第十四章 新しいアトリエ
さらに数年が過ぎた。
ひよりは、もう「若手」と呼ばれなくなっていた。
書籍の表紙を飾る作品。
ゲームやアニメの仕事。
企業とのコラボレーション。
そして、自身のオリジナル作品。
多くの人が、ひよりの名前を知っていた。
イベントに出れば、たくさんのファンが集まる。
SNSには、毎日のように作品への感想が届く。
昔、誰にも見られたくなかった絵は、今では多くの人に愛されている。
それでも。
ひよりには、まだ叶えたい夢があった。
ある夜。
二人はいつものように、ひよりの仕事場で話をしていた。
机の上には、いくつもの資料。
事業計画書。
会社設立に関する書類。
新しい仕事の企画書。
あかりは資料を眺めながら首を傾げた。
「これ、何の資料?」
ひよりは少し緊張したように答えた。
「……会社を作ろうと思う」
「会社?」
「うん」
「あの、私たちで?」
「そう」
あかりは目を丸くした。
「どうして?」
ひよりは少し考えてから、資料の一枚を指差した。
「今の仕事を続けてると、私一人じゃできないことが増えてきたから」
依頼を断らなければならないことも増えた。
若いイラストレーターから相談を受けることも増えた。
「それにね」
ひよりは続けた。
「昔の私みたいな人を、少しでも減らしたい」
「……中学の頃のこと?」
「うん」
ひよりは美術室の窓を思い出していた。
一人で弁当を食べたこと。
誰にも話しかけられなかったこと。
絵が上手いことが、いつの間にか孤独につながっていたこと。
絵が上手くなるために、絵を嫌いになる人がいてほしくない」
ひよりは資料を見つめた。
「失敗してもいい場所を作りたい」
「……」
「上手い人も、まだ上手くない人も、一緒に描ける場所」
あかりは黙って資料を読んでいた。
「絵を描く人が、絵を嫌いにならない場所を作りたい」
ひよりは、ゆっくりと顔を上げた。
「それが、私の次の夢」
あかりはしばらく何も言わなかった。
そして、資料を机に置いた。
「……ひより」
「何?」
「それ、私も一緒にやっていい?」
ひよりは少し驚いた。
「もちろん」
「本当に?」
「だって、最初からそのつもりだったし」
「……そっか」
あかりは笑った。
けれど、その笑顔には少しだけ寂しさが混じっていた。
「どうしたの?」
「ううん。何でもない」
「何かあるでしょ」
「……じゃあ、一つだけ言っていい?」
「うん」
あかりは少し迷ってから、ひよりを見つめた。
「私ね」
「うん」
「ひよりのこと、友達としてだけじゃなくて……好きなんだ」
ひよりは目を瞬かせた。
「……え?」
「あ、ごめん。急に言って」
「いや……」
あかりは少し顔を赤くした。
「ずっと言おうか迷ってた」
「いつから?」
「高校の頃から……たぶん」
「そんな前から?」
「うん」
ひよりは驚いたまま、黙っていた。
あかりは慌てて続ける。
「だからって、今すぐ答えてほしいわけじゃないよ」
「……」
「ただ、会社を一緒に作るなら、ちゃんと伝えておきたかった」
しばらく沈黙が続いた。
ひよりは窓の外を見た。
昔から、あかりは隣にいた。
絵を褒めてくれた。
美術部に戻るきっかけをくれた。
専門学校を選ぶときも応援してくれた。
フリーランスになったときには、助手として支えてくれた。
成功したあとも、何も変わらず隣にいた。
ひよりはゆっくりと笑った。
「……ありがとう」
「うん」
「正直、まだ自分でもよく分からない」
「うん」
「でも」
ひよりは、あかりの手をそっと握った。
「これからも、隣にいてほしい」
あかりの目が少し潤んだ。
「……それって」
「私にとって、あかりは大切な人だから」
「……うん」
二人はしばらく、そのまま笑っていた。
恋人になるのか。
今まで通りの親友でいるのか。
その答えは、まだ二人にも分からない。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
二人はこれからも、一緒に歩いていく。
それから数か月後。
二人は会社を設立した。
会社の名前は――。
株式会社アトリエ・アカシア。
新しい事務所には、まだ何もない。
真っ白な壁。
新しい机。
何も描かれていない大きなホワイトボード。
ひよりは窓を開けた。
春の風が、部屋の中に吹き込んでくる。
「ここから始まるんだね」
あかりが言った。
「うん」
ひよりは笑った。
「アカシアって、友情って意味があるんだって」
「知ってる」
「それに、新しい始まりって意味もあるらしいよ」
「……私たちにぴったりだね」
二人は顔を見合わせた。
ひよりは新しい机にスケッチブックを置く。
そして、最初のページを開いた。
「何描くの?」
あかりが尋ねる。
「まだ決めてない」
「また?」
「うん」
ひよりは笑った。
「でも、これから決める」
鉛筆を握る。
幼稚園で初めて絵を描いた日から、長い年月が過ぎた。
全国一位になった。
絵を嫌いになった。
一人で描いた。
もう一度、絵を好きになった。
専門学校へ行った。
会社員になった。
フリーランスになった。
たくさんの人に絵を届けた。
そして今――。
自分と同じように絵を描く人たちのための場所を作った。
ひよりは、真っ白な紙に一本の線を引いた。
隣では、あかりが笑っている。
もう、ひよりは一人ではない。
そしてこれからも。
二人の物語は、まだ終わらない。
新しいキャンバスに、二人の未来が描かれ始めていた。




