第三章 ひとりぼっちの美術室
中学校に入学したひよりは、迷わず美術部に入った。
入部初日。
美術室の扉を開けた瞬間、絵の具の匂いが鼻をくすぐった。
窓から差し込む夕日。
机の上に並ぶ筆。
壁に飾られた先輩たちの作品。
使い込まれたパレット。
そのどれもが、ひよりには宝物のように見えた。
「ここなら、もっと絵が好きになれる」
そう思った。
先輩たちも優しかった。
「朝倉さんって、絵が好きなんだね」
「はい!」
「じゃあ、これから一緒に頑張ろうね」
「よろしくお願いします!」
最初の頃は、本当に楽しかった。
放課後になると、ひよりは誰よりも早く美術室へ向かった。
窓際の席に座り、スケッチブックを開く。
部員たちと好きな絵師の話をしたり、描いた絵を見せ合ったりもした。
「朝倉さん、これどうやって描いたの?」
「そこはね、最初に薄い色を塗ってから……」
「へえ! すごい!」
そんなふうに頼られることも嬉しかった。
ひよりは、自分の知っていることを一生懸命教えた。
そして、みんなで一枚の絵を完成させたときには、まるで自分のことのように喜んだ。
――ここが私の居場所になる。
ひよりはそう思っていた。
しかし、夏頃から少しずつ変化が起き始めた。
学校のコンクールに出す作品を決めることになった。
部員たちは、それぞれ自分の作品を顧問に見せていく。
最後に、ひよりの番が来た。
「うん。朝倉の作品を出そう」
顧問が迷いなく言った。
「ありがとうございます」
ひよりは嬉しかった。
けれど、その横にいた部員たちは、どこか複雑そうな表情をしていた。
数週間後。
結果が発表された。
「朝倉さんの絵、県大会まで行ったって!」
「すごい!」
最初は、みんなが祝福してくれた。
「おめでとう!」
「ありがとう!」
ひよりも嬉しかった。
けれど、次のコンクールでも、ひよりの作品が選ばれた。
さらに、その次でも。
気づけば、部内で賞を取るのは、ほとんどひよりだけになっていた。
「また朝倉さん?」
「すごいねー」
言葉だけを聞けば、褒めているようだった。
けれど、声には少しずつ温度がなくなっていった。
ある日の部活。
ひよりが嬉しそうに賞状を持ってくると、一人の部員が言った。
「また賞取ったんだ」
「うん。ありがとう」
「いいよね、朝倉さんは」
「え?」
「何描いても評価されるじゃん」
ひよりは笑顔のまま固まった。
「そんなことないよ」
「そんなことあるでしょ」
別の部員が小さく笑った。
「どうせ次も朝倉さんが選ばれるよ」
「私たちが出しても無駄じゃない?」
「……そんなことないよ」
ひよりはもう一度言った。
「みんなの絵も、それぞれ良いところがあるし……」
「じゃあ、朝倉さんはそう思ってればいいじゃん」
返ってきた言葉は冷たかった。
ひよりは何も言えなくなった。
その日から、少しずつ会話が減っていった。
「今日、一緒に帰ろう」
そう誘おうとしても、部員たちはいつの間にか別の友達と帰っている。
「次のコンクール、何描く?」
話しかけても、
「まだ決めてない」
それだけで会話が終わる。
昼休み。
美術室で一人、弁当を食べる。
最初は「たまたま」だと思っていた。
でも、それが何日も続いた。
放課後。
他の部員たちは机を囲んで楽しそうに話している。
ひよりは少し離れた場所で、一人で絵を描いていた。
聞こえてくる笑い声に混ざりたい。
そう思っても、自分から入っていく勇気が出なかった。
文化祭が近づいた頃。
美術部では、教室の壁に飾る大きな作品を制作することになった。
「みんなで描こう!」
最初はそう言っていたのに、いつの間にかひよりには別の作業が任されていた。
「朝倉さんは、この部分お願い」
「……うん」
ひよりが一人で絵を描いている間、他の部員たちは楽しそうに作業をしていた。
ひよりは何度もそちらを見た。
でも、誰もこちらを見てくれなかった。
完成した作品は、文化祭で大きく展示された。
多くの生徒が、
「すごい!」
「綺麗!」
と足を止めた。
ひよりも嬉しかった。
でも、その喜びを誰かと分かち合うことはできなかった。
片付けが終わったあと。
美術室に戻ったひよりは、一人で作品を眺めた。
「……綺麗なのにな」
小さく呟く。
なぜか、胸の中は空っぽだった。
ある日の放課後。
ひよりが美術室へ向かって廊下を歩いていると、中から部員たちの話し声が聞こえてきた。
「朝倉さんってさ」
「うん」
「絵は上手いけど……なんか一緒にやりづらいよね」
「分かる」
「悪い人じゃないんだけどね」
「でも、何か話しかけづらい」
ひよりの足が止まった。
扉の向こうから笑い声が聞こえる。
手に持っていた筆箱を、ぎゅっと握った。
「……」
扉を開ければいい。
ただそれだけなのに、手が動かなかった。
胸の奥が苦しくなる。
やがて、ひよりは静かに一歩後ろへ下がった。
そして、そのまま廊下を歩いていった。
誰にも気づかれなかった。
その日から、ひよりは美術室に入る前に一度深呼吸するようになった。
扉の前で立ち止まる。
息を吸う。
ゆっくり吐く。
そして、
「大丈夫……」
と小さく呟いてから、扉を開ける。
けれど、どれだけ深呼吸をしても、孤独は消えなかった。
むしろ、日を追うごとに大きくなっていった。
ひよりはまだ知らなかった。
自分が大好きだった「絵」というものが、少しずつ自分を苦しめる存在へと変わり始めていることを。




