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第五章 放課後の一枚

高校では、美術部に入らなかった。


入学式の日。

部活動紹介で美術部の発表を見ても、ひよりは教室から動かなかった。


「美術部、見学行かないの?」


クラスメイトに聞かれても、


「ううん。私はいいかな」


と笑って答えた。


絵が嫌いになったわけではない。

むしろ、絵はまだ好きだった。

ただ、誰かと一緒に描くのが怖かった。

また比べられるかもしれない。

また誰かを傷つけるかもしれない。


そして何より――。


また、絵を嫌いになりたくなかった。

だから、ひよりは一人で絵を描くことにした。


放課後になると、教室に残る。

クラスメイトたちが帰っていく中、ひよりは机の上にスケッチブックを広げた。


窓の外が少しずつ夕焼けに染まっていく。

鉛筆を持つ。

誰にも見せる必要はない。

評価されなくていい。

賞もいらない。

ただ、自分のためだけに描く。


それだけでよかった。

最初は、何を描けばいいのか分からなかった。

けれど、毎日少しずつ描いているうちに、以前とは違う絵を描くようになった。


夕暮れの街。

誰もいない駅。

雨上がりの道路。

窓から見える景色。

昔のひよりなら、もっと華やかな絵を描いていた。

コンクールで評価されるような絵。

誰が見ても「上手い」と言ってくれる絵。


でも、今のひよりは違った。

誰かに褒められるためではなく、自分が描きたいと思ったものを描いていた。


ある日。

ひよりは窓の外を見ながら、一枚の絵を描いていた。


夕暮れの街。

オレンジ色の空。

建物の間から差し込む光。

そして、誰もいない歩道。


描き終わった頃には、教室はすっかり静かになっていた。


「……できた」


ひよりは小さく呟いた。

上手いかどうかは分からない。

でも、嫌いではなかった。

むしろ、少しだけ好きだった。


そのときだった。


「……何描いてるの?」


「!」


突然、後ろから声がした。

ひよりは驚いて振り返った。

そこには、一人の少女が立っていた。


「あ……ご、ごめん。勝手に見ちゃった」


少女は慌てて頭を下げた。


「……別に」


ひよりはスケッチブックを閉じた。


「でも、すごいね」


「……何が?」


「絵」


その言葉を聞いた瞬間、ひよりの表情が曇った。


「……上手くないよ」


「え?」


「私より上手い人なんて、いっぱいいるから」


少女は少し困ったような顔をした。


「そうなの?」


「うん」


「私、絵のこと詳しくないから分からないや」


「……」


ひよりは視線を落とした。

また「上手い」と言われると思っていた。

そして、また誰かと比べられると思っていた。


けれど。


「でも、私はこの絵、好き」


ひよりの手が止まった。


「……好き?」


「うん」


少女は笑った。


「なんか、寂しいけど優しい感じがする」


ひよりはゆっくりとスケッチブックを開いた。

そこには、さっき描いた夕暮れの街がある。

自分でも気づいていなかった。

この絵が、そんなふうに見えるなんて。


「……そう、かな」


「うん。私は好き」


少女はもう一度言った。

ひよりは何も答えられなかった。

けれど、胸の奥にあった重たいものが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。


「あ、そういえば自己紹介してなかった」


少女が笑う。


「私、水野あかり。同じクラスだよ」


「……知ってる」


「知ってたんだ」


「朝、自己紹介してたから」


「そっか」


あかりは机の横に鞄を置いた。


「朝倉さんは?」


「……ひより」


「じゃあ、ひよりちゃん」


「……ちゃん付け?」


「嫌?」


「……別に」


「じゃあ決まり」


ひよりは少しだけ笑った。

あかりは窓の外を見る。


「毎日ここで絵描いてるの?」


「うん」


「一人で?」


「うん」


「寂しくない?」


ひよりは少し考えた。


「……分からない」


昔なら、寂しいと答えていたかもしれない。

でも今は、一人で描く時間も悪くなかった。


「そっか」


あかりはそれ以上聞かなかった。

ただ、ひよりの描いた絵をもう一度眺めた。


「また見せてね」


「……いいけど」


「本当?」


「うん」


「じゃあ、明日も描く?」


「……たぶん」


「じゃあ、明日も見に来る」


「え?」


「だって、続き気になるから」


ひよりは目を丸くした。


「続き?」


「うん。この絵の続き」


「あれはもう完成したよ」


「そうじゃなくて」


あかりは笑った。


「ひよりちゃんが明日、どんな絵を描くのか気になるの」


「……」


ひよりは何も言えなかった。

ただ、不思議な気持ちだった。

誰かが、自分の絵の「次」を楽しみにしてくれている。

そんなことは、いつ以来だろう。


「じゃあ、また明日」


あかりは手を振って教室を出ていった。


「……また明日」


ひよりも小さく手を振った。


教室に一人残される。

いつもと同じ放課後。

いつもと同じ机。

いつもと同じスケッチブック。


なのに、何かが違っていた。

ひよりはもう一度、スケッチブックを開いた。

そして、白いページをめくる。


「……明日は、何描こう」


その言葉が自然に口から出た。


鉛筆を持つ。

紙の上に、一本の線を引く。

もう一本。

少しずつ形が生まれていく。

ほんの少しだけ。

胸が軽かった。


そして、その日から。

ひよりは放課後になると、以前より少しだけ早く教室へ向かうようになった。

絵を描くため。


そして――。


明日、あかりに見せるために。

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