↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/16

第十章 会社員という経験

専門学校を卒業したひよりは、イラスト制作会社に入社した。


入社初日。

真新しい社員証を首から下げ、ひよりは緊張しながら自分の席に座った。


「今日からよろしくお願いします」


「こちらこそ。分からないことがあったら聞いてね」


先輩社員が笑顔で声をかけてくれた。


「はい!」


ひよりは大きく頷いた。

これから、絵を描くことが仕事になる。

そう思うと、胸が高鳴った。


けれど――。


現実は、思っていたよりずっと厳しかった。

最初に任された仕事は、小さな広告用イラストだった。


「まずはラフを三案お願いします」


「三案……?」


「はい。今日の夕方までに」


「分かりました!」


ひよりは必死に描いた。


一枚。

二枚。

三枚。


ようやく完成させて提出する。


「お疲れさまです」


返ってきたのは、数時間後だった。


「この案でお願いします。ただ、ここをもう少し明るくできますか?」


「はい」


「あと、キャラクターの表情を変更してください」


「分かりました」


「それと、背景も少し調整を」


「……はい」


ひよりは修正作業に戻った。


提出する。

また修正が来る。

修正する。

また別の修正が来る。


「ここ、もう少し柔らかい感じで」


「はい」


「やっぱり最初の案に戻しましょう」


「……はい」


パソコンの画面を見つめながら、ひよりは何度も息を吐いた。

自分が描きたい絵だけを描けるわけではない。

自分の好きな色を使えるわけでもない。


納期がある。

予算がある。

クライアントの希望がある。


それまで知らなかった「仕事として絵を描く」という現実が、少しずつ見えてきた。


ある夜。

時計を見ると、午前一時を過ぎていた。


「……まだ終わらない」


ひよりは目をこすった。

明日の朝までに提出しなければならない。

眠気をこらえながら、もう一度画面を見る。

ふと、専門学校時代のことを思い出した。


好きな絵を描いていた時間。

友達と作品を見せ合ったこと。

あかりと喫茶店で話したこと。


「……絵を仕事にするって、こういうことなんだ」


少しだけ苦笑した。

それでも、仕事を辞めようとは思わなかった。


描きたくない絵を描くこともあった。

何度も修正した。

失敗して怒られたこともあった。

自分の実力不足を思い知らされることもあった。


けれど、そのたびに新しい技術を覚えた。

先輩の仕事を見て学んだ。

クライアントの要望を形にする方法を覚えた。

何より、「絵を仕事にする」ということが少しずつ分かっていった。


入社して三年目。

ひよりは、以前よりずっと速く、そして正確に絵を描けるようになっていた。


ある日、仕事を終えたひよりに先輩が声をかけた。


「朝倉さん、最近すごく上手くなったよね」


「本当ですか?」


「うん。最初の頃とは別人みたい」


ひよりは嬉しそうに笑った。


「ありがとうございます」


その夜。

ひよりは帰宅してから、自分の作品フォルダを開いた。


学生時代に描いた絵。

会社に入って最初に描いた絵。

そして、最近描いた絵。


並べてみると、自分でも分かるほど変わっていた。


「……三年か」


ひよりは画面を眺めた。


たくさん学んだ。

たくさん失敗した。

そして、たくさん描いた。


だからこそ。

胸の奥に、ある気持ちが生まれていた。


――自分の絵で勝負してみたい。


翌朝。

ひよりは会社の上司の前に立っていた。


「少し、お話があります」


「どうした?」


「……退職したいです」


上司は驚いた顔をした。


「本当に辞めるのか?」


「はい」


「何か不満がある?」


「そういうわけじゃありません」


ひよりは首を横に振った。


「ここでたくさん勉強させてもらいました」


「じゃあ、どうして?」


ひよりは少し考えた。


「自分の絵だけで、どこまでできるのか試してみたいんです」


上司はしばらく黙っていた。


そして、


「……朝倉さんらしいな」


と笑った。


「頑張れよ」


「ありがとうございます」


退職の日。

同僚たちが小さな送別会を開いてくれた。


「朝倉さん、フリーになるんでしょ?」


「はい」


「すごいなあ」


「正直、怖いですけど」


「でも朝倉さんなら大丈夫だよ」


花束を受け取ったひよりは、少し泣きそうになった。


「三年間、ありがとうございました」


会社を出る。

見慣れたビルを振り返る。

辛いことも多かった。

でも、ここで過ごした三年間がなければ、今の自分はいない。


「……ありがとうございました」


ひよりは小さく頭を下げた。

そして歩き出す。


会社を出た日。

ひよりは空を見上げた。


青かった。


どこまでも広く、雲一つない空。

その色を見て、ひよりはふと思い出した。

小学生の頃に描いた「未来」の絵。

あの絵の中にも、こんな青空を描いた。

あの頃は、未来がどんなものなのか何も知らなかった。

ただ、行ってみたいと思っていた。


「……今度は、自分で描くんだ」


ひよりは笑った。

会社員としての三年間を終えた少女は、

今度こそ、自分自身の名前で絵を描くために歩き出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。