第八章 将来やりたいこと
高校三年。
春が過ぎ、夏が近づく頃。
学校では、少しずつ進路の話が増えていった。
「俺、○○大学受ける」
「私は推薦で決まりそう」
「卒業したら就職かな」
教室のあちこちで、そんな会話が聞こえる。
みんなが少しずつ未来を決めていく中で、ひよりだけは進路を決められずにいた。
「朝倉は、将来何になるの?」
友人に聞かれても、
「……まだ分からない」
と答えるしかなかった。
絵を描くことは好き。
でも、それを仕事にしていいのか。
全国四位になったこともある。
それでも、自分より上手い人はたくさんいる。
「好き」だけで仕事にできるほど、簡単な世界ではない。
そう思っていた。
ある日の放課後。
ひよりは美術室で一人、スケッチをしていた。
周りでは、受験勉強の話をする部員も増えている。
美術室も、以前より少し静かになっていた。
ひよりは鉛筆を動かしながら、何度も同じことを考えていた。
――卒業したら、どうしよう。
大学に行くのか。
普通に就職するのか。
それとも……。
「また悩んでる?」
「……!」
顔を上げると、あかりが立っていた。
「いつからいたの?」
「今来たところ」
「……嘘」
「バレた?」
あかりは笑いながら、ひよりの隣の椅子に座った。
「進路?」
「うん」
「まだ決まらない?」
「うん……」
ひよりはスケッチブックを閉じた。
「みんなはもう決めてるのに、私だけ何も決まってない」
「絵は?」
「え?」
「あんなに毎日描いてるじゃん」
ひよりは少し考えた。
「……描きたい」
「じゃあ、絵を仕事にしたら?」
ひよりの手が止まった。
「……私が?」
「そう」
「無理だよ」
「なんで?」
「絵だけで食べていける人なんて、ほんの一部だよ」
「うん」
あかりは頷いた。
「そうだね」
「……でしょ?」
「じゃあ、その一部を目指せばいいじゃん」
「簡単に言わないでよ」
ひよりは少しだけ声を強くした。
あかりは黙った。
しばらくして、ひよりが俯く。
「……ごめん」
「ううん」
あかりは、ひよりのスケッチブックを指差した。
「これ、何?」
「駅」
「綺麗だね」
「まだ途中だけど」
「ひよりが描く絵ってさ」
あかりは絵を見つめた。
「見てると、どこかに行きたくなるんだよね」
「……そう?」
「うん」
ひよりは黙って聞いていた。
「あのね」
あかりが続ける。
「私、ひよりが絵を嫌いになったときのこと知ってる」
「……うん」
「中学の頃は、絵の話をするだけで辛そうだった」
ひよりは目を伏せた。
「あの頃は、もう二度と絵なんて描きたくないって思ってた」
「でも、描いた」
「うん」
「高校に入っても?」
「うん」
「全国コンクールにも出た?」
「……うん」
「四位になって悔しくて泣いた?」
「……それは言わないで」
あかりが笑った。
「ごめん、ごめん」
少しの沈黙。
そして、あかりは真剣な表情で言った。
「だから今度は、絵を仕事にしても、絵を嫌いにならないでほしい」
ひよりは顔を上げた。
「……」
「ひよりが絵を描いてるとき、本当に楽しそうだから」
あかりは笑った。
「私は、その顔が好き」
ひよりの胸が少し熱くなった。
「……ずるいよ」
「何が?」
「そんなこと言われたら……」
ひよりは窓の外を見る。
夕焼けが校舎をオレンジ色に染めている。
幼い頃からずっと描いてきた。
楽しかった。
苦しかった。
嫌いになったこともあった。
それでも、結局また筆を握っている。
「……専門学校、探してみる」
「本当?」
「うん」
「やった!」
あかりが嬉しそうに笑った。
「じゃあ、明日から一緒に探そう!」
「受験するのは私なんだけど」
「知ってる」
「なんであかりがそんなに嬉しそうなの」
「ひよりの進路だから」
ひよりは思わず笑った。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
その日の帰り道。
ひよりはスマートフォンで「イラスト専門学校」と検索した。
画面には、いくつもの学校が表示される。
授業内容。
卒業後の進路。
現役のイラストレーター。
知らなかった世界が、そこには広がっていた。
「……こんな道もあるんだ」
ひよりは画面を見つめた。
まだ不安はある。
本当に仕事にできるのかも分からない。
それでも――。
初めて、自分から進んでみたいと思える未来が見えた。
ひよりはスマートフォンを握り直した。
「……やってみよう」
小さく呟く。
その瞬間。
ぼんやりしていた未来に、一本の道が見え始めた。
絵を描くこと。
それを仕事にすること。
そして、まだ知らない世界へ進むこと。
ひよりは歩きながら、少しだけ笑った。
――私、絵師になりたいのかもしれない。
その気持ちは、まだ小さかった。
けれど確かに、ひよりの未来を照らし始めていた。




