第四章 絵が嫌い
三年生になった。
ひよりは、以前ほど絵を描かなくなった。
美術室に来ても、すぐに筆を持つことはなくなった。
周りでは、後輩たちが楽しそうに絵を描いている。
「ここ、どうしたらいいかな?」
「もう少し明るい色にしてみたら?」
「なるほど!」
そんな会話が聞こえてくる。
ひよりは、その輪の中に入ることができなかった。
机に向かっても、何を描けばいいのか分からない。
以前なら、描きたいものが次から次へと浮かんできた。
空を飛ぶ少女。
見たことのない街。
夕焼けの海。
物語の主人公たち。
頭の中には、いつもたくさんの世界があった。
けれど今は、何も浮かばない。
白い画用紙だけが、目の前にある。
「……」
筆を持つ。
紙に線を引く。
消す。
また描く。
そして、また消す。
「違う……」
何が違うのか、自分でも分からなかった。
描き直しても、描き直しても納得できない。
気がつけば、一枚の絵を描くのに何時間もかかっていた。
それでも完成しない。
ある日の放課後。
ひよりが一人で美術室にいると、後輩たちが入ってきた。
「先輩、まだいたんですか?」
「うん」
「何描いてるんですか?」
「……別に」
ひよりはスケッチブックを閉じた。
後輩は少し戸惑ったように笑い、
「じゃあ、お先に失礼します」
と言って出ていった。
扉が閉まる。
また静かになった。
ひよりは閉じたスケッチブックを見つめた。
昔は、誰かに絵を見てもらうことが嬉しかった。
「上手い」と言われると嬉しかった。
賞を取ることも嬉しかった。
なのに今は。
絵を見られることが怖い。
誰かと比べられることが怖い。
「上手い」と言われることさえ、苦しく感じる。
数日後、顧問の先生がひよりに声をかけた。
「最近、少し元気がないな」
「……そうですか?」
「ああ。前はもっと楽しそうに描いていた」
ひよりは黙った。
「何か悩んでいるなら、相談してくれていいんだぞ」
「……先生」
「ん?」
「私って……絵、上手いですか?」
先生は少し驚いた。
「もちろんだ」
「……そうですか」
「どうしてそんなことを聞くんだ?」
「分かりません」
ひよりは俯いた。
「上手いって言われるのが……最近、怖いんです」
先生は何も言わなかった。
ひより自身も、うまく説明できなかった。
ただ、胸の奥にずっと何かが引っかかっていた。
その日の帰り道。
ひよりは駅までの道を歩きながら、自分の手を見つめた。
この手で、昔は何でも描けた。
なのに今は、一本の線を引くことすら怖い。
「……どうしてこうなったんだろう」
答えてくれる人はいなかった。
ある夕方。
いつものように美術室に一人残ったひよりは、描きかけの絵を見つめていた。
そこには、一人の少女が描かれていた。
広い空の下に立ち、遠くを見つめている。
以前のひよりなら、ここからどんな景色を描くのか、すぐに思いついただろう。
けれど今は、何も浮かばなかった。
筆を持つ。
手が震える。
一本の線を引く。
気に入らない。
消す。
また描く。
消す。
また描く。
「……もう、いい」
筆を置いた。
静かな美術室に、筆が机に触れる音だけが響いた。
ひよりは絵を見つめた。
「昔なら、もっと楽しく描けたのに」
小さな声が漏れる。
「もっと自由だった……」
涙が一滴、画用紙の上に落ちた。
色が滲んだ。
ひよりは慌てて袖で拭った。
けれど、涙は止まらなかった。
「……なんで描いてるんだろ」
誰に聞くでもなく呟く。
「私……絵、好きだったよね」
返事はない。
美術室には、ひより一人しかいない。
しばらくして、ひよりは立ち上がった。
描きかけの絵を手に取る。
そして、ゆっくりと丸めた。
ぐしゃっ。
紙が潰れる音がした。
そのままゴミ箱へ入れる。
手を離した瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
まるで、絵だけではなく、自分の大切な何かまで捨ててしまったような気がした。
「……」
ひよりはゴミ箱を見つめた。
取り出そうと思った。
けれど、できなかった。
その日から、ひよりは美術室でほとんど絵を描かなくなった。
コンクールの話をされても、以前のようには喜べない。
賞を取った後輩を見ても、素直に「おめでとう」と言えない自分が嫌だった。
そんな自分が嫌になって、さらに絵から遠ざかっていった。
そして、卒業の日。
教室では、友達同士が写真を撮ったり、先生と話したりしていた。
ひよりも何人かのクラスメイトと別れの言葉を交わした。
最後に、ひよりは一人で美術室の前に立った。
扉の向こうには、三年間過ごした場所がある。
楽しかったこともあった。
初めて賞を取ったこと。
遅くまで絵を描いたこと。
新しい技法を覚えたこと。
そして、苦しかったことも。
誰にも話しかけられなかった日。
自分の絵を見ることさえ嫌になった日。
何度も筆を置いた日。
ひよりは扉に手を伸ばしかけた。
しかし――。
その手を静かに下ろした。
「……さよなら」
小さく呟く。
そして、振り返った。
もう一度だけ美術室を見ようとはしなかった。
ひよりはそのまま廊下を歩いていった。
高校では、もう美術部には入らない。
そう決めていた。
絵も、しばらく描かなくていい。
そう思っていた。
――このときのひよりは、まだ知らなかった。
高校の放課後。
誰もいない教室で、一人の少女と出会うことになるとは。
そして、その出会いが、止まっていたひよりの筆をもう一度動かすことになるとは。




