて、ふと指を止めた。
昨夜のスープ。
あの異様な眠気。
そして、今朝まで続いていた頭痛。
もし、あれが本当に睡眠薬のせいだったとしたら。
私は紅茶の表面を見つめた。
琥珀色の液体から、細い湯気が立ち上っている。
いや、まさか。
今は久世さんがいる。
第三者の目があるところで、そんな危険なことをするはずがない。
そもそも、昨夜のことだって、私の思い過ごしかもしれないのだ。
「先生?」
「えっ?」
「どうかなさいました?」
「いえ、何でもありません」
私は慌ててカップを持ち上げた。
紅茶の香りが鼻をくすぐる。
一口飲むと、いつもと変わらない味がした。
「それで先生、今日は嬉しいご報告があるんです」
久世さんが鞄から書類を取り出した。
「実は、新しいアニメの放送が正式に決まりました」
「……え?」
一瞬、言葉が出なかった。
「制作委員会から正式な発表日も届いています。放送枠も決まりました。先生の復帰に合わせて、今後の展開も相談したいと」
「本当に?」
「はい。正式決定です」
「嬉しい!」
思わず両手を胸の前で合わせた。
「ありがとう、久世さん! 本当にありがとう!」
「お礼を言うのはこちらですよ。先生の作品が評価された結果ですから」
久世さんは穏やかに笑った。
「入院中も作品を待ってくださる読者の方が大勢いました。先生が戻ってこられたことを知ったら、皆さん喜びますよ」
胸が熱くなった。
私はまだ、必要とされている。
この家では居場所を失いかけているけれど、私の物語を待ってくれている人たちがいる。
それだけで、もう一度頑張ろうと思えた。
「それで、今後のスケジュールなんですが――」
久世さんが資料を広げた、そのときだった。
「おや、久世さんじゃありませんか」
亮介がリビングに入ってきた。
腕には、あの男の子を抱いている。
「亮介さん。お久しぶりです」
久世さんが立ち上がった。
「いつも妻がお世話になっております」
「こちらこそ。先生には長年お世話になっています」
二人は軽く会釈を交わした。
久世さんの視線が、亮介の腕の中に向けられた。
「ところで、そのお子さんは?」
「ああ、慶太というんです」
亮介は慣れた手つきで男の子を抱き直した。
「うちで養子に迎えたんですよ」
「……養子?」
久世さんが小さく聞き返した。
その表情が、ほんの一瞬だけ変わった。
驚いたというより、何かを確かめるような目だった。
「ええ。美月も子供が欲しいと言っていましたからね」
私は夫を見た。
確かに、子供が欲しいと思ったことはある。
けれど、養子を迎えると決めた覚えはない。
それも、私が入院している間に。
「そうでしたか」
久世さんはすぐに笑顔を取り戻した。
「おいくつですか?」
「一歳になったばかりです」
「可愛いですね。お名前は慶太くんですか」
「ほら、慶太。こんにちはは?」
亮介が男の子の小さな手を持ち上げた。
慶太はきゃっきゃっと笑い、亮介の頬に手を伸ばした。
その仕草を見て、久世さんが目を細めた。
「ずいぶん懐いていますね」
「ええ、まあ。子供は好きなんですよ」
亮介は少し得意そうに答えた。
けれど、私は知っている。
夫はこれまで、親戚の子供を抱くことさえ嫌がっていた。
泣かれると困る。
どう接していいかわからない。
そんなことを言って、いつも私に任せていたのだ。
それなのに、慶太を抱く姿は驚くほど自然だった。
一朝一夕で身につくものなのだろうか。
「あなた、慶太くんのミルクができましたよ」
ダイニングルームから莉子の声がした。
「わかった。今行くよ」
亮介は当然のように返事をした。
そして、慶太を抱いたまま踵を返した。
私は、その背中を見送った。
久世さんもまた、亮介の後ろ姿を目で追っていた。
やがて、足音が遠ざかる。
リビングに静けさが戻った。
「……先生」
久世さんが、声を落とした。
「はい?」
彼はダイニングルームのほうを一度確かめてから、私に顔を寄せた。
「少し、失礼なことを伺ってもよろしいでしょうか」
「何ですか?」
「今の女性は、どなたですか?」
「ハウスキーパーの桐島莉子さんです。私が退院するのに合わせて、主人が雇ったそうなんです」
「ハウスキーパー……」
久世さんはその言葉を繰り返した。
「そうですか」
何かを考え込むように、眉間に薄い皺を寄せている。
「どうかしました?」
「いえ。ただ、先ほどの呼び方が気になりまして」
「呼び方?」
「ええ。あの女性、亮介さんを『あなた』と呼びましたよね」
心臓がどきりと跳ねた。
「……聞こえました?」
「はい。ごく自然に」
久世さんは言葉を選ぶように続けた。
「もちろん、家庭によって呼び方は違います。ですが、雇われたばかりのハウスキーパーが、家の主人をああ呼ぶのは珍しいと思いまして」
「私も……そう思っていたんです」
思わず本音がこぼれた。
久世さんは私の顔を見た。
「先生、何かあったんですか?」
「それは……」
どこから話せばいいのかわからなかった。
夫が勝手に養子を迎えたこと。
知らない女性が家に住んでいること。
義両親がその女性を親しげに呼んでいること。
そして、昨夜のこと。
一つひとつを口にすれば、自分の家庭がどれほど異常な状態になっているのか、認めなければならなくなる。
私は膝の上で手を握りしめた。
「久世さん。実は、私も慶太くんに会ったのは、退院した日が初めてなんです」
「……え?」
久世さんの表情が変わった。
「養子縁組について、事前に相談はなかったんですか?」
「はい。主人が全部決めてしまって」
「先生の同意もなく?」
「ええ」
久世さんはしばらく黙っていた。
それから、低い声で言った。
「それは、おかしいですね」
「やっぱり、そう思いますか?」
「少なくとも、夫婦で子供を迎えるなら、お二人で話し合うのが普通でしょう。それに、正式な養子縁組なら、先生が何も知らないまま手続きが済んでいるというのも不自然です」
私は息を呑んだ。
そうだ。
養子縁組。
亮介は簡単にそう言ったけれど、私は一度も書類に署名していない。
戸籍がどうなっているのかさえ、知らない。
「……じゃあ、あの子は?」
口にした途端、背筋が寒くなった。
久世さんはすぐには答えなかった。
代わりに、テーブルの上の資料を閉じた。
「先生。お子さんのことは、きちんと確認したほうがいいと思います」
「……そうですよね」
「戸籍や手続きのことも含めてです。先生の知らないところで、話が進みすぎています」
そのときだった。
ダイニングルームから、莉子の笑い声が聞こえた。
続いて、慶太の声。
そして、亮介の優しい声。
「ほら、慶太。パパのところにおいで」
――パパ。
私は顔を上げた。
久世さんも、ぴくりと眉を動かした。
養父なのだから、パパと呼ばせても不思議ではない。
頭ではわかっている。
それなのに、胸の奥に重いものが沈んでいった。
久世さんが私を見つめた。
「先生、実は……」
彼はそこで言葉を止めた。
「何ですか?」
「入院中、亮介さんから何度かお電話をいただいたんです」
「主人から?」
初耳だった。
「はい。先生の連載や印税について、いくつか質問を受けました」
「印税……?」
「ええ。先生に万が一のことがあった場合、作品の権利や収入はどうなるのか、と」
背筋が凍りついた。
今朝、淑子が言った言葉がよみがえる。
――せっかく保険を掛けたのに、掛け損だわ。
死亡保険金。
印税。
作品の権利。
なぜ、私が生きている間に、そんな話ばかりしていたのだろう。
「それで、久世さんは何と?」
「会社の法務担当に確認する必要があるので、簡単にはお答えできないと伝えました。ただ……」
「ただ?」
久世さんは、いつになく険しい表情を浮かべた。
「亮介さんは、同じことを何度も確認されたんです」
「同じこと?」
「先生が亡くなった場合、印税は夫である自分に入るのか、と」
私は言葉を失った。
紅茶の香りが、急に気持ち悪く感じられた。
夫は私の病状を心配していたのではない。
少なくとも、あの電話では、私が死んだあとのお金を気にしていたのだ。
「……そんな」
声が震えた。
久世さんは申し訳なさそうに目を伏せた。
「もっと早くお伝えすべきだったかもしれません。ですが、ご療養中の先生に余計な心配をおかけしたくなくて」
「いいえ……教えてくださって、ありがとうございます」
私は唇を噛んだ。
昨日から感じていた違和感が、一本の線につながりかけていた。
私の知らない子供。
夫を「あなた」と呼ぶハウスキーパー。
勝手に掛けられた死亡保険。
私の死後の印税を気にする夫。
そして、昨夜の不自然な眠気。
偶然なのだろうか。
それとも――。
「先生」
久世さんが、さらに声を潜めた。
「これは私の考えすぎかもしれませんが……」
私は顔を上げた。
久世さんはダイニングルームの入口に視線を向け、誰もいないことを確かめた。
そして、私にだけ聞こえる声で囁いた。
「先生、あのお子さん、本当に養子なんでしょうか?」
私は答えられなかった。
そのとき、背後から声がした。
「……何の話をしているんだ?」
振り向くと、リビングの入口に亮介が立っていた。
その腕には慶太が抱かれている。
けれど、さっきまでの穏やかな笑顔は消えていた。
夫の視線は私ではなく、久世さんに向けられていた。
「久世さん。美月に、余計なことを吹き込まないでもらえますか」
余計なこと。
私はその言葉を、心の中で繰り返した。
自分の子供が誰なのか。
夫が私の死後のお金について何を調べていたのか。
それを知ろうとすることが、余計なことなのだろうか。
私はゆっくりと立ち上がった。
「亮介」
「何だ?」
「慶太くんの戸籍を見せて」
夫の顔から、すっと血の気が引いた。
そして、その反応を見た瞬間、私は確信した。
この家には、まだ私の知らない秘密がある。
しかもそれは、慶太の出生だけでは済まないのかもしれなかった。




