九章 天使の涙
「それが実に傑作でな」
「まぁ!ふふ……」
「ははは……」
収監されて以来の満面の笑みについ舌が回る。御両親は娘の話は勿論、保護者の私についても聞きたがった。請われるまま防衛団の仕事を話す内、すっかり時間を忘れていたようだ。
「こんな所にいやがったのか」
ドスの効いた声が聞こえた瞬間、魂にも関わらず二人は一瞬で死にそうな程蒼褪めた。これから行われるかもしれぬ拷問を予感したせいだ。
私は素早く立ち上がり、大丈夫だ、すぐに追い払う、彼女等を安心させるために告げた。
「わざわざ捜してやってたんだぞ」
「そうか。もう戻る」
硬直した夫婦に笑顔で手を振った後、さっさと牢の前から離れる。追憶回廊を戻り始めた私の後に付き、奴は早速愚痴を言い始める。
「おい、囚人共と何話してたんだ?」
「リサの事を少し。別に構わないだろう?私は鍵を持っていないし、仮に何らかの手段で脱獄させられたとしても、肉体を失った彼等に最早行き場は無い」
「水晶宮には予備の義体があるぞ」
「二人は赤子のリサを無理心中に巻き込もうとした負い目がある。逃げようとも思わないさ」
罪の意識は見えぬ鎖で人を縛り付ける。尤も、私達は御両親の想いとは全く別なつまらない理由、信仰の差異から生命を奪ったのだが。
濃霧の回廊は、人によっては死した想い人、追憶の影を見せる。生憎私や奴は行きと同様誰にも会わずに抜け、水晶宮へ入った。
「何であんな顔してやがった?」
「?何の事だ?」
「笑ってたじゃねえか、囚人相手に」
「妹の話を仏頂面でする人間がいるか普通」
「なら俺相手に無表情か精々冷笑しか浮かべねえのはどう言う了見だよ、ケッ!」
「それが人格の差だ」
調整室のドアを開けた途端、突然奴が前へ回り込んできた。両腕を掴まれて壁に身体を押し付けられ、アルコール臭の無い唇が被さる。熱い。
「……ぐっ……だから」
力任せに頭を引き剥がしながら呟く。
「あぁ?」
「これだから冷笑の域を出ないのだ、貴様は……!」
暴力でしか自己表現の出来ぬ者が、おこがましい。
「このアマァ!?」
殴られるかと思いきや、腕は一向に振り上がらない。代わりにザラザラの頬が首筋、耳朶へ押し当てられる。ぬめった熱を持ち、実に不快だ。
「止めろ、気持ち悪い。したいなら風俗に行け」
「五月蝿え」
「当たり前だ。私はダッチワイフでない、魂の入ったの人形なのだからな。叫びもすれば抵抗もする」
「ケッ!相変わらず興が削がれる事ばっかぬかす女だ」
そう言い捨てると、奴は自分から身体を離した。私は水差しを満タンにし直し、コップと共に点滴台へ置いて硬い寝床で横になる。家のスプリングが効いたベッドがいい加減恋しい。それに、
(もうここへは戻りたくない)
クレオ殿達と知り合い、妹が変化し始めたせいだろうか。日に日に己の矛盾が辛くなってきた。友人でいながら咽喉笛に牙を突き立てる真似など、不器用な私には到底耐えられない。
(こいつも最近様子がおかしいしな)
無い頭で別離を予兆しているのかもしれない。昔の夢を見るようになったのも、決別の意志が芽生えたせいやもしれん。
「おい人形」
横の椅子に腰掛け、何処から取り出したのかウィスキーの瓶へ直に口を付ける。
「また無茶な飲み方を。二日酔いしても知らんぞ」
「ケッ!澄ましやがって。泣かせてやろうか、あぁ?」
「フン」
無視して目を閉じる。普段余り喋らないので、今日は話し疲れた。目が覚めたらまた訪ねよう。赤ん坊の頃の思い出話がまだ途中だ。
沈黙の中、液体を嚥下する奴の咽喉の音だけがクリスタルの部屋に響く。
「明後日の朝に帰る。適当な船着場まで運んでくれ」
「とうとう手前の陰気な面も見納めか。清々するぜ」
「ああ。私もやっと人間らしい生活に戻れて非常に嬉しい」
さて、今から何処へ顔を出すか考えておかないと。まずは自宅へ戻ってリサの様子を見、その後副聖王と防衛団へ報告を入れる。LWP調査部、特にクレオ殿とデイシー殿は妹の面倒を見てくれた恩人だ。迷惑代に菓子でも買って帰ろう。
パタッ。
予期せぬ音に反射的に瞼が開く。
「?おい……飲み過ぎで鼻血でも出し―――!」
赤い液体は鼻より上、右目から流れてシーツに落ちていた。――血の涙。泣く事をプログラムされていない四天使は、悲しみを表現する際こうした無理が出る。だがこいつが流すのは初めて見た。奴の心優しい同胞、今は大広間の冷たく硬い棺桶で眠っている彼、はちょっとした事でよく純白の法衣を汚していたが……。
「急にどうした?アルコールの回りが早いのか?」まだ頬はそこまで赤くない。「取り敢えず拭け」
手元にあったガーゼを渡すと、まるで子供のように頷いた。白目まで真っ赤に染まった右目を拭う。
「今日はもう飲むな。急な任務が発生したらどうする?あの天使はまた下界に行ってしまったし、今動けるのはお前だけなんだぞ?」本来なら酒など飲める立場ではない。
「主人に説教とは、手前も随分偉くなったもんだな……わーったよ。もう寝る」
そう言って奴は両腕を広げ、酒臭い息を吐きながら私を抱き締めた。
「おい!」
「添い寝ぐらいで何をギャーギャー言ってる。どうせ明後日には可愛らしい餓鬼と機械人形の所に帰れるんだ。これぐらい我慢しろよ……」
左手が乳房に触れる。
「硬ってえな。大胸筋付け過ぎだ。ゴムの塊みてえ」
やわやわ揉みながらぼやく。
「仕方ないだろう。ハルバートを自在に振るには必要不可欠な筋肉だ」
「萎える事言うなよ。手前は何処も彼処もガチガチで、ちっとも女らしくない」臀部に右手を回す。「ここも鉄みてえに一ミリも指が入らねえし」
「鍛錬が必要だと言ったのはお前だろうに、支離滅裂な事を」
バンッ!奴を押し退け、強制的に床へ転がした。アルコールが回って膝が立たないらしい。しつこくシーツを掴む手を払い除ける。
「いい加減にしろ変態。今度睡眠の邪魔をしたら、外へ引き摺っていって下界へ落とすぞ」
宣言し瞼を強く閉ざす。もう知った事か。
「人形?……おい、何か喋れよ」
唇を締め、身体中から力を抜いて睡魔を促す。
「黙ってるとやらしい悪戯するぞ。いいのか……こら」
段々弱気になる声。そうか、初めから応じなければ良かったのだな。
接吻されても微動だにしない私に、奴はとうとう諦めて床へ戻った。水晶の上でゴロゴロ転がる度、ガチャガチャと腰に提げた剣の鳴る音が聞こえる。
「あぁ、くそ……人形のくせに主人を無視しやがって」
シーツを引いて起こそうとしていたが、やがて止めた。
「ええと……どうやったらこれみてえに甘えてきやがるんだ?」
挙句持ち主の許可も得ず、勝手にパラパラ雑誌のページを捲りだす始末。唸る、床を叩く、禿げんばかりに頭をガシガシ掻く。凡そ少女漫画を読む態度ではない。
(それを参考にしてどうする……)
描かれたシュチュエーションは現実にはまず有り得ない。そう教えてやった所で素直に聞くとも、まして理解出来るとも思えない。何せこいつには戦闘スキルしかなく、人間的な感情(優しさや哀れみ、慈しみ等々)加えて非戦闘技術も常識もインプットされていないのだ。平時に限れば四天使の中で最も役立たずと言える。
「成程、腕枕……それなら道具も要らねえか」
言うなり私の身体を奥へ押しやり、狭い寝台の左側で横になった。右腕を首の後ろに入れ、酒臭い息を吐く。
「これで起きたらイチコロだな」
馬鹿だ。正真正銘の大馬鹿者だ。狸寝入りで筒抜けとも知らず。
「さてと、寝る前にもう少し勉強しておくか」
一度は目を通したし、もう雑誌はくれてやろう。何なら家のバックナンバーも、古紙回収兼で纏めて送り付けてやるか。
(要は絡まれなければいいのだ)
私の出した結論も知らず、水族館に動物園か、奴は無邪気にフィクションに浸っていた。