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第十二章 コミケ

そして、運命の日が来た。


フリーランスになってから、ひよりはずっと考えていた。

自分の絵を、もっと多くの人に見てもらいたい。

仕事として描くだけではなく、自分自身が描きたい物語を形にしたい。

そんな思いから、初めて本格的なオリジナル同人誌を作ることにした。


 タイトルは――。


『夜明けの向こう側』


一人の少女が、誰もいない世界を旅していく物語。

寂しい街。

誰もいない駅。

雨の降る夜。

そして、少しずつ明るくなっていく空。


主人公は、ひより自身だった。


誰にも理解されず。

一人で悩み。

何度も立ち止まり。

それでも絵を描き続ける少女。


ひよりは、何度も原稿を描き直した。


「この表情、もう少し変えたい」


「昨日もそこ直してなかった?」


「うん。でも、まだ違う気がする」


「ひより、こだわりすぎじゃない?」


「だって初めての本だから」


あかりは呆れながらも、最後まで付き合った。

印刷所にデータを送った夜。

ひよりはパソコンの画面を見つめた。


「……終わった」


「本当に?」


「うん」


「じゃあ、寝よう」


「……眠れない」


「なんで?」


「ちゃんと本になるのかなって」


「なるよ」


あかりは笑った。


「もうデータ送ったんだから」


数日後。

届いた段ボールを開ける。

中から一冊取り出す。

表紙には、自分の絵。

そして、自分の名前。


「……できた」


ひよりは本を両手で抱えた。

画面の中で描いていたものが、初めて本という形になった。


「すごいね」


あかりが言う。


「うん……」


ひよりは何度も表紙を撫でた。


そして、コミックマーケット当日。

会場には、朝から大勢の人が集まっていた。

ひよりたちのスペースには、完成した同人誌が積まれている。


「……本当に売れるかな」


ひよりが小さく呟いた。


「売れるよ」


あかりが即答する。


「根拠は?」


「私が好きだから」


「それ根拠になってないよ」


「じゃあ、ひよりの絵を好きって言ってくれた人もいる」


「……うん」


「だから大丈夫」


ひよりは少し笑った。


「そうだね」


そして――。


開場。


「お願いします!」


最初のお客さんがやって来た。


「『夜明けの向こう側』一冊ください」


「……はい!」


ひよりは少し震える手で本を渡した。


「ありがとうございます!」


「こちらこそ」


その一言が、胸に残った。


また一人。


「これ、新刊ですか?」


「はい!」


「絵、すごく好きです」


「……ありがとうございます」


また一冊。

さらに一冊。

気づけば、次々と人がやって来る。


「すみません、二冊ください」


「ありがとうございます!」


「サインお願いできますか?」


「えっ……サイン?」


ひよりは固まった。

あかりが横から小声で言う。


「ひより、サイン」


「分かってる!」


慌ててサインを書く。

手が震えて、少し曲がってしまった。


「すみません、字が……」


「大丈夫です! 嬉しいです!」


その言葉に、ひよりは少しだけ笑った。

しかし、その後も人は増えていった。


「すみません、最後尾はこちらです!」


あかりが列を整理する。


「ひより、在庫あと何冊?」


「えっと……」


段ボールを確認する。


「……少ない」


「追加、出そう!」


「うん!」


ひよりは慌てて本を補充した。

昼を過ぎても、人の流れは止まらない。

ひよりは何度も「ありがとうございます」と言った。

声が少しかすれてきた。

それでも、嬉しかった。


「……あかり」


「何?」


「人、多くない?」


「多いね」


「……怖い」


「今さら?」


二人は顔を見合わせて笑った。


そして――。


「すみません!」


最後の一冊を手に取った人が言った。


「これで終わりですか?」


「……はい」


ひよりは残った机の上を見た。

何もない。


「……完売」


その言葉が、なかなか現実にならなかった。


「完売……?」


「うん」


あかりが頷いた。


「全部売れたよ」


ひよりはしばらく黙っていた。

そして、ゆっくりと顔を伏せた。


「……私の絵を」


声が震える。


「こんなにたくさんの人が……」


涙がこぼれた。


「読んでくれたんだ……」


あかりは何も言わなかった。

ただ、ひよりの肩を優しく叩いた。


「……よかったね」


「うん……」


ひよりは涙を拭った。


「本当に、よかった……」


その日の夜。

二人は疲れ切った体で帰宅した。

机の上には、空になった段ボール。

そして、売り切れた同人誌の記録。


「今日はすごかったね」


あかりが言う。


「夢みたい」


ひよりは椅子に座ったまま呟いた。


「明日になったら、全部夢だったりして」


「じゃあ、頬つねってあげようか?」


「痛いのは嫌」


「じゃあ夢じゃないね」


二人で笑う。

そのとき。

ひよりのスマートフォンが鳴った。


「……メール?」


画面を開く。

一通のメールが届いていた。

差出人の名前を見て、ひよりの表情が変わった。


「……あかり」


「ん?」


「これ……」


大手制作会社からだった。

メールには、ひよりの作品を見たこと。


そして――。


仕事を依頼したいという内容が書かれていた。


「……」


「どうしたの?」


「仕事」


「え?」


「仕事の依頼……」


ひよりは震える手で画面を見せた。

あかりは目を丸くした。


「……本当に?」


「うん」


二人は顔を見合わせる。

そして。


「……やったね」


「うん」


それ以上の言葉は必要なかった。

ひよりはもう一度、スマートフォンの画面を見る。

そのメールは、確かにそこにあった。

幼い頃、絵を描くことが好きだった少女。

一度は絵を嫌いになった少女。

もう一度絵を好きになり、絵を仕事にすると決めた少女。

その歩みが、初めて大きな世界につながった瞬間だった。


ひよりは窓の外を見る。

夜の街が静かに輝いている。


「……まだ、これからだね」


ひよりが言った。


「ああ」


あかりが笑う。


「これからだよ」


その夜、二人は遅くまで話し続けた。

まだ誰も知らない未来について。

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